地球環境の危機とは、人間環境と他の生物を取りまく環境の意味のことで、地球そのものの危機を意味するものではない。
地球はその状況変化に対応して正確に動いている。ただしその動きが生物に対応しての動きでないことは確かである。
人間のやることが知恵のあることだと考えているのが人間であり、それを行ってきたのは科学という分野である。
科学という考え方が著しく発展したのは産業革命以降になる。
さまざまな発見がひしめき合って、世界は科学を謳歌するようになった。
なかでもノーベル賞はそれら科学に発破を仕掛けたのである。
これはダイナマイトの発明よりもさらに強力な仕掛けであった。
科学はもっとも何を必要としたか?
言うまでもなくそれは電気であった。
電気を得るために火力発電を起こし、水力発電を起こした。
原理はワットの発見した蒸気機関である。これが産業革命を推進したように、今日でももっとも基礎になる発熱エネルギーから水を水蒸気に変え、タービンを動かすという方法である。
どの発電所をとってもこれは自然の働きと反する行為である。
水力発電を作るためには巨大な建築技術が必要になる。
莫大なダイナマイトを使用し、山を削るという意味ではノーベルの功績がここにもある。
ダムは水をせき止め土砂をせき止め、栄養と生物をまでせき止めてしまう。
つまり下流も上流も流れない川を作ってしまう。
澱みには様々な黴菌がたまり、水を濁らせて行く。
下流に土砂と栄養が流れないから、海の砂も少なくなる。
ついでに河川域の田畑に栄養がいきわたらなくなり、土壌が枯れる。
これらの現象は大型ダムであればある程被害は甚大になって行く。
アスワンダムの下流域では様々な悪病が発生し、田畑では作物が育たなくなっている。
日本でも海水浴場であった浜辺が浸食され、閉鎖された場所が70か所もあるという。
無生物にとっては単なる変化であるが、生命体にとっては既に限界に達しようとしている。
生物が存在しない無生物界も劇的な変化を遂げるであろう。
石灰岩はその多くが生物の亡骸が堆積してできている。
石灰岩などは砕けて他の無生物とつながり、熱で変形し、圧力で固められ岩ができ、岩が砕け、石ができる。そしてそれらは浸食され流され砂に成り、また永遠に生物とともに万物流転の中で活動し続ける。
鉱物もそれらに引き込まれて岩の中に蓄積していくのである。
たぶん私の説明は正確ではないが、自然の営みはスケールが遥かに大きく、言葉で簡単に説明することのできない混沌の中にある。
しかし、事の重大性は科学技術を巨大なコンビナートなどで大量に物質を変化させてきたことによる。その変化作用も電気エネルギーなくしては可能ではない。
つまり、あらゆる人間活動の中で電気エネルギーを無限に使いきろうとする活動が地球を暖めて来たのである。すべての活動は回転する活動にひとくくりすることができる。当然摩擦熱が発生し、それらによって場所移動するなり、空気を暖めるなり冷やすなりして、結局熱を外部に放出することになる。
書きかけ
地球はその状況変化に対応して正確に動いている。ただしその動きが生物に対応しての動きでないことは確かである。
人間のやることが知恵のあることだと考えているのが人間であり、それを行ってきたのは科学という分野である。
科学という考え方が著しく発展したのは産業革命以降になる。
さまざまな発見がひしめき合って、世界は科学を謳歌するようになった。
なかでもノーベル賞はそれら科学に発破を仕掛けたのである。
これはダイナマイトの発明よりもさらに強力な仕掛けであった。
科学はもっとも何を必要としたか?
