★新緑の安曇野で奏でる 高橋多佳子ピアノ・リサイタル モーツァルト・ショパンからラヴェルまで
《前半》
1.モーツァルト:ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
2.シューベルト:即興曲 作品90より 第1番・第4番
《後半》
3.ラヴェル:「夜のガスパール」“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”
4.ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
《アンコール》
※ シューベルト:楽興の時 第3曲 ヘ短調
※ シューベルト(リスト編):ウィーンの夜会第6番
(2008年5月24日 あづみ野コンサートホール)
今年も安曇野に行けてよかった。
心からそう思えるコンサートだった・・・。
安曇野に高橋多佳子さんを聴きに足を運ぶのはもう3度目になる。
前回・前々回のときもそうだったが、あづみ野コンサートホールに集われる「高橋多佳子のピアノを聴く会」のみなさまにはお世話になりっぱなしだった。
コンサートの始まる前にも後にも、ホントにあつかましくもありがたい経験をさせていただいてしまった。
冒頭にまず、衷心からの御礼を申し上げたい。
ありがとうございました。m(_ _)m
今回のコンサートでは、ピアニスト高橋多佳子さんが初めて人前で披露するレパートリーが多かった。
シューベルトの即興曲第1番、ラヴェルの夜のガスパール“絞首台”“スカルボ”がそうなんだそうだが、後述のように高橋多佳子というピアニストを聴きに集った聴衆はとても幸せで満足な気持ちで会場を後にできたのではなかろうか?
私は、今回のコンサートに最も感激したと断言する!
このことはピアニストご本人にも言明済である。(^^;)
実演に触れるのは久しぶりになってしまったが、「表現者」高橋多佳子は健在どころか、さらに進歩し飛躍を遂げていることが感じられた。
音色のパレット、アゴーギグ・デュナーミクの幅・演奏上のあらゆるコントラスト・・・どの点をとっても私にはしっくりくる。
細かいことを言ってもしょうがないが、何より常にポジティブかつアグレッシブに曲に立ち向かっていく・・・否、曲に対立的に対峙するのではなく、曲と一心同体に同化したうえで自由自在に「高橋多佳子」流にドライブすると言ったらいいのだろうか?
これが何より爽快であり、しかるに心を揺さぶられるのである。
私にとって、もはやこのピアニストのショパンを演奏する流儀が「ショパン流」なのでショパン演奏に関しては公平に判断できないかもしれないが、他の作曲家のものには明らかに「高橋多佳子がこれを演奏しました」という刻印がなされていた・・・などとちょっとシューマン風にも書いておこう。(^^;)
私の感覚に従えば、多佳子さんは・・・ショパンを除いては・・・その作曲家のありようが正しく演奏のいたるところから感じられたり、滲み出たりするところを皮膚感覚で捉えたり、ヘタをしたら探し回らなければいけないような味わい方を期待するアーティストではない。
「どこを切っても生きのいい高橋多佳子節」という演奏こそが、私を元気にしてくれるのだ。(^^;)
さて、例によってコンサートホールには早めに到着したので、ロビーでぼんやりと会場からリハーサルのピアノの音が漏れてくるのに聞き耳を立てていたのだが・・・
あれ、スカルボのパッセージだったのが知らぬ間にスカルラッティの曲に・・・
・・・“スカ”が一緒だからどっちでもいいってか???
あれ、モーツァルトはK.330を演奏するとプログラムにあるのにK.310が聴こえる・・・
・・・それもフレージングを入念にさらってる・・・???
