5月に寛二と泰子は上官から転居の命令が出され、街の郊外に移り住むこととなった。
住居はスチーム暖房、便所は水洗式、台所はガス式になったため、住み心地は格段によくなった。
ただ、風呂は相変わらず石炭が燃料であった。
泰子は移り住んですぐ隣の空き地にトマトの苗を50本ほど植え、育てた。
土地が肥沃なためであろうか、泰子の植えたトマトは肥料無しでも不思議とよく育った。
8月7日、前日に広島に原爆が落とされ、甚大な被害であることが新聞によって伝えられた。
日本の敗戦が近いことを感じたロシアは、ここぞとばかりに日ソ不可侵条約を破り、満州に侵攻してきた。
事態は風雲急を告げ、満州に住む幼い子供を連れた家族は緊急に朝鮮への疎開が決定した。
そして翌日には、第二陣として泰子も疎開が決定したのである。
寛二はロシア軍を迎え討つため、居残らねばならない。
出発前夜は自宅で他の将校らも招き、飲めや歌えやの大騒ぎであった。
酒のつまみが無いので、泰子は畑で採れたトマトに塩をつけて将校らをもてなすのだった。
翌日泰子ら20人の一団は貨車に乗り、奉天駅を立った。
貨車というのは荷物運搬用の列車のことである。
彼女らは伏見上等兵が引率した。
古邑(こゆう)という駅で貨車は止まった。
一団は、駅からほど遠小高い丘のキリスト教教会で一晩を明かした。
狭いので満足に眠るスペースも無い。
ふと外へ出ると、辺り一面の白萩の花盛りであった。
月に煌々と照らされた萩は幻想的な美しさである。
泰子はこれからの自分の運命に不安を覚えながらも、つかの間の
休息を楽しむのだった。
一行はその次の日に平壌(ピョンヤン)に入った。
しかし一行には、宿泊する家があるわけでもない。
その日は荷物を枕にして、夜露に濡れながらも日本人家屋の軒下で一晩を過ごしたのだった。
それから数日後、8月15日昼日本人は小高い丘に集められた。
そこで聞いたのが天皇の肉声玉音放送である。
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ...」
そう、戦争は終わりを迎えたのである。
すすり泣くもの、呆然とするもの、反応は様々であった。
一行はその後三階建ての宿舎、つばめ寮という旧旅館にしばらく住まうことになった。
安全のため1、2階に警察、武装解除となった一般の軍人、そして3階に女子供が住まうようにした。
ある日の夕方、「うぉ~」地鳴りのような声があたり一面にこだました。
「何事か!」と外を見回すと、このつばめ寮はいつの間にか朝鮮人に包囲されているではないか。
日本人の統治に恨みを抱いていた朝鮮人たちが、日本の敗戦を機に大挙して押し寄せたのだ。
当時、朝鮮の人々は母国語を話すことを禁じられ、日本語の使用が強制されていた。
積年の恨みが爆発したのである。
朝鮮人は刀や銃で武装し、日本側の軍人も応戦したが、衆寡敵せず次々に倒れていった。
「ぎゃ~!」
断末魔の悲鳴が寮内のあちこちで聞こる。
囚われの身となった日本人たちは2、30人ほど数珠つなぎにくくられ、自由を奪われた。
朝鮮人は、囚われの身となった日本人の男たちの所持品を集めるよう、泰子らに指示した。
男たちの所持品も、共に持っていくためである。
所持品が集まったとき、赤ひげの大男が入ってきて、あることに気づいた。
二階の窓から下へ、三組(みつぐみ)にした女性の着物の腰紐が垂れ下がっていたのだ。
日本兵の誰かが、紐を伝ってこのツバメ寮から逃げ出したに違いない。
大男は逆上し、泰子の胸にピストルを突きつけた!
「お前が逃がしたのだろう!」
後ろの知人の震えが泰子にも伝わってくる。
泰子は大男から一瞬たりとも目をそらさず、にらみ合った。
生も死もない。
恐怖も何もない。
それは、心が無となる不思議な境地であった。
「その人たちは違う!今俺たちが連行してきたばかりだ。」
別の朝鮮人が部屋に入ってきて、その大男を止めた。
泰子は九死に一生を得たのである。
その日の襲撃で、生き残ったすべての日本人男性は朝鮮人によって連行されていった。
しかし悲劇はそれで終わりではなかった。
その日の夜、恐怖に震えながら泰子らが寝ていると、12時ころ階下から「ミシッミシッ」という音がする。
何者かが3階へ上がってきたのだ。
「起きろ!」
覆面をした朝鮮人と、朝鮮の民族衣装を身にまっとった女性の夜襲であった。
今度は金品目的の襲撃である。
男は泰子の友人の首筋に日本刀を当て、皆を威嚇した。
皆有り金を差し出すと、男は日本刀の先で札と小銭とを分け、札だけ鷲づかみにした。
こうして目的を果たした男と女は去っていったのである。
このままでは、命がいくつあっても足りない。
数時間後の早朝、一行は目立たぬよう数組に分かれ、夜陰に乗じて朝鮮で一番大きな寺、華頂寺へ移動した。
建物は鉄筋で出来ており、そこでは避難した日本人千人あまりが生活を送っていた。
ここならまだ安全だろう。
大勢の日本人と昼夜を共にする安心感は得たものの、新たな危機が泰子らを襲った。
食料である。
最初は朝夕2食のお米だった食事も、物資が乏しくなるにつれてこうりゃんに変わっていった。
ひもじさは増すばかりである。
実際、体力のついていない子供は母親の手の中で次々と死んでいった。
そんな暮らしの中、ロシア人は何人かで昼夜となくやってきた。
昼は時計など貴金属を要求し、夜は女を出せと要求するのである。
しかし寺には日本人男性が4,5人いるだけ。
これ以上彼らの要求を突っぱねることは出来ない。
「女集で話し合ってくれ。」
上等兵は女性たちに言った。
「どうする?」
女性たちは話し合ったが、よい解決策は思い浮かばない。
「自分が犠牲にならなければいけないのか?」
誰もが暗澹たる気持ちになる中、彼女らに一筋の光明が差し込んだ。
「私たちが参りましょう。」
それは何と、華頂寺の納骨堂で生活していた、10人ほどの日本人慰安婦達であった。
彼女らは人目をはばかり、ひっそりとした暗い地下納骨堂での生活を余儀なくされていたのである。
そんな彼女たちが、敢えて人柱となることを買って出たのだ!
数日後、彼女らはロシア人に連れられてひっそりと華頂寺を後にした。
泰子は華頂寺の2階からその姿を見送りながら、慰安婦の人々に感謝の念を抱かずにはいられなかった。
自分は今まで、自身の体を売る慰安婦の人々を蔑視していた。
しかしどうだろう、彼女たちの生き様は。
慰安婦の人々は、自分の身を犠牲にして、他の日本人を守ったのだ。
泰子はその時はじめて気づいた。
人間の価値は地位、財産、職業、などでは計れない。
その心、生き様にこそあるのだと。
慰安婦達の去り行く姿は、何よりも美しく、そして気高いものであった。
そして彼女らが、再び華頂寺の門をくぐることはなかったのである。