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『狐笛のかなた』

上橋菜穂子、2006、『狐笛のかなた』、新潮文庫

学生のころ狐憑きが信じられている地方でフィールドワークをしたことがある。あるミコさん(この地方では、「カミ」の依り代としてその言葉を媒介する人をミコという)は、彼女に依拠する「カミ」は普段京都の伏見大社の奥山にある「お塚」にいて(伏見大社に行った人は知っているだろうが、拝殿の奥に山頂に至る無数の赤鳥居が奥山に信者をいざない、無数の「お塚」とよばれる小さな拝み場所を見ることができて、それぞれ信仰する信者を多く見ることができる)、ミコさんの祈りで呼び出され、時間ゼロで移動してやって来て乗り移るのだと言う。
この地方では、かつて、「野狐」(ヤコ)や「生霊」(イキリョウ)が漂っていたとされ、小さな祠が祭られて、鎮められている。時として、こうした霊魂が彷徨い出て、人間にとりつき「障り」(さわり)をなすのだという。くだんのミコさんは、こういう人(あるいはその周りの人)の様子や話を聞いて、「カミ」の力をかりてお告げをし、さまざまな方法で「霊」を払うのである。
「カミ」はもともとは「野狐」だったそうであるが、鳥居を飛び越え、滝水に打たれるなどして修行し、神格をえて「カミ」となったのだそうである。しかし、このミコさんのケースは「野狐」が修行したのだが、普通はミコ(つまりは、依り代)の方が、修行してカミの力を借りる能力を身につけるというのである。
このミコさんのほかにも数人の方の話を聞かせていただいたが、「野狐」が修行することを除いて、「カミ」の力を借りて「障り」を払うことは共通であった。
じつは、こういうミコさんのような能力を持つ人は日本にはたくさんいるらしい。たとえば、私がいますんでいる名古屋のあるお寺の脇には小さな小屋が建てられているところがあって、定期的に大勢の信者でにぎわう。小屋のなかにはそれぞれ、ミコさんのように「カミ」の言葉を媒介する方がいるようである。こうした場所、あるいは人が、あなたの周りに・・・・?
いや、別に日本に限ることはない、何かを媒介としてあるいは媒介することなく「カミ」の言葉を伝える(ときに、自ら「カミ」であると名乗るかもしれない)人物の存在はあまねく知られている。

前置きが長くなってしまった。本書『狐笛のかなた』は、野間児童文芸賞を受賞した作品で、このたび新潮文庫に収録された(オリジナルは、理論社刊)。

さて、本書では、著者の作品で舞台となる場所もどこかわからない空間で物語が進むのではなく、日本のどこかの地方らしい。時代もどうやら戦国期のような感じである。二つの国の領主家は「大公」の元で知行が許されているが、敵対関係にある。しかし、血縁でつながっていて、当主二人はイトコ同士である。
両家は境界地の「若桜野」をめぐって敵対し、どちらも「呪者」を通してせめぎあっている。両家は「大公」の支配下にあるので表立っては抗争できないので、蔭の部分で争っている。
主人公は「小夜」と言う少女と使い魔となった霊孤の「野火」である。「小夜」は「呪者」の血を引く。両家の争いに巻き込まれた二人の波乱の数年が描かれる。ここでは、ストーリーを追うことはやめにして、この前の『獣の奏者』(以下、『獣』と略記)の時のように、ちょっと分析してみよう。本書の方が古く、『獣』の方が新しい。

本書でも『獣』で書いたように二項対立の世界である。対立する両家、人間の支配する世界と呪者の支配する世界である。『獣』では第三項という言葉を使ったのだが、本書では媒介項あるいは中間領域という言葉を使ってみよう。
小夜は呪者の血を引く母と人間の両方の血を引く。また「野火」は「あわい」というこの世でもあの世でもない世界で生まれた霊孤である。この両者が、対立する両家、世界を媒介する。そして、二人の結末は「あわい」に帰って行くのである。そして、彼らが終の棲家として人間でも狐でもない存在として選んだのは「若桜野」である。この地は、両家の抗争の元になった地で、現在は、両家のどちらの領地でもなく「大公」の直轄領となった地なのである。
本書では、二項対立が目立つというよりも「あわい」という言葉(漢字で書くと「間」である。たとえば、扉はどちらの空間にも属している)で象徴されるどちらでもない中間領域が焦点となる。「大公」の存在や「小夜」「野火」もそうである。

最後に、本書から言葉を引用しておく。「見ることは、見られること。使うことは、使われること」(p.265)。これは、使い魔である「野火」ら霊孤のことを表現したものだのであるが、まさに、媒介項あるいは中間領域を表現する言葉であろう。そして、実のところ、人間存在そのものも、どのような領域であれ、どちらかに属しているかに見えて、そのようでもあり、そのようでもない、という「すみか」で生きているのではないだろうか。

冒頭のフィールドを経験したとき、はじめ、なんと馬鹿なことと思ったのだが、そのうち、そうではないことに気がついた。この世、あの世、人の世界、他者の世界、これらを隔てるのは、人間の思念である。しかし、結局のところ、われわれは、そのように思い込んだ世界の中で生きているのである。とりあえずは、信じていくことしかないのだが、自分の信じる世界ではない世界も存在することを知ること、これだけでも、せめてもの救いか。

狐笛のかなた

新潮社

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2006-12-10 13:06:44 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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