別に「20もサバ読んでる」とは思わなかったが・・・。
コンサートの準備なんだから別に何を弾いても文句はなかろうが、プログラムが変わるのかな・・・なんて勝手に想像してたりして。
いつもながら独特なリハーサルの要領である。
果たしてコンサートは予定通りK.330から始まった・・・やっぱり。(^^;)
ハ長調の素直で明快な曲であり、以前聴いたK.333のようなコロコロ音を転がすようなモーツァルトとはちょっと違った印象。
ここで気づかされたことは、ベーゼンドルファーの澄んだ乾き気味の素の音とペダルを踏み込んだ時にジュンと潤う音の差を意識した絶妙な節回し。
キュートにアクセントをつけたり、フレージングにせよ自然な流れのうちにあらゆるコントラストつけることで愉悦感を感じさせてくれる。
モーツァルトを聴くのに長けていると自認する人の中には、グルダをやりすぎとか言うかたもいるように、多佳子さんの演奏にも作為・工夫を凝らしすぎと感じる向きもあるだろうが、モーツァルトが天衣無縫に音楽的にはやりたい放題を盛り込んだのだとしたら、果敢に表現しに行っていけないはずはない。
誰が何といっても、私にはこのうえなく楽しく聴くことができるものだったからそれでいい!
・・・と言っちゃったらおしめぇか。。。(^^;)
そして初出のシューベルト。
シューベルトを聴くに関しては、私は人後に落ちないつもりである。(^^;)
ショパンより多くのディスクを持っているし、D.960に関しては47種類、即興曲も20余種を数えるものを聴き比べているのだから、そのように言っても許されるのではないか?
ただしシロートの偏頗な耳しか持ち合わせていないことはお断りしておかねばなるまい・・・。(-"-;)
そして結論から言えば、高橋多佳子のシューベルトを余すところなく聴くことができた。
つまり、これまで誰も見たことのない「シューベルトの新しい地平」を見、誰も聴いたことがない「新しいシューベルト像」が打ち立てられたのを聴いたのである・・・って大袈裟か?(^^;)
だって「鳥肌立ちっぱなしだったんだもん」と言ったとて説明にはならないが、それぐらい感激した。
シューベルトにはD.958やD.959それぞれの第一楽章のような押し出しの強いように思える曲もあるが、ここで畳み掛けていくぞというところでいきなりショボくピアノになってしまうようなところがある。
これがD.960や殊にD.894なんかになると、「生と死のあわいに」というか、もはや体が半分透き通っちゃってこの世とあの世の境でエコーを聴いて佇むのみという感じになってしまう。
くどいようだが、あくまでも私のイメージではであるが・・・。
即興曲第1番は悲劇的であるなかに麗しい旋律も織り込まれるものの、運命に翻弄されまくって最期はそれでも安らかに悟るか、諦めるかする・・・というイメージの曲である。
だから、曲の精神というか本質を抉り出すのではなく、楽曲を美しく聞かせるという種の演奏であれば別だけれども、激しい曲調にどうも流されるまま抗えずに果てて終わりました・・・という演奏が多いように感じる。
もしくは、最初から終いまで悲劇のカタマリであるとか。。。
しかし高橋多佳子さんのそれは違う。
まず主体が確固として「存在」し、積極的にもがき前進することをやめない。
とにかくポジティブであることをやめないで、死ぬまでの時間にあって「死ぬ」ことではなく今この時間を「生きる」ことのみを考え抜いて、生き抜いた超前向きなシューベルト。
強靭な表現への志向がそんなことを感じさせる。
だれあろう私のごとく、シューベルトに対する先入観を持っているならば「これは一般的に認知されているシューベルトとは違う」ということにもなろう。
事実、多佳子さん以外がこの流儀で演奏したら「わかってないヤツ」と思ったかもしれない。
でも実際には、冒頭のオクターブのト音、そして単音で紡ぐテーマ・・・ここで最早名演奏を確信してしまっていた。
ト音が鍵盤をひっぱたかないのにあんなに強靭な音がでる訳・・・は終演後に教えてもらうことができた。
技術的な「脱力」のしかたのメソッドで、ここ1年このスキルをマスターすることが出来たと多佳子さんが自認するところであった。
コンサートホールのベーゼンドルファーはかつてなく雄弁に鳴っていた。それは容易に聞き取ることができた。
