桜乃記-さくらのき-

九州に住む、しがない若手サラリーマンが書きつらねた現代の随筆。
日本名刺研究会(会員数2名)の代表でもあります。

逆張り採用

2009-01-31 | ビジネス、経営
ども。

昨日、東証で2008年4月-12月期の決算発表がピークを迎えました。
世界的景気後退を受けて、赤字転落、下方修正が相次ぎました。

大手証券会社の2008年4月-12月期決算も出揃い、野村證券等、大手六社の最終赤字は6000億に上るそうです。
大半の損失は10月-12月期に発生しており、
「歴史に残るひどい四半期」(椛島文雄・新光証券副社長)
とのこと。


いやはや。

そんな中、日本ビクターとケンウッドを傘下に持つJVC・ケンウッド・ホールディングスは来年春の新卒採用を発表しましたね~。
経営悪化のため、580人の希望退職者をつのりましたが、人員削減に手をつける以上、新卒採用も凍結しないと社員の理解が得られないと考えたのでしょう。
社長は断腸の思いでしょうね。



その一方、NTTドコモは来春の採用予定数をグループ全体で360人と09年春に比べ2割引き上げる計画を明らかにしました。

これは非常に賢いやり方ですね~☆
景気悪化で各社が採用を絞る中、自社のみ採用枠を拡大することで、優秀な人材獲得が容易になります。

不況の際は優秀な人材でもなかなか内定が決まりにくい状況となるわけですから、そのあぶれた優秀な人材を自社が獲得できるわけです。

世界情勢とあえて逆の行動をとることで、有利な結果を得られます。

これからのドコモに注目ですね☆

【書評】なぜ君は絶望と闘えたのか

2009-01-27 | その他
ども☆


1999年4月14日、
山口県光市母子殺害事件。

本書はこの事件で妻子を失った、木村洋氏の3300日を追います。
涙なしでは読めません。


      アマゾン

木村洋氏は新日鐵光製鉄所のエンジニア。
学生結婚した弥生さん、赤ん坊の夕夏ちゃんと小さいながらも
幸せな家庭を築いていた。

そこに訪れた突然の悪夢。

当時18歳の少年Fによって、愛する妻と子は惨殺されます。

そこから始まる司法との闘い。
少年法の壁、加害者Fの反省なき言動。
これらを緻密に描いていきます。


下記に印象に残った言葉を載せましょう。

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生きる意欲を失った木村氏は、仕事に対する意味を見出せなくなった。
意を決して辞表を提出すると、上司はこう諭した。

「 この職場で働くのが嫌なのであれば、辞めてもいい。
 君は特別な経験をした。
 社会に対して訴えたいこともあるだろう。

 でも、君は社会人として発言していってくれ。
 労働も納税もしない人間が社会に訴えても、
 それはただの負け犬の遠吠えだ。


 君は社会人たりなさい。」

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是非ご一読を。

【書評】不毛地帯

2009-01-25 | ビジネス、経営
冷えますね~
雪ですね~

街も心なしか人が少ないような....

今日は本の紹介です。



山崎豊子著、「不毛地帯

山崎豊子は現代の人気作家です。
代表作に2007年に木村拓哉主演でドラマ化された「華麗なる一族」、
日航機墜落事故をモデルにし、このほど渡辺謙主演でついに映画化が決定した「沈まぬ太陽」などがあります。


この「不毛地帯」は一冊600ページの全四巻、大作です☆
主人公の壱岐正中佐は、瀬島龍三という伊藤忠商事の元会長をモデルにしていると言われます。

”シベリアに11年間抑留された元日本陸軍参謀の主人公が帰国後商社マンとして第2の人生を歩んでいく姿を描いており、前半はシベリアでの強制労働、後半は砂漠の中での石油開発と2つの不毛地帯を舞台にしている。”

↑アマゾンの「不毛地帯」第一巻レビューより。

第一巻はシベリアの強制労働について描かれており、やや冗長ではあります。
しかし二巻以降主人公が商社に勤めるようになってからは次期戦闘機をめぐる防衛庁やライバル東京商事との黒い駆け引きに苛む主人公の姿が描き出されて、俄然面白くなってきます。

