根本的な問題は人間相互の愛情が欠落し、富を求めた社会のひずみにある。
国境がなくなり、地域が無くなると、自ずと情が欠落してゆく。
村が町になり町が市になり、市が県になり、県が州になると失われていくものの存在は無形ではあるが、大きいものである。
つまり村よりも小さな家庭が崩壊すると、社会そのものの崩壊が強まる。
日本は地域を支える力強いコミュニティーが欠落してしまった。
長老らしき人間も宗教を担うべき僧侶も存在しない。
頼れるものは金だけである。
これほどまでに金がなければ人が動かない社会は不自由そのものである。
金があると自由かというと、そうでもない。
金は他人の嘘の面を提供してもらえるだけである。
その嘘は最大になっている。
だれもマクドナルドのスマイルが本当の行為から出たスマイルだとは思わない。
ただ、不快な表情をされるよりは、ここちよく感じられるだけである。
それらが、人間社会のサービスであるが、もし金を払わないで居坐るファミレスの客がいると店員は警察に通報するであろう。
つまり、スマイルは金と連動しているにすぎない。
もし、家族の間にこの金とスマイルの連動が働くとなるとどうなるだろうか?
親たちは常に社会からこの連動を求めれ、TVを見ても、インターネットを見ても、金と商品という連動にさらされている。
これらの連動のどこに愛情があるであろうか?
むしろ、愛情は金と物にとっては何の利得にもならないものとなっている。
見えないものは存在しない式の単純な思考パタンが繰り返されるだけである。
つまり、愛情も見えないものとして認識もされなくなる。
その事が他人と交流する社会の中ではなく、家庭の中でもそうであるとしたら、何ら社会というものの知識もない子供たちはどうなるだろうか?
子供が理解し得るのは親の愛情である。
しかし、親がこの愛情を小遣いという形に変えてしまうと、子供たちは親とコンビニを入れ替えて考えてしまう。これは感受性の高い子供の体験を社会経済を優先させた形に置き換えてしまったのである。
すでに人間にとって金は水と同じものとなっている。枯渇すればするほど金を求めなければならない、砂漠の中に立たされているのである。
こういう社会が健全だと人間が考えているとしたら、すべての人間は異常者となっているため、もはや人間というものが何であるのかということは分からなくなっている。
親子は簡単に殺しあうことができる無生物である。
死殺。こういう言葉が親子の中に常に向かい合っている。
ご飯を食べる時も寝る時も、死殺である。
しかし、愛情のない施設や学者の研究材料にされる家庭内暴力の子供の感受性は的確に働き、福祉を与えようとする大人に対しても、死殺である。