SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

高橋多佳子ピアノ・リサイタル in あづみ野コンサートホール (その2)

2008年05月29日 02時00分00秒 | 高橋多佳子さん
★新緑の安曇野で奏でる 高橋多佳子ピアノ・リサイタル モーツァルト・ショパンからラヴェルまで

《前半》
1.モーツァルト:ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
2.シューベルト:即興曲 作品90より 第1番・第4番

《後半》
3.ラヴェル:「夜のガスパール」“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”
4.ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22

《アンコール》
※ シューベルト:楽興の時 第3曲 ヘ短調
※ シューベルト(リスト編):ウィーンの夜会第6番
                  (2008年5月24日 あづみ野コンサートホール)

さて、前半のシューベルトで“微温的陽炎感”とでもいうべき現世と黄泉の国のあわいに存在するともしないとも・・・という、私の先入観を気持ちよく木っ端微塵にしたうえで感激の鳥肌音響を放逸してくれた多佳子さん。
そのポジティブな響きに耳が洗われる思いであったことは述べたとおり。

毎度のこと(ここでは以前1回しか見ていないがきっとそうなのだろう)ながら舞台袖ではなく、多佳子さんが客席の間を颯爽と引き上げていくのを、普段よりいくぶん手を高めの位置で拍手して見送り休憩と相成った。
会場は石造りの教会を思わせるほどにひんやりしていたが、ここまでで私は随分と上気していたような気がする。


もともと今回の目玉はラヴェルだと私は考えていたのだが、なんのなんのこのシューベルトへの独特な入れ込みようを聴いただけで大満足であった。

・・・ところがぎっちょんちょん。
やはりこれだけで終わるはずもなく、終わってしまえば白眉はラヴェルだったと思える。
それほどのカンドーものだった・・・ということだ。(^^)/


休憩時間、私はシューベルトの余韻に浸って前の記事に書いたとおりの何にどう感動したのかをいうメモを思いつくまま走り書きしていた。
あそこはこんな風だったとか、ここは・・・と置かれた音、響きのニュアンスをしっかりと反芻することができた。


ところで、同じ時間に多佳子さんは休憩の楽屋で窓の外で鳴き騒ぐ「蛙の大合唱」に聞き入っていたんだそうな・・・。
(^^;)

周知の通り「夜のガスパール」はアロイジュス・ベルトランの幻想的・怪奇的な詩集のうちから3篇を選び、ラヴェルがその詩の内容に実に忠実に曲を付したもの。
第1曲“オンディーヌ”は水の精であり終始雨音とも水の雫がしたたり落ちる音ともつかない忙しない音型が、終始曲を彩っている・・・。

この曲は野島稔さんのディスクで初めて聴いてから、その美しさに魅了され続けてきたのだがポゴレリチ、アルゲリッチなどの技術的に完璧にしてどこかへ連れ去られそうなコワさを秘めた演奏、あるいはフセイン・セルメットの超ジックリ歌いこまれた演奏などにそこはかとない魅力を覚えてきた。
一方ではサンソン・フランソワの演奏のごときファンタジックな演奏もあり、これはこれで唯一無二のチャームを持っている・・・ただし、青柳いづみこさんの指摘を待つまでもなくなんだかアヤシい演奏なのである。

魅力的なんだからそんなことはどうでもいいのかもしれないが、テクニックが・・・というよりなんだか本能的というか確信犯的にアヤシいのである。
だからこそあの気分あるいは奏楽の風合いが醸し出されるのであれば文句を付ける所以はない・・・けど。
でも、あの気持ちよく騙されていたいという演奏も良いが、フツーの演奏でファンタジーやポエジーが表現できないものか・・・との思いはどうしてもあった。

演奏前の曲解説で多佳子さんそんな私に「夜のガスパールは夜の音楽で、『幻想的』に弾きたい」などと所信を表明されたので、正統的な奏楽によるファンタジックでポエットな演奏への期待はいや増すばかり。


具体的には、「オンディーヌは夜の深い森の中で蛙や虫が鳴いているイメージ・・・だから安曇野の田圃の蛙を聞いてイメージどおりだぞ!」って・・・なんて突拍子もないくせに、思わず膝を打ってしまいそうなコメント。。。
こんな説明をすれば会場にどっと笑いがあふれ緊張感はフッと消えることになるのは必定、こんなところも多佳子さんのかけがえのない魅力だなのだが・・・私は思わず「やられた!」と感じた。