正直かなりのボリュームなので、読むのはかなり大変ではありますが、
綿密な取材に基づく物語は圧巻です。
組織に属する男性会社員の方にお薦めの本ですね。


おばあちゃんの満州記④~焦土広島~

2009-01-22 | おばあちゃんの満州記
敗戦からまもなく一年が過ぎようかというころ、やっと日本へ帰国の目処が立った。
祖国への船が出るというのである。
貨車に乗り、泰子は友人の千代乃や宿を借りていた堀夫妻ら多くの日本人とともに帰国の途に着いた。
泰子は堀夫妻の持つ大きな荷物を背負いふらふらになりながらも、広島に帰れる喜びでいっぱいだった。

日本への船は、アメリカ製の大きな貨物船である。
この船に乗る前、日本人の代表者が言った。
「日本に帰れば千円以上の金は没収され紙くずになります。
 千円以上のお金を持っている人は、持っていない人に少しでも分けてあげてください。」
しかしこの期に及んでも堀婦人は
「人にやる金があるなら、日本海に捨ててやるわ!」
と叫び、周囲の人々をあぜんとさせるのであった。

千人ほどの乗客を乗せた貨物船は、大連近くのコロ島を出発し、一週間ほどで無事京都府の舞鶴に着いた。
そこからは国鉄の汽車を乗り継ぎ、郷土広島を目指すのみである。
「両親は、兄弟は果たして無事であろうか?」
はやる気持ちを抑え、ようやく夜中に泰子は広島駅に着いた。
そしてその日は広島駅で一夜を過ごした。

翌朝目覚めてみると、駅からの眺めはそれはひどいものであった。
原爆の被害を受けた広島は、被爆後一年経っても一面焼け野原のまま。
建物はぽつりぽつりとあるのみである。



「これはもう駄目かも知れない。」
泰子は路面電車に乗り広島駅から一つ西隣、3キロの位置にある横川駅へ降り立った。
泰子の生家は横川駅の北口から程近いところにある。

家に近づくと、近所のおばさんが泰子を見付け声をかけてきた。
「あら! やっちゃんじゃない! お母さんは生きとってよ。」
なんと母は生きていたのである。
泰子は高鳴る鼓動を抑えつつ、家路を急いだ。

家が近づくと、白い生家の蔵が見えた。
鉄筋作りのために、原爆に耐えたのだろう。
その横にバラックの粗末な建物も見えた。

「ただいいま~!」
「や、泰子!!」
台所に立っていたのは泰子の母であった。
「お母さん!!」
それは涙々の再会だった。

その朝は久しぶりの一家団欒となった。
母のアキ、兄早苗(さなえ)、弟稲造(いなぞう)、妹典子(ふみこ)がそろったのである。
泰子が聞くところによると、やはり原爆の被害は甚大なものであった。

泰子の父の与太郎は原爆が落とされた時、たまたま物陰だったので助かった。
外傷も無かったためにこのバラック小屋を建てたりして精力的に活動していたが、
放射能の影響で被爆から2ヶ月半後、原爆症により帰らぬ人となっていた。

泰子の兄もたまたま高等工業の物陰に隠れたため被爆を免れ、現在まで元気に生きている。

そして泰子の母は、被爆して顔の口から下に大やけどを負い、生死の境をさまよったのであった。
手に至っては蛙の水かきのようなかたちなっていたという。
一年の病床生活を経て、やっと台所に復帰した日が、まさにこの泰子帰宅の日であった。

やっと戻った家族団らんではあった。
しかし、シベリア抑留中の夫寛二の帰国までには、なお三年半もの歳月が必要だったのである。  


                 おばあちゃんの満州記 完

石井慧のUFC参戦について

2009-01-18 | スポーツ
ども。

記事下書きを一回保存しようと思って「投稿」ボタン押したら、
記事保存されず消えるし。

時々あるんだよね、このgooブログ。
マジで泣きたくなりますよ。
いや、単にメモリ不足かも。

さて、気を取り直していきましょう!