事実、楽器の鳴りもどんどんよくなっているだろう。そして調律師による調整も精緻に為されていたとは思うけれど、私にはピアニスト本人の技術的な進歩が少なからぬ要因であろうと信じられてならない。
またはじめの旋律が和音になるところ、楽譜上はスタッカートの指示があると思うのだがここが絶妙であった。
私にはツィメルマンは明快に切り過ぎだと思えるし、かといってテヌート気味に弾かれちゃってもおかしいように思われるのだが、どんな魔法を使っているかは知らないがハギレはいいけどブツ切れにならないという絶妙な重さで弾き進められていった・・・。
その後はとにかく第4番も含めて傾聴させられっぱなしであった。
先の旋律の処理のように細かいことを言い出せばキリがない。例えば第1番の甘美なメロディーを支える3連符の音の処理(いつも聴いてる版と違ったのかもしれない)が凄く素敵であったとか・・・とにかく、ベーゼンドルファーならではの響きに食い入ったというかのめり込むばかり・・・この感激は「不立文字」というほかはない。
曲間の作品解説において作品90第3番の即興曲に関して、同じく変ト長調であるショパンの即興曲第3番作品51への影響を指摘された多佳子さん。
じぇんじぇん気付かんやったぁ~・・・って、普通気づかないと思うけど。(^^;)
「弾き比べてみたい」って、それナイスアイデアじゃなくって!?
ぜひ実現させてほしいものである。。。
ともあれシューベルトはこれまで食わず嫌いだったが、安曇野のお仲間からのリクエストがあったのでチョイスした・・・とのことだった。
こうなると、私としてはリクエストしてくれたかたには感謝してもしすぎることはない。
多分あの方だと思うのだが、ご本人が何ゆえか煙にまいてらっしゃるのかまかれてらっしゃるのか定かでないのでホントの所はよくわからない。
とにかく御礼だけ言わずにはおれないでいる私。。。(^^;)
・・・などと自分の書いた文章のヨッパライ加減に煙にまかれつつ、白眉のラヴェルを含む後半へつづく。
(ちびまる子ちゃん風)
後半発表は、早くて出張明けになる。それがいつかは・・・ナイショにしておく。(^^;)
《前半》
1.モーツァルト:ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
2.シューベルト:即興曲 作品90より 第1番・第4番
《後半》
3.ラヴェル:「夜のガスパール」“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”
4.ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
《アンコール》
※ シューベルト:楽興の時 第3曲 ヘ短調
※ シューベルト(リスト編):ウィーンの夜会第6番
(2008年5月24日 あづみ野コンサートホール)
今年も安曇野に行けてよかった。
心からそう思えるコンサートだった・・・。
安曇野に高橋多佳子さんを聴きに足を運ぶのはもう3度目になる。
前回・前々回のときもそうだったが、あづみ野コンサートホールに集われる「高橋多佳子のピアノを聴く会」のみなさまにはお世話になりっぱなしだった。
コンサートの始まる前にも後にも、ホントにあつかましくもありがたい経験をさせていただいてしまった。
冒頭にまず、衷心からの御礼を申し上げたい。
ありがとうございました。m(_ _)m
今回のコンサートでは、ピアニスト高橋多佳子さんが初めて人前で披露するレパートリーが多かった。
シューベルトの即興曲第1番、ラヴェルの夜のガスパール“絞首台”“スカルボ”がそうなんだそうだが、後述のように高橋多佳子というピアニストを聴きに集った聴衆はとても幸せで満足な気持ちで会場を後にできたのではなかろうか?
私は、今回のコンサートに最も感激したと断言する!
このことはピアニストご本人にも言明済である。(^^;)
実演に触れるのは久しぶりになってしまったが、「表現者」高橋多佳子は健在どころか、さらに進歩し飛躍を遂げていることが感じられた。
音色のパレット、アゴーギグ・デュナーミクの幅・演奏上のあらゆるコントラスト・・・どの点をとっても私にはしっくりくる。
細かいことを言ってもしょうがないが、何より常にポジティブかつアグレッシブに曲に立ち向かっていく・・・否、曲に対立的に対峙するのではなく、曲と一心同体に同化したうえで自由自在に「高橋多佳子」流にドライブすると言ったらいいのだろうか?
