桜乃記-さくらのき-

九州に住む、しがない若手サラリーマンが書きつらねた現代の随筆。
日本名刺研究会(会員数2名)の代表でもあります。

おばあちゃんの満州記④~焦土広島~

2009-01-22 | おばあちゃんの満州記
敗戦からまもなく一年が過ぎようかというころ、やっと日本へ帰国の目処が立った。
祖国への船が出るというのである。
貨車に乗り、泰子は友人の千代乃や宿を借りていた堀夫妻ら多くの日本人とともに帰国の途に着いた。
泰子は堀夫妻の持つ大きな荷物を背負いふらふらになりながらも、広島に帰れる喜びでいっぱいだった。

日本への船は、アメリカ製の大きな貨物船である。
この船に乗る前、日本人の代表者が言った。
「日本に帰れば千円以上の金は没収され紙くずになります。
 千円以上のお金を持っている人は、持っていない人に少しでも分けてあげてください。」
しかしこの期に及んでも堀婦人は
「人にやる金があるなら、日本海に捨ててやるわ!」
と叫び、周囲の人々をあぜんとさせるのであった。

千人ほどの乗客を乗せた貨物船は、大連近くのコロ島を出発し、一週間ほどで無事京都府の舞鶴に着いた。
そこからは国鉄の汽車を乗り継ぎ、郷土広島を目指すのみである。
「両親は、兄弟は果たして無事であろうか?」
はやる気持ちを抑え、ようやく夜中に泰子は広島駅に着いた。
そしてその日は広島駅で一夜を過ごした。

翌朝目覚めてみると、駅からの眺めはそれはひどいものであった。
原爆の被害を受けた広島は、被爆後一年経っても一面焼け野原のまま。
建物はぽつりぽつりとあるのみである。



「これはもう駄目かも知れない。」
泰子は路面電車に乗り広島駅から一つ西隣、3キロの位置にある横川駅へ降り立った。
泰子の生家は横川駅の北口から程近いところにある。

家に近づくと、近所のおばさんが泰子を見付け声をかけてきた。
「あら! やっちゃんじゃない! お母さんは生きとってよ。」
なんと母は生きていたのである。
泰子は高鳴る鼓動を抑えつつ、家路を急いだ。

家が近づくと、白い生家の蔵が見えた。
鉄筋作りのために、原爆に耐えたのだろう。
その横にバラックの粗末な建物も見えた。

「ただいいま~!」
「や、泰子!!」
台所に立っていたのは泰子の母であった。
「お母さん!!」
それは涙々の再会だった。

その朝は久しぶりの一家団欒となった。
母のアキ、兄早苗(さなえ)、弟稲造(いなぞう)、妹典子(ふみこ)がそろったのである。
泰子が聞くところによると、やはり原爆の被害は甚大なものであった。

泰子の父の与太郎は原爆が落とされた時、たまたま物陰だったので助かった。
外傷も無かったためにこのバラック小屋を建てたりして精力的に活動していたが、
放射能の影響で被爆から2ヶ月半後、原爆症により帰らぬ人となっていた。

泰子の兄もたまたま高等工業の物陰に隠れたため被爆を免れ、現在まで元気に生きている。

そして泰子の母は、被爆して顔の口から下に大やけどを負い、生死の境をさまよったのであった。
手に至っては蛙の水かきのようなかたちなっていたという。
一年の病床生活を経て、やっと台所に復帰した日が、まさにこの泰子帰宅の日であった。

やっと戻った家族団らんではあった。
しかし、シベリア抑留中の夫寛二の帰国までには、なお三年半もの歳月が必要だったのである。  


                 おばあちゃんの満州記 完

おばあちゃんの満州記③~流転の日々~

2009-01-16 | おばあちゃんの満州記
そんな生活の中、泰子は洋裁の才能を見込まれて、朝鮮人の商店に働きに出たりもした。
ロシア人向けの洋服を日夜縫い、賃金の三分の二は華頂寺の日本人へ送り、三分の一は自分の取り分となった。