北京オリンピック柔道男子100kg超級金メダリスト、石井慧。



彼の昨夏の活躍ぶりと独特の発言は、皆さんもご存知でしょう。
彼はアメリカの総合格闘技団体、UFCへの参戦を決めましたね。

普段総合格闘技のことなんて新聞に載らないのに、石井のUFC参戦は日経新聞にも載ってて驚いた記憶があります。


総合格闘技の老舗団体UFCは、野球に例えればアメリカのメジャーリーグです。
総合格闘技界において、今最も資金力があり、最も多くの強い選手を集めている団体なのです。

もちろん日本にも総合格闘技の団体は存在します。
メジャーなのは”DREAM”と”戦極”でしょう。

DREAMは青木真也、桜庭和志、所英男、ミルコ・クロコップなどを擁しています。
K-1ともつながりが深く、テレビ放送もされているため資金力もあり、日本で一番大規模な興行を打つ力を持ちます。

二番手は戦極という団体で、吉田秀彦、菊田早苗、五味隆典などを抱えています。

そのほかの団体としては、総合格闘技の草分け的存在”修斗”。
名古屋を本拠とする”DEEP”。
船木誠勝が中心となって作った”パンクラス”などがあります。



しかし石井は日本の団体ではなく、アメリカのUFC参戦を決めました。
これは正直僕にとって意外でしたね。

なぜなら、単純に日本の団体のほうが厚遇が約束されているからです。

日本の団体は、当然のことながら日本で興行を打ちます。
ということは必然的に日本人選手の起用が多いということ。
優先的に試合を組んでもらうことが出来ます。
また、もし力が衰えても大舞台に出してもらうことができます。
今の桜庭和志が良い例でしょう。

さらに言えば試合をする相手選手が外人である場合、ホームで闘うということで大変有利な状況となります。

このように日本の団体との契約は有利にもかかわらず、石井はメジャーリーグのUFCへ参戦を決めました。
五輪金メダリストというこれ以上ない話題性に加え、まだ22歳という若さ。
DREAM、戦極陣営ともに、是が非でも欲しかった人材に違いありません。

ところが彼は茨の道を承知で、敢えてUFCを選んだ。
これはどういうことでしょうか。

これは石井の発言から読み取るとやはり、
「一番強豪がそろっている舞台でやりたい、そして一番になりたい」
ということらしいですね。

自分の力を、最高のステージで発揮したいというアスリートとしての当然の欲求でしょう。

また、舞台を海外に移すことにより、縁を切った全日本柔道連盟や、世間とのしがらみを絶つことも出来ます。


彼は階級がこのままでいけばヘビー級(93キロ以上)でやることになるのでしょうが、身長は181センチとヘビー級においてはかなりのハンディを背負います。
ヘビー級は190センチ台がごろごろいますからね。

現在世界最強と言うべき選手にエメリヤ・エンコ・ヒョードル(ロシア)がいます。
彼は182センチと上背は無いのですが、相手との距離を一気に潰す踏み込みと回転の早い連打を持っています。
だから身長が低くても最強の座に君臨しているのですが、これはヒョードルだけが持つ天賦の才というもので、通常の選手はこのような能力を持ち得ません。

そのため、やはり石井のUFC挑戦はかなり大変なものとなる気がします。
いくら五輪金メダリストと言えども、です。


総合格闘技は「打投極(だ、とう、きょく)」と言われます。
すなわち殴る蹴るの”打撃技術”
相手をテイクダウンする”投げ技術”
寝技等で関節技をかける”極める技術”
大きく上記3つの能力が必要となることを表します。

レスリング式テイクダウンはまだまだでしょうが、柔道で”投げ技術”は十分すぎるほど身についてますし、柔術茶帯(!)で”極める技術”も確か。
ということは課題はやはり”打撃技術”なんですね。


彼のUFC参戦は秋ぐらいになるでしょうか。
石井選手の活躍に是非期待したいです!

