年が明けてから「石垣りん詩集」を読んだ。

先に図書12月号の池澤夏樹のエッセイから「崖」と「声」を引用し、昨日は「弔詞」を引用した。石垣りんという詩人、岩波文庫に収録された120編を読んだ限りで気付いたことがある。
それは「崖」や「弔詞」、あるいは「原子童話」「雪崩のとき」「日記より」「たそがれの光景」「青い鏡」などのように戦争や社会の不条理を告発するような作品と、「河口」「声」「夜毎」「十三夜」「洗剤のある風景」「年を超える」などの作品が対極をなすように並んでいる。
その間に均衡を保つかのように「旅情」や「貧しい町」「ゆたんぽ」などが並ぶ。何か作者の個々の中のバランスを取りながら詩をつむいでいるような気がした。
先に「崖」や「弔詞」を引用したが、私にとってはこれらの作品よりも、「声」などの一連の作品が心を揺さぶる。その系列の作品と思われたのが
夜毎
深いネムリとは
どのくらいの深さをいうのか。
仮りに
心だとか、
ネムリだとか、
たましい、といった、
未発見の
おぼろの物質が
夜をこめて沁みとおってゆく、
または落ちてゆく、
岩盤のスキマのような所。
砂地のような層。
それとも
空に似た器の中か、
とにかくまるみを帯びた
地味のような
雫のような
物の間をぬけて
隣りの人に語ろうにも声がとどかぬ
もどかしい場所まで
一個の物質となって落ちてゆく。
おちてゆく
その
そこの
そこのところへ。
などが私の気持ちに寄り添ってくる。詩としての構成や象徴化などの完成度や成功の度合いがどの程度なのか測りかねるところはあるが、私はこのような詩が好みである。
この詩が政治的な場面の中や、苛立ち、敗北感の中で誰かに向けて発せられたものかもしれない。同時にそのような場とは異質なものかもしれないが、読者の巾を広げていることは確かだと思う。
政治的な指向の強い詩からひとつ抜け出たところがいい。
私自身も頭の中で、政治的な指向・思考とそうでないところとでバランスを取らない限り、とてもではないが自分が崩壊してしまうといつも感じる。
このバランスのとり方、あるいは支点の取り方、左右に伸びた天秤棒の長さや重さや偏りによって均衡のとり方の在りようが、立ち位置の多様さの保証のひとつでもある。発せられた言語感覚の多様さも言葉による表現者の個性と同時に社会とのかかわりのバランスのとり方も私は大いに関心がある。
石垣りんという詩人は、これまで読んでこなかったが、そんなことを考えさせられる詩人であった。


先に図書12月号の池澤夏樹のエッセイから「崖」と「声」を引用し、昨日は「弔詞」を引用した。石垣りんという詩人、岩波文庫に収録された120編を読んだ限りで気付いたことがある。
それは「崖」や「弔詞」、あるいは「原子童話」「雪崩のとき」「日記より」「たそがれの光景」「青い鏡」などのように戦争や社会の不条理を告発するような作品と、「河口」「声」「夜毎」「十三夜」「洗剤のある風景」「年を超える」などの作品が対極をなすように並んでいる。
その間に均衡を保つかのように「旅情」や「貧しい町」「ゆたんぽ」などが並ぶ。何か作者の個々の中のバランスを取りながら詩をつむいでいるような気がした。
先に「崖」や「弔詞」を引用したが、私にとってはこれらの作品よりも、「声」などの一連の作品が心を揺さぶる。その系列の作品と思われたのが
夜毎
深いネムリとは
どのくらいの深さをいうのか。
仮りに
心だとか、
ネムリだとか、
たましい、といった、
未発見の
おぼろの物質が
夜をこめて沁みとおってゆく、
または落ちてゆく、
岩盤のスキマのような所。
砂地のような層。
それとも
空に似た器の中か、
とにかくまるみを帯びた
地味のような
雫のような
物の間をぬけて
隣りの人に語ろうにも声がとどかぬ
もどかしい場所まで
一個の物質となって落ちてゆく。
おちてゆく
その
そこの
そこのところへ。
などが私の気持ちに寄り添ってくる。詩としての構成や象徴化などの完成度や成功の度合いがどの程度なのか測りかねるところはあるが、私はこのような詩が好みである。
この詩が政治的な場面の中や、苛立ち、敗北感の中で誰かに向けて発せられたものかもしれない。同時にそのような場とは異質なものかもしれないが、読者の巾を広げていることは確かだと思う。
政治的な指向の強い詩からひとつ抜け出たところがいい。
私自身も頭の中で、政治的な指向・思考とそうでないところとでバランスを取らない限り、とてもではないが自分が崩壊してしまうといつも感じる。
このバランスのとり方、あるいは支点の取り方、左右に伸びた天秤棒の長さや重さや偏りによって均衡のとり方の在りようが、立ち位置の多様さの保証のひとつでもある。発せられた言語感覚の多様さも言葉による表現者の個性と同時に社会とのかかわりのバランスのとり方も私は大いに関心がある。
石垣りんという詩人は、これまで読んでこなかったが、そんなことを考えさせられる詩人であった。



石垣りん詩集(ハルキ文庫版)を枕元に置いています。本当に削った、さんざん探した言葉を使う人のようです。「経済」という詩の、「とても貧しく生きてしまう」「とても寂しく死んでしまう」が、こたえたね。自分は、詩集を本のとおりに読んでいない人間で、たまたま開いたページを読む。編集する人は流れのようなものを考えているのだろうが、順番に読んで欲しいとは思うかも知れないが、それをしない。偏屈かも知れない。
「立ち位置の多様さ」とは、的確です。いくつもの顔、という意味か‥
銀行員時代に、僕より二回りくらい年上の女性に仕事の手ほどきを受け、やがて、飯を共に食ったり、飲んだりした。一年半で辞めるとき、がっくりされた。石垣さんの写真を見て、その人を思い出した。
「立ち位置の多様さ」と云ったのは、人との付き合いでの応用力の多様さといったような意味合いです。
社会や政治や人間理解に軸は1本キチンとしていてほしいですが、それが思い込みだけが先行して、応用力がなくて、魅力に欠けた思想や信念では、多くの読者は獲得できないと思います。
いい先輩に出会えたんですね。通りがかり人様の人徳ではないでしょうか。