華頂寺での生活が長引くある日、泰子は発疹チブスにかかった。
42度の高熱にうなされ、気がついたときには隔離室にいた。
生死の境をさまよったが、幸い周りの助けもあって何とか回復した。


しかしこのまま朝鮮にいたのでは危ないということで、また満州の奉天を目指して
一行は出立することになったのである。
昭和20年12月末の出来事である。

泰子は病み上がりでふらふらになりながらも、大八車に乗せてもらい、駅に着くことが出来た。
靴は、病にかかるやいなや取られたため、履物はなんと便所の下駄であった。

貨車は奉天へ向けて出発したが、途中満州の安東(現在の丹東)で止まった。
満州と朝鮮の国境の都市である。
零下20度の世界の中、世話人の介添えで乗客たちは何とか三々五々、日本人の家に宿を借りることとなった。

泰子と、避難生活で長く連れ添った友人の松田千代乃が宿を借りたのは、老夫婦のお宅であった。
老夫婦にとって、大晦日の来客である。
おじいさんは年金で生計を立てている北関東のひとであった。

泰子と千代乃はしばらくそこでお世話になることとなった。
発疹チブスでなまっていた足もようやく直りかけたので、ある日泰子は
老夫婦のためにお金を得ることを考えた。
大福餅の行商である。

泰子と千代乃は毎朝、中国人から餅を数十個仕入れ、市を歩いて売りまわった。
泰子は右へ、千代乃は左へと別れ、昼には元の場所へ戻ってくるのである。
零下20度なので、早く売らないと餅が固くなってしまうのだが、不思議と2人が売る餅は売れた。

初日の仕事が終わると、泰子らは意気揚々と売れた利益を持って老夫婦のもとへ帰った。
しかし売り上げを差し出すと、老夫婦はかたくなに拒んだ。
「帰国の際にお金が要るだろう、取っておきなさい」
老夫婦は無欲で暖かい人間であった。


ある日、いつも通り餅を売り歩いていると、鳥打帽をかぶった3,40代の日本人の男性が現れた。
なんと、泰子の餅をすべて売ってくれという。
こんな僥倖もあるのだなと、泰子はお金を受け取った。
するとその男性はこう言ったのだ。
「さあ、おなかが空いているだろう、食べなさい」
なんと自分が買った餅すべてを泰子にくれたのだ。
そう言い残すと、疾風のように男性は消えていった。

泰子と千代乃は顔を見合わせながらも、もらった大福にかぶりついた。
「こんなおいしい食べ物が、世の中にあったのか!」
それは、いつも腹の空かせた彼女らにとって、何にも勝るご馳走であった。
2人は一つずつだけ食べ終えると、健気にも残った餅はまた売り歩くのだった。


ある日、泰子は千代乃と二人で、弁護士一家の病気の世話をしに行くことになった。
それは老夫婦の知り合いの弁護士であり、発疹チブスが発病していたのだが、
既往歴のある泰子と千代乃に白羽の矢がたったのだ。

いざ行ってみると、本人をはじめ婦人、ならびに子供五人すべてが病に臥せって混濁状態である。
正確に言うと子供は6人であったが、抵抗力の無い赤ん坊は泰子が来たときにはすでに冷たくなっていた。

泰子と千代乃の初仕事は、赤ん坊を弔うことであった。
泰子は木のりんご箱に小さな赤ちゃんを入れ、周辺の地理に詳しい近所の人に弔いを頼んだ。
水葬が主の当時、満州と朝鮮国境の川、鴨緑江(おうりょっこう)に赤ん坊は帰っていった。


幸い看病の甲斐があり、2週間ほどで弁護士一家は全快した。
泰子と千代乃は居間の押入れの天井裏に隠されていたお金を一人百円ほどもらい、
弁護士宅を後にした。

そしてそのまま老夫婦のもとへあいさつも出来ないまま、また動き始めた貨車に乗って懐かしき奉天へ戻ってきたのである。
奉天での住まいは、満州軍の大尉だった人の家であった。
この家の主である堀夫婦は、先ほどの老夫婦とは打って変わった人物であった。
すなわち泰子は、ひたすら働かされる運命となったのである。