というのは、かねて謎だったこの曲に感じる(フランソワ的)ファンタジーの秘密の核心を、これほどまでに捉えた文句はないと思われたから。

これまで長い間騙されていた、いや気付くことができずにいたオンディーヌの「右手音型の意味」・・・。
即ち、雨・水の雫・飛沫の音だけではなく、恐らくは霧や驟雨に煙った夜半の湖畔で深い木々の中で蛙や虫が鳴く・・・そんな“雰囲気全体”を右手に託したときに幻想性が現われるのだ。
そしてこの仮説は恐らく正しいのだろうと信じられる。

また、多佳子さんがそう弾くと言った以上はそのように聴こえるに違いないのだ。
ラフマニノフの第2番ソナタの冒頭が「ロシアの荒野を風がわたる情景」だと解釈され、そのとおりの風景が浮かんだように・・・。


ところで多佳子さんはこの夜のガスパールの演奏の際、ひとつのチャレンジをされた。
それは、それぞれの曲の演奏に先立って、楽譜に記載されているベルトランの詩を自ら朗読する・・・というもの。
小さい頃アナウンサー志望だった(未確認情報!?)というだけあって、なかなかのものだった。

ホールでできるだけの照明の工夫でムードを盛り上げたのも楽しかったが、スポットライトとか、朗読する詩を置く台を別途オシャレに準備するなどさらに快適な演出をされたらきっと評判を取るんじゃないか・・・?
つくづくエンターティナーだなと思う。
朗読を別人に頼む・・・という企画は見たことがあるが、そこまで自分でできちゃうところがいかにも凄いこと。
いろいろなお考えを持たれる聴衆はいると思うが、私は応援したい企画である。


さて、肝心要の「幻想的に」という目論見はどうだったのかというと・・・?
果たして宣言(?)の通り・・・蛙の歌でイメージトレーニング十分のそのオンディーヌの出だしから、あたりの空気は曲の雰囲気に一瞬で支配されることになり、私にはかのフランソワの幻想性をも凌駕する演奏とあいなった。

私の耳と心は半ばのめりこみ、半ば冷静に楽句のひとつひとつを追った。
演奏中にはそれと判るミスタッチもあったけれど、この曲全体が醸し出すアトモスフィアの中では何の懸念も起きはしない。

スタインウェイやヤマハと違う、ベーゼンドルファーの特質がよく生きた響きがオンディーヌの物語を綴っていく・・・途中の盛り上がりの迫力は「よくぞベーゼンで・・・」と思わせる迫力もの。
その際の下りが先日のヤマハのときのような響きとならないのは良くも悪くもピアノの性格の違い・・・どっちがいいとかではなく、純粋にその違いを受け容れて楽しむことができるように弾かれているように聴こえるのは、きっとピアノをよく聴きながらその表現を合わせているのに違いない。
だから、同じ曲でも何度も、それも違ったシチュエーションで経験しているとその分楽しみが増える・・・というのをまたも感じることとなった。


そして私がふと耳を留めたのは、最後のオンディーヌのモノローグになる単音のところ・・・それまでのピアノの響きがペダルで混濁しないよう精妙に残されながらオンディーヌがつぶやくのがとても新鮮な気がした。

多くの演奏で、ここはいったんすべての音を断ち切って、無音の中でオンディーヌに拗ねて憎んだ言葉を吐かせるものだという先入観ができていた・・・と思っている間に、オンディーヌはとてつもない水飛沫となって幻想感いっぱいにたゆたうように消えていった。。。


私はやはりこの曲目当てで、この曲の演奏に最も打たれた。
もちろん“絞首台”でも、執拗に打ち鳴らされる鐘の音・・・これをここまでリアルに意志的に続けられる集中力に感服したし、“スカルボ”ではご本人が初めてにしては発散して弾けたので良かったと述懐されたように、その運動性能とツッコミの激しさを満喫した。

確かにピアニスト自身が語ってくれたように、もっと曲中で制御できないといけないと思っているといわれる所以も判る演奏だったかもしれない。
そして、これも言われるようにさらに弾き込んで曲を手の内に入れれば、毎度のショパンあるいはこの日のモーツァルトやシューベルトの楽曲で、細心のコントロールで絶妙なコントラストを鮮やかに決めたごとく完成度はあがるのだろう・・・。


でも、私はこの演奏を聴いてさえ、なんともいえない満足感をいだくものである。
それはタイガー・ウッズが350ヤード飛ばすのは、力いっぱい振り切ってかっ飛ばすからであって、多少フェアウエイの端の方に飛んだとてそのショットに触れたら身震いするのと同じ感覚といえばいいのだろうか?