おばあちゃんの満州記③~流転の日々~

2009-01-16 | おばあちゃんの満州記
そんな生活の中、泰子は洋裁の才能を見込まれて、朝鮮人の商店に働きに出たりもした。
ロシア人向けの洋服を日夜縫い、賃金の三分の二は華頂寺の日本人へ送り、三分の一は自分の取り分となった。

華頂寺での生活が長引くある日、泰子は発疹チブスにかかった。
42度の高熱にうなされ、気がついたときには隔離室にいた。
生死の境をさまよったが、幸い周りの助けもあって何とか回復した。


しかしこのまま朝鮮にいたのでは危ないということで、また満州の奉天を目指して
一行は出立することになったのである。
昭和20年12月末の出来事である。

泰子は病み上がりでふらふらになりながらも、大八車に乗せてもらい、駅に着くことが出来た。
靴は、病にかかるやいなや取られたため、履物はなんと便所の下駄であった。

貨車は奉天へ向けて出発したが、途中満州の安東(現在の丹東)で止まった。
満州と朝鮮の国境の都市である。
零下20度の世界の中、世話人の介添えで乗客たちは何とか三々五々、日本人の家に宿を借りることとなった。

泰子と、避難生活で長く連れ添った友人の松田千代乃が宿を借りたのは、老夫婦のお宅であった。
老夫婦にとって、大晦日の来客である。
おじいさんは年金で生計を立てている北関東のひとであった。

泰子と千代乃はしばらくそこでお世話になることとなった。
発疹チブスでなまっていた足もようやく直りかけたので、ある日泰子は
老夫婦のためにお金を得ることを考えた。
大福餅の行商である。

泰子と千代乃は毎朝、中国人から餅を数十個仕入れ、市を歩いて売りまわった。
泰子は右へ、千代乃は左へと別れ、昼には元の場所へ戻ってくるのである。
零下20度なので、早く売らないと餅が固くなってしまうのだが、不思議と2人が売る餅は売れた。

初日の仕事が終わると、泰子らは意気揚々と売れた利益を持って老夫婦のもとへ帰った。
しかし売り上げを差し出すと、老夫婦はかたくなに拒んだ。
「帰国の際にお金が要るだろう、取っておきなさい」
老夫婦は無欲で暖かい人間であった。


ある日、いつも通り餅を売り歩いていると、鳥打帽をかぶった3,40代の日本人の男性が現れた。
なんと、泰子の餅をすべて売ってくれという。
こんな僥倖もあるのだなと、泰子はお金を受け取った。
するとその男性はこう言ったのだ。
「さあ、おなかが空いているだろう、食べなさい」
なんと自分が買った餅すべてを泰子にくれたのだ。
そう言い残すと、疾風のように男性は消えていった。

泰子と千代乃は顔を見合わせながらも、もらった大福にかぶりついた。
「こんなおいしい食べ物が、世の中にあったのか!」
それは、いつも腹の空かせた彼女らにとって、何にも勝るご馳走であった。
2人は一つずつだけ食べ終えると、健気にも残った餅はまた売り歩くのだった。


ある日、泰子は千代乃と二人で、弁護士一家の病気の世話をしに行くことになった。
それは老夫婦の知り合いの弁護士であり、発疹チブスが発病していたのだが、
既往歴のある泰子と千代乃に白羽の矢がたったのだ。

いざ行ってみると、本人をはじめ婦人、ならびに子供五人すべてが病に臥せって混濁状態である。
正確に言うと子供は6人であったが、抵抗力の無い赤ん坊は泰子が来たときにはすでに冷たくなっていた。

泰子と千代乃の初仕事は、赤ん坊を弔うことであった。
泰子は木のりんご箱に小さな赤ちゃんを入れ、周辺の地理に詳しい近所の人に弔いを頼んだ。
水葬が主の当時、満州と朝鮮国境の川、鴨緑江(おうりょっこう)に赤ん坊は帰っていった。