朝起きると水道が凍っているため、井戸の水汲みから始まる。
それも薄暗い5時ころからである。
しかし当の井戸は、井戸を中心として氷が山のように傾斜となっていた。
まるで火山の噴火口のようである。
井戸の水汲みの際に水がこぼれ、それが積もり、いつの間にか斜面となったのだ。
氷の上を難儀しながらも水汲みを行ったが、まさに来る日も来る日も命がけであった。

それが済むと、今度は塩饅頭を市場に売りに出かける。
必死で働いても、利益はすべて堀婦人が取ってゆくのだ。

夕食が終わると今度は11時ころまで縫いもの仕事を言い渡され、泰子は一日中働き詰めであった。

「いつまでこんなつらい生活が続くのだろう...」
帰郷の日も全く見えない中、泰子は布団の中でいつも涙を抑えることが出来なかった。
満州の極寒の中、自分の流した涙は驚くほど熱いのであった。


この家には、2月はじめから7月末の永きにわたり、住まうこととなった。

おばあちゃんの満州記②~気高き犠牲者~

2009-01-09 | おばあちゃんの満州記
5月に寛二と泰子は上官から転居の命令が出され、街の郊外に移り住むこととなった。

住居はスチーム暖房、便所は水洗式、台所はガス式になったため、住み心地は格段によくなった。
ただ、風呂は相変わらず石炭が燃料であった。
泰子は移り住んですぐ隣の空き地にトマトの苗を50本ほど植え、育てた。
土地が肥沃なためであろうか、泰子の植えたトマトは肥料無しでも不思議とよく育った。



8月7日、前日に広島に原爆が落とされ、甚大な被害であることが新聞によって伝えられた。
日本の敗戦が近いことを感じたロシアは、ここぞとばかりに日ソ不可侵条約を破り、満州に侵攻してきた。
事態は風雲急を告げ、満州に住む幼い子供を連れた家族は緊急に朝鮮への疎開が決定した。
そして翌日には、第二陣として泰子も疎開が決定したのである。
寛二はロシア軍を迎え討つため、居残らねばならない。

出発前夜は自宅で他の将校らも招き、飲めや歌えやの大騒ぎであった。
酒のつまみが無いので、泰子は畑で採れたトマトに塩をつけて将校らをもてなすのだった。


翌日泰子ら20人の一団は貨車に乗り、奉天駅を立った。
貨車というのは荷物運搬用の列車のことである。
彼女らは伏見上等兵が引率した。

古邑(こゆう)という駅で貨車は止まった。
一団は、駅からほど遠小高い丘のキリスト教教会で一晩を明かした。
                    
狭いので満足に眠るスペースも無い。
ふと外へ出ると、辺り一面の白萩の花盛りであった。
月に煌々と照らされた萩は幻想的な美しさである。
泰子はこれからの自分の運命に不安を覚えながらも、つかの間の
休息を楽しむのだった。

一行はその次の日に平壌(ピョンヤン)に入った。
しかし一行には、宿泊する家があるわけでもない。
その日は荷物を枕にして、夜露に濡れながらも日本人家屋の軒下で一晩を過ごしたのだった。

それから数日後、8月15日昼日本人は小高い丘に集められた。
そこで聞いたのが天皇の肉声玉音放送である。

「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ...」

そう、戦争は終わりを迎えたのである。
すすり泣くもの、呆然とするもの、反応は様々であった。


一行はその後三階建ての宿舎、つばめ寮という旧旅館にしばらく住まうことになった。
安全のため1、2階に警察、武装解除となった一般の軍人、そして3階に女子供が住まうようにした。
   
ある日の夕方、「うぉ~」地鳴りのような声があたり一面にこだました。
「何事か!」と外を見回すと、このつばめ寮はいつの間にか朝鮮人に包囲されているではないか。
日本人の統治に恨みを抱いていた朝鮮人たちが、日本の敗戦を機に大挙して押し寄せたのだ。
当時、朝鮮の人々は母国語を話すことを禁じられ、日本語の使用が強制されていた。
積年の恨みが爆発したのである。

