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浄土真宗の基礎を築いた親鸞は晩年に息子が異端となり 困り果てて親子の縁を切る

2017-11-28 05:58:29 | Weblog

■本願寺教団の基盤となる親鸞の斬新過ぎる教えとは
 親鸞(1173~1262)より以前の仏教は、一部の上流階級に対して「善行を積んだ者のみが自力で極楽浄土に行けますよ」と説いていたのだが、親鸞は「何を仰る。他力を必要とする弱い者ほど仏は手を差し伸べて下さるのです。だから念仏しましょう」と説いたのだった。
親鸞の教えを残した『歎異抄』には、そんな民衆を救う法語が見受けられる。この親鸞の教えは徐々に民衆の間で広まって行く。
「徳を積まなくても、自分たちだって極楽浄土に行けるんだ」と知った人たちが集まって、ただただ念仏をする。それだけで幸せになれる。この教義は後に浄土真宗と呼ばれることとなり、子孫の蓮如の代で大教団に成長し、本願寺教団の基盤となった。

■聖徳太子が肉体の交わりを受け入れる夢を観た親鸞
 1173年、親鸞は日野有範の長男として誕生する。九歳の時に京都青蓮院に於いて、後の天台座主・慈円の下で得度し、範宴と称する。言い伝えによれば、この時「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠み、「もう夜も遅いから明日得度の式をしよう」と言う慈円に、「いつ散るか分らない花のように、私もいつ死ぬか分らない」と言ったと謂う。
出家した親鸞は叡山に入り、二十年に渡る厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じる様になったと謂う。
その後、六角堂に百日参籠した時、夢の中に聖徳太子が現れて、「私が女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。
そして、お前の一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう」と告げられたと言われている。
色と欲から生まれたはずの人間が、僧侶になることによって何故これらから切り離されなければならないのかと云う矛盾に悩んでいた親鸞にとって、肉体の交わりを持っても極楽に行けると云うお告げは衝撃的だった。
目覚めた親鸞は、阿弥陀仏の本願にすがって極楽に往生することを説いた法然を訪ねた。
法然の教えに触れ帰依を決めた親鸞だったが、法然や親鸞の唱える阿弥陀仏の本願は、当時の旧仏教側からの反発と弾圧を招き、二人は共に流罪に処されてしまうのだった。
親鸞の罪が許されるのは、配流にあってから四年後の1211年のこと。暫く親鸞は越後に留まっていたが、やがて常陸へと移住し関東を中心に布教活動を行っていたのだった。
親鸞は京都に戻るまで約二十年間を関東で活動し、一大勢力を作り上げることに成功する。
ちなみに、浄土真宗の開祖は親鸞とされているが、親鸞が浄土真宗を作ったわけではなく、死後に門弟たちが教団として発展させたものである。親鸞は教団を作ることに否定的だったとも言われる。

■親鸞の教えが捻じ曲げられ 息子までもが異教の毒牙に
 親鸞が京都に戻ると、関東では親鸞の教えを捻じ曲げた「専修賢善」が唱えられる様になった。
専修賢善はただ念仏をするだけで良いのではなく、善行を求めるのだった。即ち、利益を得ようとする者が現れたのである。
これを鎮める為に親鸞は息子である善鸞を関東に派遣するのだが、善鸞は関東で専修賢善に毒されてしまった様で、「父の教えは真意ではない。捨ててしまおう」と触れ回り、「自分こそが生き仏である」とまで訴え出したのだった。
困り果てた親鸞は、1256年に善鸞に宛てて手紙を出し、親子の縁を切ることを伝え、騒動は一段落した。
尚、善鸞はその後も関東を中臣心に布教活動を続けており、少なからず善鸞の教えを信奉する者もいた様である。
その教えは浄土真宗の呪術的異教である隠し念仏として、摘発を受けながらも東北地方ではひっそりと後世に伝えられたと言う。

(画像・親鸞八十三歳の肖像『安城御影』、親鸞直筆の著作『三帖和讃』)

*まとめ
 浄土真宗の開祖の教えは息子には届かなかった

   


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