桜乃記-さくらのき-

九州に住む、しがない若手サラリーマンが書きつらねた現代の随筆。
日本名刺研究会(会員数2名)の代表でもあります。

おばあちゃんの満州記③~流転の日々~

2009-01-16 | おばあちゃんの満州記
そんな生活の中、泰子は洋裁の才能を見込まれて、朝鮮人の商店に働きに出たりもした。
ロシア人向けの洋服を日夜縫い、賃金の三分の二は華頂寺の日本人へ送り、三分の一は自分の取り分となった。

華頂寺での生活が長引くある日、泰子は発疹チブスにかかった。
42度の高熱にうなされ、気がついたときには隔離室にいた。
生死の境をさまよったが、幸い周りの助けもあって何とか回復した。


しかしこのまま朝鮮にいたのでは危ないということで、また満州の奉天を目指して
一行は出立することになったのである。
昭和20年12月末の出来事である。

泰子は病み上がりでふらふらになりながらも、大八車に乗せてもらい、駅に着くことが出来た。
靴は、病にかかるやいなや取られたため、履物はなんと便所の下駄であった。

貨車は奉天へ向けて出発したが、途中満州の安東(現在の丹東)で止まった。
満州と朝鮮の国境の都市である。
零下20度の世界の中、世話人の介添えで乗客たちは何とか三々五々、日本人の家に宿を借りることとなった。

泰子と、避難生活で長く連れ添った友人の松田千代乃が宿を借りたのは、老夫婦のお宅であった。
老夫婦にとって、大晦日の来客である。
おじいさんは年金で生計を立てている北関東のひとであった。

泰子と千代乃はしばらくそこでお世話になることとなった。
発疹チブスでなまっていた足もようやく直りかけたので、ある日泰子は
老夫婦のためにお金を得ることを考えた。
大福餅の行商である。

泰子と千代乃は毎朝、中国人から餅を数十個仕入れ、市を歩いて売りまわった。
泰子は右へ、千代乃は左へと別れ、昼には元の場所へ戻ってくるのである。
零下20度なので、早く売らないと餅が固くなってしまうのだが、不思議と2人が売る餅は売れた。

初日の仕事が終わると、泰子らは意気揚々と売れた利益を持って老夫婦のもとへ帰った。
しかし売り上げを差し出すと、老夫婦はかたくなに拒んだ。
「帰国の際にお金が要るだろう、取っておきなさい」
老夫婦は無欲で暖かい人間であった。


ある日、いつも通り餅を売り歩いていると、鳥打帽をかぶった3,40代の日本人の男性が現れた。
なんと、泰子の餅をすべて売ってくれという。
こんな僥倖もあるのだなと、泰子はお金を受け取った。
するとその男性はこう言ったのだ。
「さあ、おなかが空いているだろう、食べなさい」
なんと自分が買った餅すべてを泰子にくれたのだ。
そう言い残すと、疾風のように男性は消えていった。

泰子と千代乃は顔を見合わせながらも、もらった大福にかぶりついた。
「こんなおいしい食べ物が、世の中にあったのか!」
それは、いつも腹の空かせた彼女らにとって、何にも勝るご馳走であった。
2人は一つずつだけ食べ終えると、健気にも残った餅はまた売り歩くのだった。


ある日、泰子は千代乃と二人で、弁護士一家の病気の世話をしに行くことになった。
それは老夫婦の知り合いの弁護士であり、発疹チブスが発病していたのだが、
既往歴のある泰子と千代乃に白羽の矢がたったのだ。

いざ行ってみると、本人をはじめ婦人、ならびに子供五人すべてが病に臥せって混濁状態である。
正確に言うと子供は6人であったが、抵抗力の無い赤ん坊は泰子が来たときにはすでに冷たくなっていた。

泰子と千代乃の初仕事は、赤ん坊を弔うことであった。
泰子は木のりんご箱に小さな赤ちゃんを入れ、周辺の地理に詳しい近所の人に弔いを頼んだ。
水葬が主の当時、満州と朝鮮国境の川、鴨緑江(おうりょっこう)に赤ん坊は帰っていった。


幸い看病の甲斐があり、2週間ほどで弁護士一家は全快した。
泰子と千代乃は居間の押入れの天井裏に隠されていたお金を一人百円ほどもらい、
弁護士宅を後にした。

そしてそのまま老夫婦のもとへあいさつも出来ないまま、また動き始めた貨車に乗って懐かしき奉天へ戻ってきたのである。
奉天での住まいは、満州軍の大尉だった人の家であった。
この家の主である堀夫婦は、先ほどの老夫婦とは打って変わった人物であった。
すなわち泰子は、ひたすら働かされる運命となったのである。

朝起きると水道が凍っているため、井戸の水汲みから始まる。
それも薄暗い5時ころからである。
しかし当の井戸は、井戸を中心として氷が山のように傾斜となっていた。
まるで火山の噴火口のようである。
井戸の水汲みの際に水がこぼれ、それが積もり、いつの間にか斜面となったのだ。
氷の上を難儀しながらも水汲みを行ったが、まさに来る日も来る日も命がけであった。

それが済むと、今度は塩饅頭を市場に売りに出かける。
必死で働いても、利益はすべて堀婦人が取ってゆくのだ。

夕食が終わると今度は11時ころまで縫いもの仕事を言い渡され、泰子は一日中働き詰めであった。

「いつまでこんなつらい生活が続くのだろう...」
帰郷の日も全く見えない中、泰子は布団の中でいつも涙を抑えることが出来なかった。
満州の極寒の中、自分の流した涙は驚くほど熱いのであった。


この家には、2月はじめから7月末の永きにわたり、住まうこととなった。


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2 コメント

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Unknown (maroko)
2010-08-05 11:00:37
今更ですが、コメントさせて頂きます。
私の祖母も戦時中満州に渡りました。満州に行けば今より豊かな暮らしが出来るとそそのかされ、行った先では食べるものもほとんどなく、毎日のように集落を襲う匪賊におびえながら幼少期を過ごしていました。女だと分からない様に丸坊主にしていたのに祖母の姉がが匪賊に連れて行かれそうになって、父とともに銃でぶたれたこともあったそうです。父がいつか日本に帰るときの為にと少しずつ貯めたお金が使えなくなることになり、「こんなことならご飯もたくさん食べさせてあげればよかったね」と祖母に泣いて謝りながらお金を燃やしたことが鮮明に記憶に残っていると話してくれました。満州で母を亡くし日本に戻って間もなく父を亡くした祖母は兄弟にも頼らずに住み込みで朝から夜まで働きながら、生きてきました。泰子さんと同じように情の薄い婦人のもとで働いていた為、肉体的にも精神的にも辛い毎日だったことでしょう。
しかし、私は祖母からその話を聞くことが嫌いでした。祖母はそのころの話をするといつも泣いていました。泣く祖母を見るのが辛くて、話を聞かないようにしていました。しかしあなたのブログを見て、私も祖母の生きてきた人生をしっかりと知っておかなければならないと気付きました。ありがとうございます。知って憎むのではなく、事実を事実として知ることは未来を変えていくための第一歩ですね。
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これはこれは (ブログ主)
2010-08-18 07:44:16
maroko様、コメントありがとうございます。

おばあさん、いろいろ苦労を味わったようですね。

>事実を事実として知ることは未来を変えていくための第一歩ですね。
本当にそう思います。

どうか、おばあさんと一緒の時間を大切になさってください。
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