幸い看病の甲斐があり、2週間ほどで弁護士一家は全快した。
泰子と千代乃は居間の押入れの天井裏に隠されていたお金を一人百円ほどもらい、
弁護士宅を後にした。

そしてそのまま老夫婦のもとへあいさつも出来ないまま、また動き始めた貨車に乗って懐かしき奉天へ戻ってきたのである。
奉天での住まいは、満州軍の大尉だった人の家であった。
この家の主である堀夫婦は、先ほどの老夫婦とは打って変わった人物であった。
すなわち泰子は、ひたすら働かされる運命となったのである。

朝起きると水道が凍っているため、井戸の水汲みから始まる。
それも薄暗い5時ころからである。
しかし当の井戸は、井戸を中心として氷が山のように傾斜となっていた。
まるで火山の噴火口のようである。
井戸の水汲みの際に水がこぼれ、それが積もり、いつの間にか斜面となったのだ。
氷の上を難儀しながらも水汲みを行ったが、まさに来る日も来る日も命がけであった。

それが済むと、今度は塩饅頭を市場に売りに出かける。
必死で働いても、利益はすべて堀婦人が取ってゆくのだ。

夕食が終わると今度は11時ころまで縫いもの仕事を言い渡され、泰子は一日中働き詰めであった。

「いつまでこんなつらい生活が続くのだろう...」
帰郷の日も全く見えない中、泰子は布団の中でいつも涙を抑えることが出来なかった。
満州の極寒の中、自分の流した涙は驚くほど熱いのであった。


この家には、2月はじめから7月末の永きにわたり、住まうこととなった。

【書評】逆説の日本史.12

2009-01-14 | その他
ども。

今日は書評です。
「逆説の日本史」
巻は第12巻、天下泰平と家康の謎です。


ずばり面白いです。
今までの歴史書とは、一味もふた味も違う。

たとえば朝鮮出兵。
晩年の秀吉が、文禄・慶長の役と二度にわたり朝鮮へ兵を送り、泥沼化した戦争ですね。
結局朝鮮の領土を得ることは出来ませんでした。

この戦争は、失敗に終わったこともあり、秀吉の老いを象徴する出来事としてというイメージでした。
しかし著者の井沢氏は言います。
「朝鮮出兵は失業した軍人を救う、雇用対策だった。」
と。

すなわち日本が統一された以上、もはや戦争もなくなり兵士は職にあぶれることになる。
そんな不満を避けるために朝鮮出兵が行われたのだと。

なるほど~。
深いですね~。

このように井沢氏は独自の観点から日本史を掘り下げていきます。
上記の本は、その日本史シリーズの中の一冊というわけ。
現在は第15巻まで出てるのかな?

氏の歴史の捉え方はとても興味深く圧巻です。
ぜひぜひ~。

おばあちゃんの満州記②~気高き犠牲者~

2009-01-09 | おばあちゃんの満州記
5月に寛二と泰子は上官から転居の命令が出され、街の郊外に移り住むこととなった。

住居はスチーム暖房、便所は水洗式、台所はガス式になったため、住み心地は格段によくなった。
ただ、風呂は相変わらず石炭が燃料であった。
泰子は移り住んですぐ隣の空き地にトマトの苗を50本ほど植え、育てた。
土地が肥沃なためであろうか、泰子の植えたトマトは肥料無しでも不思議とよく育った。



8月7日、前日に広島に原爆が落とされ、甚大な被害であることが新聞によって伝えられた。
日本の敗戦が近いことを感じたロシアは、ここぞとばかりに日ソ不可侵条約を破り、満州に侵攻してきた。
事態は風雲急を告げ、満州に住む幼い子供を連れた家族は緊急に朝鮮への疎開が決定した。
そして翌日には、第二陣として泰子も疎開が決定したのである。
寛二はロシア軍を迎え討つため、居残らねばならない。