言うまでもなくそれは電気であった。
電気を得るために火力発電を起こし、水力発電を起こした。
原理はワットの発見した蒸気機関である。これが産業革命を推進したように、今日でももっとも基礎になる発熱エネルギーから水を水蒸気に変え、タービンを動かすという方法である。
どの発電所をとってもこれは自然の働きと反する行為である。
水力発電を作るためには巨大な建築技術が必要になる。
莫大なダイナマイトを使用し、山を削るという意味ではノーベルの功績がここにもある。
ダムは水をせき止め土砂をせき止め、栄養と生物をまでせき止めてしまう。
つまり下流も上流も流れない川を作ってしまう。
澱みには様々な黴菌がたまり、水を濁らせて行く。
下流に土砂と栄養が流れないから、海の砂も少なくなる。
ついでに河川域の田畑に栄養がいきわたらなくなり、土壌が枯れる。
これらの現象は大型ダムであればある程被害は甚大になって行く。
アスワンダムの下流域では様々な悪病が発生し、田畑では作物が育たなくなっている。
日本でも海水浴場であった浜辺が浸食され、閉鎖された場所が70か所もあるという。
無生物にとっては単なる変化であるが、生命体にとっては既に限界に達しようとしている。
生物が存在しない無生物界も劇的な変化を遂げるであろう。
石灰岩はその多くが生物の亡骸が堆積してできている。
石灰岩などは砕けて他の無生物とつながり、熱で変形し、圧力で固められ岩ができ、岩が砕け、石ができる。そしてそれらは浸食され流され砂に成り、また永遠に生物とともに万物流転の中で活動し続ける。
鉱物もそれらに引き込まれて岩の中に蓄積していくのである。
たぶん私の説明は正確ではないが、自然の営みはスケールが遥かに大きく、言葉で簡単に説明することのできない混沌の中にある。
しかし、事の重大性は科学技術を巨大なコンビナートなどで大量に物質を変化させてきたことによる。その変化作用も電気エネルギーなくしては可能ではない。
つまり、あらゆる人間活動の中で電気エネルギーを無限に使いきろうとする活動が地球を暖めて来たのである。すべての活動は回転する活動にひとくくりすることができる。当然摩擦熱が発生し、それらによって場所移動するなり、空気を暖めるなり冷やすなりして、結局熱を外部に放出することになる。
書きかけ
脳死の妊婦は出産することが可能である。それ以前に脳死の女性は妊娠することが可能である。
私はある小説において、極めて美しい脳死者の患者に担当医が死姦し、懐妊させた話を読んだことがある。そして懐妊した脳死体から生命が誕生し、その子供はもちろん死体ではなく、生きた人間として成長していき、しかも宗教的な聖人となっていく面白い話であった。
つまり、個体死の完全な形として脳死を位置づけるのは難しい。
脳が死んでいるだけの人間でも人工呼吸器を付けていれば生命は維持できる。
この生命は肉体の生命である。脳死は脳機能の死を人間人格の死とみなすということである。
もともと不随筋の活動は人間個人の意志で動かすことは不可能であるし、自らとめることも不可能である。
レントゲンのため、「はい呼吸を止めて」と言われたときに息を止めるような意志で動くのは随意筋のことである。
だから、自分の意志で動かすことができない心臓が、動いている間は生きていると考えられていた。
ピストル自殺するとき、心臓に向かって撃つのが一発で死ねる方法である。脳に向かって撃つと完全には死にきれない。しかし、人は一縷の望みを持つのかピストル自殺では脳にむかって撃とうとする。こういう形で銃社会のアメリカでは脳死者が多いのである。
昔から、頭を使う仕事と心で感じることとは分離されて考えられてきた。
計算をする場合は頭を使えという。
しかし、武道などでは心で見よ! 心で感じ取れ、などと言われてきた。
たぶん、計算をするときと武道をするときでは使う場所が違うのであろう。
人が頭が悪いと言われる時と、心が悪いと言われる時に考えるのは、頭という機能と、心という人格との違いを感じている。より自分自身であるのは心であると考えてしまうのは何故か? どんなに心というものを否定されても、頭の悪いわたしと、心は少なくとも清いと感じるものとは別の対象であるはずである。
心臓は書いて字のごとく、こころの臓腑である。
こころが時めくとき、胸を抑える。その位置は大抵心臓がある方である。ドキドキと感じるのは心臓の位置に成る。
こころが時めくと言って頭を指すものは科学者たちの中にもいないであろう。
こころが時めくという仕草を、役者が演じるとしても、やはり手を胸にあてるものである。
頭の痛みは頭痛であるが、こころの痛みに頭が痛いとは言わない。
こころというものは科学者や脳学者たちが、実態がないもので存在しないがのごとくいうが、実体がないがそれを人間は感じることができる唯一の実体である。
芸術でも武道でも心の修行が肝心であるという。
科学者になるために学校で心の修行をせよなどは言わない。
客観的な科学の技術を推し進めるにはこころなどは邪魔であるかもしれない。
よい芸術は心が伝わってくる。頭が伝わってきたり脳が伝わってきたりはしない。
息の長い作品には心が入っている。息とは自分の心である。
太宰治が人気があるのは作品に心を入れているからである。
人間の死というのは、どこで判定するかである。
すぐに脳死であるといって、脳死者から臓器をとることは極めて危険な行為である。
それでは彼は死んだのだろうか?