つまり、初演の曲であるといいながら、その演奏は力いっぱい疾走し“スカルボ”が独楽のように回転して、駆け巡っているさまが疑いなくすごいスケールで展開されていたから・・・である。
こういった態度で提供された曲を「高橋多佳子節」と言わずしてなんと表現してよいだろう・・・。(^^;)

そして、曲は最後、蒼白く燃え尽きるかのように、この上なく玄妙に消えうせた・・・。
ここのコントラストとニュアンスは、この曲史上初めて聴いたと言ってよいほどまでに鮮やかに決まっていた。


私の演奏会行脚の歴史上、これまで「ブラヴォー」と声を上げたことはなかったが、後ろですかさず声が上がったことに背中を押されて、私も(3番目に)とうとう声が出た。(^^;)
これはおぞましくも凄いことである。言おうかなと思っても、理性で抑えちゃう人だから・・・。
ちなみに、私の後にももうおひとりブラヴォーを投げた人がいたので「最後じゃなくて良かった」なんて内心思っていたりもする。^^


さて、最後のショパンだが、さすがにスカルボの後なので、一旦袖に引っ込んで出てこられたものの、まだ息も荒い様子。
それでもラヴェル初演で「細かいことはともかく発散できたのがよかった」と手応えを感じた旨のコメントと、ショパンの作品の説明のうちにはペースを取り戻されたようだった。


アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ、この曲の説明として「若きショパンの野望・憧れなどが詰まった曲である」に異論はないが、その通りに弾けちゃっている演奏はそうそうお目にかかれないのではないか?

流れるようなアンダンテスピアナート・・・アルペジオの表情と装飾音の輝き、煌きを何に喩えたらよいものか・・・そしてよくぞあの体躯で力強く弾き続けられると会場全体が驚いていた大ポロネーズ。
期待通りの素晴らしい演奏で私としてはまったく安心して聴けちゃった。
弾いてるほうは大変なんだろうが・・・。

これにもブラヴォーが飛んでいたが当然だろう。私は安心しきっちゃってたので口にでなかったが。(^^;)


アンコールだがシューベルトに因んだものが2曲。
ラ・フォルネ・ジュルネのために準備したという有名な「楽興の時第3曲」、そしてリスト編のヴァルス・カプリース「ウィーンの夜会第6番」。
ポロネーズから続いて舞曲つながりかなという気もしたけれど、それはきっと重要なことではない。

多佳子さんの魅力は伴奏(左手)の小股の切れ上がったシャープなリズムにもあるとかねがね思っているが、朴訥としたリズムの運びがとっても味わい深かった。
メロディーもロシア風といわれるけれど、とてもチャーミングに印象深く弾きあらわされていて、簡素な曲だけれど聴き応えはあった。
もっともそれまでに聞いた曲が曲なだけに、相対的に軽いといってしまえばそれまでだが。

ウィーンの夜会でもいくつものワルツが展開していくところもさることながら、最後の装飾音の表情たるや・・・期待して聴いたけれどその期待のはるか上を行くチャーミングさでウットリ。
しかしアンコールににしては・・・大曲を弾いてくれることが多いよな。(^^;)

ここでの演奏はホロヴィッツ・ヴァージョンだったんだそうな・・・実は、どこがどうだからホロヴィッツ・ヴァージョンなんだかわからないのだが、なにはともあれ大団円である。



あとはいつものようにサイン会で丁寧に日付入りサインをいただき、今年はなんと写真にも収まってしまって光栄な限り。

多佳子さんとのお話の中ではラヴェルは是非録音したいとのこと・・・心強い限りである。
実現するようにあらゆる応援(と言って祈るぐらいしかできないが)をしちゃいたい気分!


その他、シューマンのクライスレリアーナもレパートリーに加えようかという意向をお持ちだそうで、これで私のシューマンへの苦手意識もなくなるかと思うと慶賀すべき事柄である。
思えば、かのペライアが第1曲を「まるでバッハだ、バッハしてるなぁ~」とノタマわっていたことを思えば、バッハ→ショパン→ラフマニノフが一連の流れの中にあると仰る多佳子さんにとっては、やはりシューマンを弾く場合のファーストチョイスになるのだろうか?

私的感覚では幻想曲ハ長調作品17のカオスを内包して滑るように疾走して行くさまも多佳子さんにはぴったんこだと思うのだが・・・そしてその被献呈者リストが謝礼としてシューマンに贈り返したロ短調ソナタも・・・と勝手に夢は広がっていく。(^^;)

そのリストだが、巡礼の年第2年の“ダンテを読んで”にはチャレンジすると仰っていた・・・冒頭の強打のほどよい緊張感から聴きものである。
これは文句なく多佳子さんに合うだろう。
女流だとその前のペトラルカのソネットをまとめて・・・という選曲が多い中、大いに頷けるところではある。


ファンだから、何を弾いてもらっても嬉しいんだが・・・。(^^;)

多佳子さん。
声援はずっと送りつづけるから、これからもステキな音楽を紡ぎ出してくださいね。
できれば録音もなんとか。(^^;)
よろしく。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