出発前夜は自宅で他の将校らも招き、飲めや歌えやの大騒ぎであった。
酒のつまみが無いので、泰子は畑で採れたトマトに塩をつけて将校らをもてなすのだった。


翌日泰子ら20人の一団は貨車に乗り、奉天駅を立った。
貨車というのは荷物運搬用の列車のことである。
彼女らは伏見上等兵が引率した。

古邑(こゆう)という駅で貨車は止まった。
一団は、駅からほど遠小高い丘のキリスト教教会で一晩を明かした。
                    
狭いので満足に眠るスペースも無い。
ふと外へ出ると、辺り一面の白萩の花盛りであった。
月に煌々と照らされた萩は幻想的な美しさである。
泰子はこれからの自分の運命に不安を覚えながらも、つかの間の
休息を楽しむのだった。

一行はその次の日に平壌(ピョンヤン)に入った。
しかし一行には、宿泊する家があるわけでもない。
その日は荷物を枕にして、夜露に濡れながらも日本人家屋の軒下で一晩を過ごしたのだった。

それから数日後、8月15日昼日本人は小高い丘に集められた。
そこで聞いたのが天皇の肉声玉音放送である。

「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ...」

そう、戦争は終わりを迎えたのである。
すすり泣くもの、呆然とするもの、反応は様々であった。


一行はその後三階建ての宿舎、つばめ寮という旧旅館にしばらく住まうことになった。
安全のため1、2階に警察、武装解除となった一般の軍人、そして3階に女子供が住まうようにした。
   
ある日の夕方、「うぉ~」地鳴りのような声があたり一面にこだました。
「何事か!」と外を見回すと、このつばめ寮はいつの間にか朝鮮人に包囲されているではないか。
日本人の統治に恨みを抱いていた朝鮮人たちが、日本の敗戦を機に大挙して押し寄せたのだ。
当時、朝鮮の人々は母国語を話すことを禁じられ、日本語の使用が強制されていた。
積年の恨みが爆発したのである。

朝鮮人は刀や銃で武装し、日本側の軍人も応戦したが、衆寡敵せず次々に倒れていった。
「ぎゃ~!」
断末魔の悲鳴が寮内のあちこちで聞こる。
囚われの身となった日本人たちは2、30人ほど数珠つなぎにくくられ、自由を奪われた。

朝鮮人は、囚われの身となった日本人の男たちの所持品を集めるよう、泰子らに指示した。
男たちの所持品も、共に持っていくためである。

所持品が集まったとき、赤ひげの大男が入ってきて、あることに気づいた。
二階の窓から下へ、三組(みつぐみ)にした女性の着物の腰紐が垂れ下がっていたのだ。
日本兵の誰かが、紐を伝ってこのツバメ寮から逃げ出したに違いない。
大男は逆上し、泰子の胸にピストルを突きつけた!

「お前が逃がしたのだろう!」

後ろの知人の震えが泰子にも伝わってくる。
泰子は大男から一瞬たりとも目をそらさず、にらみ合った。
生も死もない。
恐怖も何もない。
それは、心が無となる不思議な境地であった。

「その人たちは違う!今俺たちが連行してきたばかりだ。」
別の朝鮮人が部屋に入ってきて、その大男を止めた。
泰子は九死に一生を得たのである。

その日の襲撃で、生き残ったすべての日本人男性は朝鮮人によって連行されていった。


しかし悲劇はそれで終わりではなかった。
その日の夜、恐怖に震えながら泰子らが寝ていると、12時ころ階下から「ミシッミシッ」という音がする。
何者かが3階へ上がってきたのだ。

「起きろ!」
覆面をした朝鮮人と、朝鮮の民族衣装を身にまっとった女性の夜襲であった。
今度は金品目的の襲撃である。
男は泰子の友人の首筋に日本刀を当て、皆を威嚇した。
皆有り金を差し出すと、男は日本刀の先で札と小銭とを分け、札だけ鷲づかみにした。
こうして目的を果たした男と女は去っていったのである。

