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◆源氏に先んじて支配体制を確立 平氏政権は最初の武家政権だったのか?

2019-11-02 04:15:39 | Weblog


平清盛


白河法皇


『武家政権の始まりは源頼朝による源氏政権といわれて来たが、平安時代末期、平清盛によって興された平氏政権が最初の武家政権であるという説がある。』

高い支持率を持つ政権の首班や高いシェアを誇る企業などに対して「奢る平氏は久しからず」という言葉が使われることがある。出典は鎌倉時代の軍記物語「平家物語」で、巻第一にある「奢れる人も久しからず」から転じたものだ。 平家こと平氏は鎌倉幕府が開かれる前に、平清盛によって大いに繁栄したが、有名な壇ノ浦の戦いで源氏に敗れて滅亡した。冒頭の言葉はそんな平氏の盛衰を言い表したものだが、平氏をそこまで繁栄させた清盛には古くから大きな謎がつきまとっている。 その謎とは清盛の出生に関わるもので、清盛は白河法皇のご落胤だったという説が根強くあるのだ。平氏の系図には、清盛は平忠盛の子として記されているが、「平家物語」によると、「清盛は、忠盛が子にあらず、真は白河の院の御子なり」なのだ。その根拠についても記述があり、清盛の母は京都東山の麓の祇園の辺りにいた祇園女御という女性で、法皇の寵愛を受けていた。祇園女御は法皇の子を身もごったが、出産前に、法皇に仕えていた忠盛に下賜された。このご落胤説w裏付けると思われるのが、清盛の異例の出世だ。清盛は武士の家に生まれたにも関わらず、12歳で従五位下、佐兵衛佐に任じられ、時の公卿の日記に「人の耳目を驚かす歟」と記されたほど世間を驚かせた。更に、18歳で従四位下、29歳で正四位下、安芸守と昇進し続け、ご落胤として特別扱いされたことを印象付けたという。 しかし、この祇園女御母親説には異説があり、明治26(1893)年、星野恒氏が滋賀県の胡宮神社に9伝わる史料によって、「清盛の母は祇園女御ではなく祇園女御の妹である」と唱えた。この説によれば、祇園女御の妹は法皇の子を身ごもったまま忠盛に下賜され、清盛を生んだ後に亡くなった。そこで姉の祇園女御が清盛を養子として育てたという。いずれにしても、清盛は白河法皇のご落胤というわけだ。

*摂関政治に似た貴族的な平氏政権  
清盛ご落胤説は謎のままだが、清盛にはもう一つ謎がある。それは清盛が興した平氏政権が、源頼朝による源氏政権よりも先に成立した武家政権ではなかったかということである。 これまで、教科書などでも鎌倉幕府が開かれた中世は武家政権の時代と言われて来たが、平安時代末期に既に武家政権は成立していたというのだ。そこで平氏政権が成立するまでの経緯を改めて見てみよう。
保元元(1156)年に鳥羽法皇が崩御した後に崇徳上皇方と後白河天皇方との間で戦(保元の乱)が起こると、清盛は平氏の棟梁として源義朝と共に後白河に味方し、勝利をもたらした。保元の乱の2年後、後白河が譲位して院政を始めると、二条天皇と藤原信頼・源義朝らが結び、後白河上皇や側近の藤原信西と対立。平治元(1159)年、清盛が一族を率いて熊野三山に参詣に出た後に、二条天皇方(天皇親政派)と後白河上皇方(院政派)で戦(平治の乱)が起こった。当初、天皇親政派は上皇を内裏に幽閉し、信西を襲って自害させるなどして勢いがあった。ところが、清盛が帰京すると形勢は逆転。平氏軍は天皇を奪回し、上皇を脱出させると、義朝軍を破り(後に暗殺)、信頼を処刑した。 翌年、清盛は正三位・参議に叙任すると、その後、右衛督・検非違使別当・権中納言・従二位・権大納言・兵部卿・正二位と昇進し、仁安2(1167)年、従一位・太政大臣となったのである。 清盛による平氏政権の成立時期については諸説あるが、太政大臣の叙任を以て清盛を首班とする平氏政権が誕生したとする平氏政権が誕生したとする説がある。歴史学者の五味文彦氏も「後白河・二条の対立の中でも常に権力の中枢にあり、軍事・警察権を握って諸勢力を抑えていた清盛の存在から見れば、或いは平治の乱後の政権は清盛政権といえるかも知れない」(五味文彦『大系日本の歴史5 鎌倉と京』)(小学館)とされる。 しかし、清盛政権を武家政権と呼ぶことには疑問を呈し、「武家政権と呼ぶ為には地方の武士団を広く結集している必要があるが、平氏の武力の基盤はあまりに狭いものであったし、武士団を広く組織する為の政策も、まだ当時はなかった」(前掲書)と述べている。 清盛が目指したのは武家政権ではなかったという指摘もある。清盛の娘はいずれも公卿の家に嫁ぎ、中でも徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となった。その徳子が男子を生むと即位(安徳天皇)させて外戚として権勢を誇った。また、日宋貿易と共に多くの知行国と荘園が政権の経済基盤になっていた。つまり、清盛の目指した政権は藤原氏による摂関政治によく似ており、極めて貴族的な性格を帯びた政権だったのである。


                     日本史最後の謎
                        天皇制が確立した律令国家と院政の謎 2-5

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