「定家明月記私抄 続編」(堀田善衛)は昨日までに「神剣海ニ没シテ茲ニ卅廻 建保元年記(1)」、「天下ノ悪事、間断ナシ 建保元年記(2)」、「幕府歌会 建保元年記(3)」、「明月記断続 建保二年-六年記(1)」、「拾遺愚草完成 建保二年-六年記(2)」、「源実朝 建保元年-六年」、「危機への傾斜 承久元年記」の7つの節を読み終わった。
承久の変の2年前の源実朝暗殺を巡る時期に相当するが、明月記は空白部が多いところであるのこと。肝心なところで定家の去就や宮廷側の動きについての定家の判断がわかりにくい。この状況に接すると、鎌倉幕府寄りであった定家の主家である九条家との関係もあり、その立ち位置については、御子左家の当主として、定家がある意味では身の処し方に苦慮していたことの反映なのかもしれないと私は推察している。
「この当時にあって、(宮廷・貴族側では)肉親や兄弟などの家で起こった不祥事について、その一家族全員が責任を問われることがかいという、よい意味での個人主義が貫かれていることである。‥武家社会にあっては通用しない。この方はもう一家眷属総ざらいということになる。‥肉親というものは悲しいものである。」(「天下ノ悪事、間断ナシ」)
「吾妻鑑によって鎌倉幕府の日常を眺めていると、如何に武家による国家統治の草創期であるとはいえ、これほどにも血腥い政府というものは、世界史にも稀なのではなかったか、と思われてくる。政権は、ほとんど連続テロというべき手段によって維持されている。フランス革命時のテロル期がこれに匹敵するか、とさえ思われるのである。(梶原景時一族、阿野全生、比企一族全滅、頼家長子殺害、前将軍頼家惨殺、畠山父子殺害、千葉成胤・安念法師等陰謀、和田一族滅亡等々)。(にもかかわらず)実朝は月に一回というほどの頻度で幕府歌会なるものを開催している。‥京の不安が群盗や山僧の横行であったとすれば、鎌倉のそれは、残酷な内部闘争であった。‥「歌会」などを楽しむ雰囲気にはないのである。」(「幕府歌会」)
「実朝は、その家集をほんの二十二歳の時にまとめていて、その才能の高さは、京歌人の誰彼と比べるまでもなく、実に抜群のものと言わねばならないが、吾妻鏡などによって仔細にその日常を辿って行くと、成長するにしたがって現実が見えなくなって行く青年、と見えるのである。私は実朝の心境を推して考えようとするときに、次の「黒」と題する異様な歌を想起する。“うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる”‥幾重もの雲が隠れていて、暗澹として底なしに暗い闇を、その闇を切り裂き、劈(つんざく)くように雁が鳴く。これはもう、狂、と言うほどの心的状態を思わせる。不吉な未来が闇の奥に待っている。」(「幕府歌会」)
「仁和寺宮五十首などの完成された歌、‥こういう、絵画的といっても音楽的といっても、到底言い尽くすことのできない、言葉の解説を一つしたにしてもぶち壊しになる、朦朧たる世界の構築。そういう世界は、されとして完成されれば、実はそれ自体で行き止まりである。そこから脱してもう一つの別の世界を見出そうとすることは至難の業であり、それはより一層に退廃の度合いを加えるか、それとも平明化の道を行くかの二つしかないであろう。“かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥す程は面影ぞたつ”の一首などは、エロティシズムの抽象化、あるいは抽象性のなかに香を焚きこめるようにしてこめられたエロティシズムとしては、マラルメとともに、世界文学の最高の水準に達したものである。」(「拾遺愚草完成)
「この当時すでに、神社は神道行事だけではもう保持して行けず、社には官寺が付随し、寺院にはまた、明神、あるいは権現信仰がくっつき、どれが神道とも密教とも、あるいは陰陽道とも見分けがつかふほどに、すべてが溶融して何とも言えぬ、それこそ中世的幽暗とでもいうべき時間空間を形成していた。‥この幽暗空間は、鎌倉という初体験の辺地にあって、拡大誇張されたエフェクトを持っていたであろう。実朝は、そういう幽暗幽冥空間の長であり、そこから出たことがなかった。‥実朝は、幻想の中に生きている。そうしてこの幻想のピークに来るものが、大船建造による、渡宋幻想である。」(「源実朝」)
「大船を無事進水させ得たとして、‥渡宋に如何なる名目をたてたものであったろうか。二重権力の一方の象徴が、外国へ行ってしまうのである。(いつ還るのか。大船を自在に操縦できる航海技術者がいたのか。航海中の身の安全は‥。留守の鎌倉の在り様。後鳥羽上皇が関東調伏の呪詛をしている情報があるのにどうするか。中国側にとっても施設でもない、武装集団をどう扱うか、身を拘束されない保証もない‥)。この渡宋船建造には、奇怪という以上に、何とも言えぬ暗さが感じられる。むき出しの絶望が船の形をとって由比ガ浜に遺棄されている。」(「源実朝」)
「無用の者は、骨肉であれ何であれ、殺してしまうのが鎌倉の理由木である。義経以降頼家にいたるまでその例に事欠きはしない。“箱根路をわれ超えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ”平安鎌倉期の和歌には、和する歌としての和歌の特質にもとづいて、いわゆる絶唱といった言い方に相当するものは、まず見当たらない。けれどもこの一首は、やはり絶唱というに値するであろう。現実を失ってしまった者の眼に、箱根路、伊豆の海、沖の小島はまさに現実そのものありながら、この風景はすでに現実から離陸してしまっていて、実朝の心象としての風景と化し、渺茫として風の音ばかりが耳に鳴っている。風景の自己分身である。この歌の周辺に、和すべき者も、和すべき歌も何もない。ありえない。孤独な実朝がいるだけである。絶唱たる所以である。」(「源実朝」)
かくて鎌倉幕府第三代将軍源実朝は建保七年正月に甥の公暁によって殺される。
「(実朝の死により源氏の政党が皆無となり)院は評定の結果、雅成、頼仁良親王のうちの一人の下向は認めるが、直ちに行うわけには行かぬ、といういわば保留返答をしたものであった。‥皇子を鎌倉将軍とした場合、日本国が二分される危険性があるとして許可されるなかったのである。‥私が思い出すのは、国家形態が危機に瀕した時、近頃では太平洋戦争の敗戦に際して、皇族内閣なるものが出現してきたことである。伝統は生きているのである。」(「危機への傾斜」)