このままでは、命がいくつあっても足りない。
数時間後の早朝、一行は目立たぬよう数組に分かれ、夜陰に乗じて朝鮮で一番大きな寺、華頂寺へ移動した。
建物は鉄筋で出来ており、そこでは避難した日本人千人あまりが生活を送っていた。

ここならまだ安全だろう。
大勢の日本人と昼夜を共にする安心感は得たものの、新たな危機が泰子らを襲った。
食料である。
最初は朝夕2食のお米だった食事も、物資が乏しくなるにつれてこうりゃんに変わっていった。
ひもじさは増すばかりである。
実際、体力のついていない子供は母親の手の中で次々と死んでいった。


そんな暮らしの中、ロシア人は何人かで昼夜となくやってきた。
昼は時計など貴金属を要求し、夜は女を出せと要求するのである。

しかし寺には日本人男性が4,5人いるだけ。
これ以上彼らの要求を突っぱねることは出来ない。

「女集で話し合ってくれ。」
上等兵は女性たちに言った。

「どうする?」
女性たちは話し合ったが、よい解決策は思い浮かばない。
「自分が犠牲にならなければいけないのか?」
誰もが暗澹たる気持ちになる中、彼女らに一筋の光明が差し込んだ。

「私たちが参りましょう。」

それは何と、華頂寺の納骨堂で生活していた、10人ほどの日本人慰安婦達であった。
彼女らは人目をはばかり、ひっそりとした暗い地下納骨堂での生活を余儀なくされていたのである。
そんな彼女たちが、敢えて人柱となることを買って出たのだ!

数日後、彼女らはロシア人に連れられてひっそりと華頂寺を後にした。
泰子は華頂寺の2階からその姿を見送りながら、慰安婦の人々に感謝の念を抱かずにはいられなかった。
自分は今まで、自身の体を売る慰安婦の人々を蔑視していた。
しかしどうだろう、彼女たちの生き様は。
慰安婦の人々は、自分の身を犠牲にして、他の日本人を守ったのだ。

泰子はその時はじめて気づいた。
人間の価値は地位、財産、職業、などでは計れない。
その心、生き様にこそあるのだと。


慰安婦達の去り行く姿は、何よりも美しく、そして気高いものであった。

そして彼女らが、再び華頂寺の門をくぐることはなかったのである。

世界の原理①~カスパーの法則~

2009-01-07 | 世界の原理
どうも。
またしても始まりました、新シリーズ。
名づけて「世界の原理」。


皆さんが知っている法則ってどんなものがありますか?

フレミング左手の法則(物理学)、パレートの法則(経済学)、メンデルの法則(生物学)、ムーアの法則(情報科学)などなど。
このように世の中には様々な法則が存在します。

そんな、ちまたにあふれている法則を毎回紹介していくというものです。
世にあまり知られていない法則や、僕が発見した法則なども
あればどんどん載せていくつもりです。

さて、記念すべき第一回は....
「カスパーの法則」です。
いってみましょう。

カスパーの法則は、簡単に言えば死体の腐敗速度に関する法則です。
みなさんは空気中、地中、水中のどの時が一番腐敗進行が早いと思いますか?
逆に一番腐りにくいのはどの時なのでしょうか?
ちなみに8: 2 :1 の速度割合になります。
さて、どうでしょう?



考えましたか?
正解は、「空気中がもっとも早く、地中がもっとも遅い」です。
すなわち,空気中:水中:地中の腐敗進行速度は
8: 2 :1 ということですね。
これがカスパーの法則です。

もちろん、たとえば同じ空気中でも微生物などの存在や、温度・湿度の違いによって、腐敗の進行は大きく左右されます。
たとえば、温度が低過ぎると冷凍により腐敗が進行しません。
また、湿度が低すぎると乾燥により腐敗が進行しませんね。
高温、乾燥下でのミイラなどが良い例でしょう。


てなことで、第一回なのにいきなりマイナーかつ、爽やかではない法則を出してしまいましたね。
申し訳ない。
単純にこの法則が真っ先に頭に浮かんだもので。
次回はメジャーどころの法則を持ってこようと思います。

