南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

北京より愛を込めて

2008-02-21 03:01:51 | Weblog
今、仕事で北京に来ています。木曜日に香港に帰り、金曜日には
日本に行きます。北京に来ているのですが、今週の日曜日に迫っ
た母の三回忌のことを思って、一昨日くらいから、詩のような、
回想録のようなものを書いてしまいました。これを公開しようか
どうかためらったのですが、ブログに載せれば、天国にいる母の
ところにもメッセージが届くかもしれないという、そんな非科学的
な判断に基づいて、アップさせていただきます。こういう感傷的な
のは嫌いだという人は、この続きは読まないでください。他人の
おのろけ話は聞きたくない人も決して読まないでください。
愛情に対して懐疑的な方もこれから先は読まないでください。
なお上の写真は、北京とは全く関係なく、香港の家で撮影した
写真です。手頃な写真がなかったので、テンポラリーな
間に合わせの写真です。あらかじめ、このような内容のものを
ブログに掲載してしまうことをお許しください。

今週、母の三回忌のため故郷の田原に帰る。
もうあれからそんなにも経ってしまったのか。
悲しみからこんなにも早く立ち直ってしまった自分を
何て薄情なやつなんだろうとつくづく思う。

息をひきとった母のベッドの脇にたたずんで、
ぼくは思わず妻の手をぎゅっと握りしめていた。
妻はたまたまその日、お見舞いに来ただけなのに
そこに偶然にも居合わせた運命の力を感じていた。

それは3月のひな祭りの翌日の穏やかな日曜日。
病院のまわりの畑には菜の花が奇麗に咲いていた。
「私にもしものことがあったら来てくれるかねえ」
といつも言われていたぼくがいるうちに母は逝った。

その四ヶ月前、ぼくらはハワイで結婚式をした。
帰りの成田から公衆電話で母に結婚の報告をした時、
「おめでとうね」と言ってくれた。そんな言葉を
母から聞くのは生まれて初めてで、涙がこぼれた。

結婚式にそなえて、妻のほうのご両親が実家に挨拶
に来たとき、家にいたのは母親とぼくの弟だった。
ご両親がぼくの母親と会ったのはそれが最初で最後。
弟も母親も初対面で緊張しまくっていたらしい。

「私が死んだら、今度はむこうの親を大切にせりんよ」
目も不自由で、糖尿病を病んでいた母は、自分のこと
よりも、残された人たちのことを心配してばかりいた。
自分の葬式をやる場所も自分ですでに考えていた。

海外にいるのでなかなか日本に行けないぼくに代わって
妻がときどき入院中の母のお見舞いに行ってくれた。
明るく声をかけてくれる妻の訪問を母は何よりも喜んだ。
おそらく母は、妻のような娘が一人欲しかったのだろう。

妻と一緒に病院にお見舞いに行ったとき、妻が贈った
パジャマをきている母を見た時、妻はとても喜んだ。
ぼくはあまりたいしたものをプレゼントできなかったけど、
妻と結婚したことがおそらく一番のプレゼントだった。

母の葬式の時、喪服を着た妻がぼくの隣にいた。
母の葬式が、ぼくと妻の公式なお披露目の場となった。
あれから何度かぼくら夫婦は二人で法事に参加した。
母がぼくら二人を見守ってきてくれたのかもしれない。

ぼくがシンガポールに駐在になったとき、両親に遊びに
来てほしいと思い、旅券申請を準備したことがあった。
二人とも飛行機には乗ったことがなく、母は医者に
“I am a Diabetic”と書かれた糖尿病の証明書をもらった。

やがて母は入院して旅行は行けなくなってしまった。
ぼくは旅行ばっかりしているのに、母を旅行に連れて
いってあげられなかった自分の親不孝を悔やんだ。
シンガポールは是非見てほしかったのだけれど。

母は、田舎の喫茶店で、モーニング・セットを食べる
のが好きだった。コーヒーを飲むのも好きだった。
時間が止まったような田舎の喫茶店で、母は父と
そして息子たちとのデートを楽しんでいたのだろう。

寒い日には母はぼくに厚着をしていけといつも言った。
ぼくはそんなの格好悪いからと母の気持を無視した。
今、妻はぼくに全く同じようなことを言うことがある。
そんな仕事の引き継ぎをいつの間に母としていたのか。

母は食品会社の工場に定年になるまで勤めていた。
何度か過労で倒れて入院する事もあったのだが、
その度に大学などに進学した自分の身勝手さを悔いた。
結局、最後まで、贅沢な暮らしをさせてあげれなかった。

勤めだしてから、母に全自動の洗濯機を買ってあげた。
電子レンジを買ってあげた。マッサージ機を買ってあげた。
温風ヒーターを買ってあげた。万歩計を買ってあげた。
カラーテレビを買ってあげた。ラジカセを買ってあげた。

扇子を買ってあげた。カーディガンを買ってあげた。
デパートで紺色の上下を買ってあげた。パシミナの
スカーフを買ってあげた。財布を買ってあげた。
手提げ鞄を買ってあげた。いろんなものを買ってあげた。

苦労をかけた母に対してのせめてもの罪滅ぼしだった。
結局、自分には、大きな財産も、家も作れなかったので、
妻に対しては、申し訳ない気持でいっぱいなんだけれど、
その分、愛情だけは誰にも負けないくらい与えてあげよう。

母が亡くなってからの歴史は、ぼくと妻との愛の歴史。
けんかした時も、天国の母がすぐに仲裁に入ってくれる。
夫婦としてはしろうとだった僕らが、だんだん本物の夫婦
になってくるのを、母が遠くで見守ってくれている。

ありがとう、おかあさん。
遅ればせながら、感謝しています。
ありがとう、おかあさん。
妻のことは、一生、大切にします。



*母が亡くなったあたりのことは、このブログの二年前の
3月あたりの記事を参照ください。