作品を読んでみると分かるが、太宰治が死んでいるように思えないのは作品を読んで伝わって来るものが生きているからである。
つまり生命は、根源的にいうと何か普遍性のあるものである。
聖書には姦淫するなかれという。汝が女を見て心で姦淫したなら、汝は姦淫したのであるという。つまり、汝が人の死を望むとしたら、汝は殺人を犯したのである、と言っているようなものである。
自分の心臓は神の意志で動いているのであって、その人固有のものであり、その人の心臓はその人のものである。人は幼くして死ぬ場合もあれば、百歳以上の長寿を全うすることもある。
アフリカの人々の平均寿命が30歳の国だってある。
移植などは考えられないことである。
科学が進歩すると、人間の思考そのものが阻害されることになる。
つまり、人の愛情も人工的にならざるを得なくなる。
なぜなら、人工心臓で生きていることも可能だからである。
もし、人工心臓を着けている人間がこころ時めくなら、それは心臓が原因ではないだとうと、移植医がいうかもしれない。
科学は愛情の問題を提供してはくれない。それよりは争いごとを新たに提供するのである。
だから、脳死=人の死=人の死ではない。という対立が起こるのである。
こういう場合は神の問題と同じである。信じるものと信じないもの、つまり激論が始まり、激論は終わることはないが、ただし脳死の問題は今後の医学の進歩で脳の再生が可能になったりすれば話はまた変わって来る。もし、脳が人格の死でないというようなことになると、脳死で心臓を抜き取ることは殺人である。
心臓はつまり神の住まう座であり、鼓動は神が司っているのである。だから不随筋なのである。
私はある小説において、極めて美しい脳死者の患者に担当医が死姦し、懐妊させた話を読んだことがある。そして懐妊した脳死体から生命が誕生し、その子供はもちろん死体ではなく、生きた人間として成長していき、しかも宗教的な聖人となっていく面白い話であった。
つまり、個体死の完全な形として脳死を位置づけるのは難しい。
脳が死んでいるだけの人間でも人工呼吸器を付けていれば生命は維持できる。
この生命は肉体の生命である。脳死は脳機能の死を人間人格の死とみなすということである。
もともと不随筋の活動は人間個人の意志で動かすことは不可能であるし、自らとめることも不可能である。
レントゲンのため、「はい呼吸を止めて」と言われたときに息を止めるような意志で動くのは随意筋のことである。
だから、自分の意志で動かすことができない心臓が、動いている間は生きていると考えられていた。
ピストル自殺するとき、心臓に向かって撃つのが一発で死ねる方法である。脳に向かって撃つと完全には死にきれない。しかし、人は一縷の望みを持つのかピストル自殺では脳にむかって撃とうとする。こういう形で銃社会のアメリカでは脳死者が多いのである。
昔から、頭を使う仕事と心で感じることとは分離されて考えられてきた。
計算をする場合は頭を使えという。
しかし、武道などでは心で見よ! 心で感じ取れ、などと言われてきた。
たぶん、計算をするときと武道をするときでは使う場所が違うのであろう。
人が頭が悪いと言われる時と、心が悪いと言われる時に考えるのは、頭という機能と、心という人格との違いを感じている。より自分自身であるのは心であると考えてしまうのは何故か? どんなに心というものを否定されても、頭の悪いわたしと、心は少なくとも清いと感じるものとは別の対象であるはずである。
心臓は書いて字のごとく、こころの臓腑である。
こころが時めくとき、胸を抑える。その位置は大抵心臓がある方である。ドキドキと感じるのは心臓の位置に成る。
こころが時めくと言って頭を指すものは科学者たちの中にもいないであろう。
こころが時めくという仕草を、役者が演じるとしても、やはり手を胸にあてるものである。
頭の痛みは頭痛であるが、こころの痛みに頭が痛いとは言わない。
こころというものは科学者や脳学者たちが、実態がないもので存在しないがのごとくいうが、実体がないがそれを人間は感じることができる唯一の実体である。
芸術でも武道でも心の修行が肝心であるという。
科学者になるために学校で心の修行をせよなどは言わない。
客観的な科学の技術を推し進めるにはこころなどは邪魔であるかもしれない。
よい芸術は心が伝わってくる。頭が伝わってきたり脳が伝わってきたりはしない。
息の長い作品には心が入っている。息とは自分の心である。
太宰治が人気があるのは作品に心を入れているからである。
人間の死というのは、どこで判定するかである。
すぐに脳死であるといって、脳死者から臓器をとることは極めて危険な行為である。
それでは彼は死んだのだろうか?