ではでは。


おばあちゃんの満州記①~大陸の花嫁~

2009-01-04 | おばあちゃんの満州記
祖母の泰子(やすこ)は戦中満州に渡り、数々の苦労をして日本に帰り着きました。
そんな祖母の体験を「後世に是非とも伝えなければ」という思いから、筆を執りました。
この話はすべて、祖母から聞いたものです。
祖母と祖父、満州での激動の一年間を描いていこうと思います。
話は全四話、週一回のペースでアップしてゆきます。


まず二人の経歴を簡単に紹介しておきましょう。

祖母泰子は広島の女学校(4年制)を経て、女子専門学校別科(1年制)を卒業しました。
この女子専門学校別科というのは花嫁修業をするところで、料理、縫い物、栄養学、お花、お茶など一通り習ったと言います。
その花嫁修行を終えた後、現代で言えば高校三年生の時から地元の信用組合(現広島信用金庫)で働き始めました。
信用組合では外回りの集金作業に従事していたのだが、当時女性の外周り勤務者は皆無で、泰子は草分け的存在でした。

対して私の祖父寛二は、広島県立広島第一中学校(現国泰寺高校)、広島高等工業学校(当時三年制、現広島大学工学部)を経て、 満州炭鉱に入社しました。
当時は石油でなく、石炭が主力のエネルギー源だったのです。
その満州で日夜働いていた寛二のもとにも赤紙が届き、彼は軍へ身を投じることとなるのです。



************************

泰子に縁談が舞い込んだのは、敗色濃くなる昭和19年暮れの事だった。

寛二は関東軍549部隊の将校で、満州の奉天(現在の瀋陽)で軍務に服していた。
このたび激化する南方戦線へ兵を配置転換するため、配下の兵卒を引きつれ日本に帰国していたのだった。

そんな寛二の元へ、奉天の上官から電報が送られてきた。
「サイタイスベシ」
妻帯しろという上官の指令は絶対である。
早速嫁探しに奔走することになるのだが、そこで白羽の矢が立ったのが寛二の遠縁にあたる泰子だった。
親戚筋のため、お互い安心感もある。
実家同士も近い。
とんとん拍子に話は進み、12月28日のお見合いを経て、縁談は正式に決まった。
当時は結婚もお見合いばかりで,恋愛結婚はほとんど皆無の時代である。

式は翌昭和20年、すなわち終戦の年の1月1日に決定した。
満年齢で寛二26歳、泰子18歳の時である。
新郎は着古した軍服、新婦は着物のいでたちで、式は寛二宅にて厳かに執り行われた。
まさに矢継ぎ早である。

正月3日、寛二は満州へと立った。
泰子は嫁入り準備を整えると、寛二の兄嫁とともに、約一ヵ月後広島を後にした。
寛二の兄は北京の華北電電の局長だったので、兄嫁も同行したのである。

下関から関釜連絡船の一等船室に乗り、釜山へ向かう。
一等船室に乗船した理由は、万が一魚雷を食らっても一等船室の乗客から先に避難出来るからであった。
現に、日本海に浮かぶ無数の魚雷により沈没した船もあった。

だが幸運にも泰子らの船は韓国の釜山に渡ることが出来、そこからは鉄道で奉天へ向かった。


2月4日、泰子の奉天での生活がスタートしたのである。

満州の奉天は零下20度。
外で濡れたタオルを一振りすれば、瞬時に凍るという極寒の世界だ。

住居の暖房はペーチカというもので、石炭を入れて室内を暖めるものであった。
窓は2層になっており、寒気が入らないようになっている。
トイレは俗に言うボットン便所で、うんこが溜まってきたら、凍ったうんこをつるはしで壊してかき出す必要があった。

風呂にいたっては木で作られており、蛇口からの水が凍りつき、浴槽に山のかたちの氷が張っていた。
この氷もつるはしで壊し、かき出すのだ。

「新婚」という甘い響きとは名ばかりの、つらく苦しい生活の始まりであった。