朝鮮人は刀や銃で武装し、日本側の軍人も応戦したが、衆寡敵せず次々に倒れていった。
「ぎゃ~!」
断末魔の悲鳴が寮内のあちこちで聞こる。
囚われの身となった日本人たちは2、30人ほど数珠つなぎにくくられ、自由を奪われた。

朝鮮人は、囚われの身となった日本人の男たちの所持品を集めるよう、泰子らに指示した。
男たちの所持品も、共に持っていくためである。

所持品が集まったとき、赤ひげの大男が入ってきて、あることに気づいた。
二階の窓から下へ、三組(みつぐみ)にした女性の着物の腰紐が垂れ下がっていたのだ。
日本兵の誰かが、紐を伝ってこのツバメ寮から逃げ出したに違いない。
大男は逆上し、泰子の胸にピストルを突きつけた!

「お前が逃がしたのだろう!」

後ろの知人の震えが泰子にも伝わってくる。
泰子は大男から一瞬たりとも目をそらさず、にらみ合った。
生も死もない。
恐怖も何もない。
それは、心が無となる不思議な境地であった。

「その人たちは違う!今俺たちが連行してきたばかりだ。」
別の朝鮮人が部屋に入ってきて、その大男を止めた。
泰子は九死に一生を得たのである。

その日の襲撃で、生き残ったすべての日本人男性は朝鮮人によって連行されていった。


しかし悲劇はそれで終わりではなかった。
その日の夜、恐怖に震えながら泰子らが寝ていると、12時ころ階下から「ミシッミシッ」という音がする。
何者かが3階へ上がってきたのだ。

「起きろ!」
覆面をした朝鮮人と、朝鮮の民族衣装を身にまっとった女性の夜襲であった。
今度は金品目的の襲撃である。
男は泰子の友人の首筋に日本刀を当て、皆を威嚇した。
皆有り金を差し出すと、男は日本刀の先で札と小銭とを分け、札だけ鷲づかみにした。
こうして目的を果たした男と女は去っていったのである。

このままでは、命がいくつあっても足りない。
数時間後の早朝、一行は目立たぬよう数組に分かれ、夜陰に乗じて朝鮮で一番大きな寺、華頂寺へ移動した。
建物は鉄筋で出来ており、そこでは避難した日本人千人あまりが生活を送っていた。

ここならまだ安全だろう。
大勢の日本人と昼夜を共にする安心感は得たものの、新たな危機が泰子らを襲った。
食料である。
最初は朝夕2食のお米だった食事も、物資が乏しくなるにつれてこうりゃんに変わっていった。
ひもじさは増すばかりである。
実際、体力のついていない子供は母親の手の中で次々と死んでいった。


そんな暮らしの中、ロシア人は何人かで昼夜となくやってきた。
昼は時計など貴金属を要求し、夜は女を出せと要求するのである。

しかし寺には日本人男性が4,5人いるだけ。
これ以上彼らの要求を突っぱねることは出来ない。

「女集で話し合ってくれ。」
上等兵は女性たちに言った。

「どうする?」
女性たちは話し合ったが、よい解決策は思い浮かばない。
「自分が犠牲にならなければいけないのか?」
誰もが暗澹たる気持ちになる中、彼女らに一筋の光明が差し込んだ。

「私たちが参りましょう。」

それは何と、華頂寺の納骨堂で生活していた、10人ほどの日本人慰安婦達であった。
彼女らは人目をはばかり、ひっそりとした暗い地下納骨堂での生活を余儀なくされていたのである。
そんな彼女たちが、敢えて人柱となることを買って出たのだ!