作品を読んでみると分かるが、太宰治が死んでいるように思えないのは作品を読んで伝わって来るものが生きているからである。
つまり生命は、根源的にいうと何か普遍性のあるものである。
聖書には姦淫するなかれという。汝が女を見て心で姦淫したなら、汝は姦淫したのであるという。つまり、汝が人の死を望むとしたら、汝は殺人を犯したのである、と言っているようなものである。
自分の心臓は神の意志で動いているのであって、その人固有のものであり、その人の心臓はその人のものである。人は幼くして死ぬ場合もあれば、百歳以上の長寿を全うすることもある。
アフリカの人々の平均寿命が30歳の国だってある。
移植などは考えられないことである。
科学が進歩すると、人間の思考そのものが阻害されることになる。
つまり、人の愛情も人工的にならざるを得なくなる。
なぜなら、人工心臓で生きていることも可能だからである。
もし、人工心臓を着けている人間がこころ時めくなら、それは心臓が原因ではないだとうと、移植医がいうかもしれない。
科学は愛情の問題を提供してはくれない。それよりは争いごとを新たに提供するのである。
だから、脳死=人の死=人の死ではない。という対立が起こるのである。
こういう場合は神の問題と同じである。信じるものと信じないもの、つまり激論が始まり、激論は終わることはないが、ただし脳死の問題は今後の医学の進歩で脳の再生が可能になったりすれば話はまた変わって来る。もし、脳が人格の死でないというようなことになると、脳死で心臓を抜き取ることは殺人である。
心臓はつまり神の住まう座であり、鼓動は神が司っているのである。だから不随筋なのである。
表記はボナヴェントゥーラとなっている。
『夜警』
聖ボナヴェントゥーラとは関係のない人物で『夜警』は実際誰が書いたかは不明ということである。シェリングが書いたという説もあった。
書きかけ
『夜警』
聖ボナヴェントゥーラとは関係のない人物で『夜警』は実際誰が書いたかは不明ということである。シェリングが書いたという説もあった。
書きかけ
日本列島改造論 田中角栄
フィールド図鑑 低地の森林植物
自殺の研究 アルヴァレズ
yahooでの出品者 当方とは関係はありません
日中辞典 小学館
目玉は自殺の研究である。
目玉の研究ではありません。
目玉が自殺したのでもありません。
フィールド図鑑 低地の森林植物
自殺の研究 アルヴァレズ
yahooでの出品者 当方とは関係はありません
日中辞典 小学館
目玉は自殺の研究である。
目玉の研究ではありません。
目玉が自殺したのでもありません。
今全国的に上水道や下水道料金の値上がりが進んでいる。
その資料として北海道標津町の例をあげる。
値上げは微々たるものに見えるが、今後どんどん値上がりする可能性がある。
水道料金は市町村によって異なるのでその詳細を知ることは難しい。
とにかく、これから引っ越し先の公共料金や公共サービスの質を知ってからでないと引っ越しできない。
http://www.shibetsutown.jp/kensetsusuido/21ryoukin.pdf
大阪の市町村などはその価格差は目の玉を刳り抜くという。
http://allabout.co.jp/house/townkansai/closeup/CU20050830A/
その資料として北海道標津町の例をあげる。
値上げは微々たるものに見えるが、今後どんどん値上がりする可能性がある。
水道料金は市町村によって異なるのでその詳細を知ることは難しい。
とにかく、これから引っ越し先の公共料金や公共サービスの質を知ってからでないと引っ越しできない。
http://www.shibetsutown.jp/kensetsusuido/21ryoukin.pdf
大阪の市町村などはその価格差は目の玉を刳り抜くという。
http://allabout.co.jp/house/townkansai/closeup/CU20050830A/