これが何より爽快であり、しかるに心を揺さぶられるのである。
私にとって、もはやこのピアニストのショパンを演奏する流儀が「ショパン流」なのでショパン演奏に関しては公平に判断できないかもしれないが、他の作曲家のものには明らかに「高橋多佳子がこれを演奏しました」という刻印がなされていた・・・などとちょっとシューマン風にも書いておこう。(^^;)
私の感覚に従えば、多佳子さんは・・・ショパンを除いては・・・その作曲家のありようが正しく演奏のいたるところから感じられたり、滲み出たりするところを皮膚感覚で捉えたり、ヘタをしたら探し回らなければいけないような味わい方を期待するアーティストではない。
「どこを切っても生きのいい高橋多佳子節」という演奏こそが、私を元気にしてくれるのだ。(^^;)
さて、例によってコンサートホールには早めに到着したので、ロビーでぼんやりと会場からリハーサルのピアノの音が漏れてくるのに聞き耳を立てていたのだが・・・
あれ、スカルボのパッセージだったのが知らぬ間にスカルラッティの曲に・・・
・・・“スカ”が一緒だからどっちでもいいってか???
あれ、モーツァルトはK.330を演奏するとプログラムにあるのにK.310が聴こえる・・・
・・・それもフレージングを入念にさらってる・・・???
別に「20もサバ読んでる」とは思わなかったが・・・。
コンサートの準備なんだから別に何を弾いても文句はなかろうが、プログラムが変わるのかな・・・なんて勝手に想像してたりして。
いつもながら独特なリハーサルの要領である。
果たしてコンサートは予定通りK.330から始まった・・・やっぱり。(^^;)
ハ長調の素直で明快な曲であり、以前聴いたK.333のようなコロコロ音を転がすようなモーツァルトとはちょっと違った印象。
ここで気づかされたことは、ベーゼンドルファーの澄んだ乾き気味の素の音とペダルを踏み込んだ時にジュンと潤う音の差を意識した絶妙な節回し。
キュートにアクセントをつけたり、フレージングにせよ自然な流れのうちにあらゆるコントラストつけることで愉悦感を感じさせてくれる。
モーツァルトを聴くのに長けていると自認する人の中には、グルダをやりすぎとか言うかたもいるように、多佳子さんの演奏にも作為・工夫を凝らしすぎと感じる向きもあるだろうが、モーツァルトが天衣無縫に音楽的にはやりたい放題を盛り込んだのだとしたら、果敢に表現しに行っていけないはずはない。
誰が何といっても、私にはこのうえなく楽しく聴くことができるものだったからそれでいい!
・・・と言っちゃったらおしめぇか。。。(^^;)
そして初出のシューベルト。
シューベルトを聴くに関しては、私は人後に落ちないつもりである。(^^;)
ショパンより多くのディスクを持っているし、D.960に関しては47種類、即興曲も20余種を数えるものを聴き比べているのだから、そのように言っても許されるのではないか?