数日後、彼女らはロシア人に連れられてひっそりと華頂寺を後にした。
泰子は華頂寺の2階からその姿を見送りながら、慰安婦の人々に感謝の念を抱かずにはいられなかった。
自分は今まで、自身の体を売る慰安婦の人々を蔑視していた。
しかしどうだろう、彼女たちの生き様は。
慰安婦の人々は、自分の身を犠牲にして、他の日本人を守ったのだ。

泰子はその時はじめて気づいた。
人間の価値は地位、財産、職業、などでは計れない。
その心、生き様にこそあるのだと。


慰安婦達の去り行く姿は、何よりも美しく、そして気高いものであった。

そして彼女らが、再び華頂寺の門をくぐることはなかったのである。

おばあちゃんの満州記①~大陸の花嫁~

2009-01-04 | おばあちゃんの満州記
祖母の泰子(やすこ)は戦中満州に渡り、数々の苦労をして日本に帰り着きました。
そんな祖母の体験を「後世に是非とも伝えなければ」という思いから、筆を執りました。
この話はすべて、祖母から聞いたものです。
祖母と祖父、満州での激動の一年間を描いていこうと思います。
話は全四話、週一回のペースでアップしてゆきます。


まず二人の経歴を簡単に紹介しておきましょう。

祖母泰子は広島の女学校(4年制)を経て、女子専門学校別科(1年制)を卒業しました。
この女子専門学校別科というのは花嫁修業をするところで、料理、縫い物、栄養学、お花、お茶など一通り習ったと言います。
その花嫁修行を終えた後、現代で言えば高校三年生の時から地元の信用組合(現広島信用金庫)で働き始めました。
信用組合では外回りの集金作業に従事していたのだが、当時女性の外周り勤務者は皆無で、泰子は草分け的存在でした。

対して私の祖父寛二は、広島県立広島第一中学校(現国泰寺高校)、広島高等工業学校(当時三年制、現広島大学工学部)を経て、 満州炭鉱に入社しました。
当時は石油でなく、石炭が主力のエネルギー源だったのです。
その満州で日夜働いていた寛二のもとにも赤紙が届き、彼は軍へ身を投じることとなるのです。



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泰子に縁談が舞い込んだのは、敗色濃くなる昭和19年暮れの事だった。

寛二は関東軍549部隊の将校で、満州の奉天(現在の瀋陽)で軍務に服していた。
このたび激化する南方戦線へ兵を配置転換するため、配下の兵卒を引きつれ日本に帰国していたのだった。

そんな寛二の元へ、奉天の上官から電報が送られてきた。
「サイタイスベシ」
妻帯しろという上官の指令は絶対である。
早速嫁探しに奔走することになるのだが、そこで白羽の矢が立ったのが寛二の遠縁にあたる泰子だった。
親戚筋のため、お互い安心感もある。
実家同士も近い。
とんとん拍子に話は進み、12月28日のお見合いを経て、縁談は正式に決まった。
当時は結婚もお見合いばかりで,恋愛結婚はほとんど皆無の時代である。

式は翌昭和20年、すなわち終戦の年の1月1日に決定した。
満年齢で寛二26歳、泰子18歳の時である。
新郎は着古した軍服、新婦は着物のいでたちで、式は寛二宅にて厳かに執り行われた。
まさに矢継ぎ早である。

正月3日、寛二は満州へと立った。
泰子は嫁入り準備を整えると、寛二の兄嫁とともに、約一ヵ月後広島を後にした。
寛二の兄は北京の華北電電の局長だったので、兄嫁も同行したのである。

下関から関釜連絡船の一等船室に乗り、釜山へ向かう。
一等船室に乗船した理由は、万が一魚雷を食らっても一等船室の乗客から先に避難出来るからであった。
現に、日本海に浮かぶ無数の魚雷により沈没した船もあった。

だが幸運にも泰子らの船は韓国の釜山に渡ることが出来、そこからは鉄道で奉天へ向かった。


2月4日、泰子の奉天での生活がスタートしたのである。

満州の奉天は零下20度。
外で濡れたタオルを一振りすれば、瞬時に凍るという極寒の世界だ。

住居の暖房はペーチカというもので、石炭を入れて室内を暖めるものであった。
窓は2層になっており、寒気が入らないようになっている。
トイレは俗に言うボットン便所で、うんこが溜まってきたら、凍ったうんこをつるはしで壊してかき出す必要があった。

風呂にいたっては木で作られており、蛇口からの水が凍りつき、浴槽に山のかたちの氷が張っていた。
この氷もつるはしで壊し、かき出すのだ。

「新婚」という甘い響きとは名ばかりの、つらく苦しい生活の始まりであった。