ただしシロートの偏頗な耳しか持ち合わせていないことはお断りしておかねばなるまい・・・。(-"-;)
そして結論から言えば、高橋多佳子のシューベルトを余すところなく聴くことができた。
つまり、これまで誰も見たことのない「シューベルトの新しい地平」を見、誰も聴いたことがない「新しいシューベルト像」が打ち立てられたのを聴いたのである・・・って大袈裟か?(^^;)
だって「鳥肌立ちっぱなしだったんだもん」と言ったとて説明にはならないが、それぐらい感激した。
シューベルトにはD.958やD.959それぞれの第一楽章のような押し出しの強いように思える曲もあるが、ここで畳み掛けていくぞというところでいきなりショボくピアノになってしまうようなところがある。
これがD.960や殊にD.894なんかになると、「生と死のあわいに」というか、もはや体が半分透き通っちゃってこの世とあの世の境でエコーを聴いて佇むのみという感じになってしまう。
くどいようだが、あくまでも私のイメージではであるが・・・。
即興曲第1番は悲劇的であるなかに麗しい旋律も織り込まれるものの、運命に翻弄されまくって最期はそれでも安らかに悟るか、諦めるかする・・・というイメージの曲である。
だから、曲の精神というか本質を抉り出すのではなく、楽曲を美しく聞かせるという種の演奏であれば別だけれども、激しい曲調にどうも流されるまま抗えずに果てて終わりました・・・という演奏が多いように感じる。
もしくは、最初から終いまで悲劇のカタマリであるとか。。。
しかし高橋多佳子さんのそれは違う。
まず主体が確固として「存在」し、積極的にもがき前進することをやめない。
とにかくポジティブであることをやめないで、死ぬまでの時間にあって「死ぬ」ことではなく今この時間を「生きる」ことのみを考え抜いて、生き抜いた超前向きなシューベルト。
強靭な表現への志向がそんなことを感じさせる。
だれあろう私のごとく、シューベルトに対する先入観を持っているならば「これは一般的に認知されているシューベルトとは違う」ということにもなろう。
事実、多佳子さん以外がこの流儀で演奏したら「わかってないヤツ」と思ったかもしれない。
でも実際には、冒頭のオクターブのト音、そして単音で紡ぐテーマ・・・ここで最早名演奏を確信してしまっていた。
ト音が鍵盤をひっぱたかないのにあんなに強靭な音がでる訳・・・は終演後に教えてもらうことができた。
技術的な「脱力」のしかたのメソッドで、ここ1年このスキルをマスターすることが出来たと多佳子さんが自認するところであった。
コンサートホールのベーゼンドルファーはかつてなく雄弁に鳴っていた。それは容易に聞き取ることができた。
事実、楽器の鳴りもどんどんよくなっているだろう。そして調律師による調整も精緻に為されていたとは思うけれど、私にはピアニスト本人の技術的な進歩が少なからぬ要因であろうと信じられてならない。
またはじめの旋律が和音になるところ、楽譜上はスタッカートの指示があると思うのだがここが絶妙であった。
私にはツィメルマンは明快に切り過ぎだと思えるし、かといってテヌート気味に弾かれちゃってもおかしいように思われるのだが、どんな魔法を使っているかは知らないがハギレはいいけどブツ切れにならないという絶妙な重さで弾き進められていった・・・。
その後はとにかく第4番も含めて傾聴させられっぱなしであった。
先の旋律の処理のように細かいことを言い出せばキリがない。例えば第1番の甘美なメロディーを支える3連符の音の処理(いつも聴いてる版と違ったのかもしれない)が凄く素敵であったとか・・・とにかく、ベーゼンドルファーならではの響きに食い入ったというかのめり込むばかり・・・この感激は「不立文字」というほかはない。
曲間の作品解説において作品90第3番の即興曲に関して、同じく変ト長調であるショパンの即興曲第3番作品51への影響を指摘された多佳子さん。
じぇんじぇん気付かんやったぁ~・・・って、普通気づかないと思うけど。(^^;)
「弾き比べてみたい」って、それナイスアイデアじゃなくって!?
ぜひ実現させてほしいものである。。。
ともあれシューベルトはこれまで食わず嫌いだったが、安曇野のお仲間からのリクエストがあったのでチョイスした・・・とのことだった。
こうなると、私としてはリクエストしてくれたかたには感謝してもしすぎることはない。
多分あの方だと思うのだが、ご本人が何ゆえか煙にまいてらっしゃるのかまかれてらっしゃるのか定かでないのでホントの所はよくわからない。
とにかく御礼だけ言わずにはおれないでいる私。。。(^^;)
・・・などと自分の書いた文章のヨッパライ加減に煙にまかれつつ、白眉のラヴェルを含む後半へつづく。
(ちびまる子ちゃん風)
後半発表は、早くて出張明けになる。それがいつかは・・・ナイショにしておく。(^^;)
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