★きりぎりす自在をのぼる夜寒哉(蕪村)
キリギリスはいまでいうコオロギ。自在は自在鉤の略で炉の上で鍋釜を吊るし上下に移動させて火加減を調節するもの。
解説によるとキリギリス(コオロギ)は夜寒に鳴くものとの和歌の伝統的(規範的)な美意識から視覚でとらえたのがこの句とのことが書かれている。
百人一首の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む(後京極摂政太政大臣(九条良経))」がこの句の下敷きである。キリギリスは鳴くことでその存在を和歌の世界に登場し、寒さの象徴であった。
現在ではコオロギもキリギリスも、そして夜寒も秋の季語として扱われるので、この蕪村の句は「季重なり」として扱われてしまう。しかし現在の俳句の季としては虫の「声」に着目した季語であり、その視覚的な姿態に着目して詠まれることはあまりない。平安の美意識がまだ現在でも生きている、といえる。この句ではキリギリス(コオロギ)の姿・形に季節感はかなり薄いといえる。和歌的世界を引き出すとっかかりとして夜寒を引き出した、という解釈が穏当なところだろうか。
同時に暗い場所や人目に触れないようなところで生息するキリギリス(コオロギ)が、暖かい火の上に登場し、人目に触れて、そしてその生々しい姿態を晒していることへの諧謔味を感じる。ヘタをすると炉の火で焼け死んでしまうかもしれない危うい生、そして腹の膨らみや触覚の動きなどの生々しい生命観、いづれも蕪村の凝視に私は脱帽である。
キリギリスはいまでいうコオロギ。自在は自在鉤の略で炉の上で鍋釜を吊るし上下に移動させて火加減を調節するもの。
解説によるとキリギリス(コオロギ)は夜寒に鳴くものとの和歌の伝統的(規範的)な美意識から視覚でとらえたのがこの句とのことが書かれている。
百人一首の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む(後京極摂政太政大臣(九条良経))」がこの句の下敷きである。キリギリスは鳴くことでその存在を和歌の世界に登場し、寒さの象徴であった。
現在ではコオロギもキリギリスも、そして夜寒も秋の季語として扱われるので、この蕪村の句は「季重なり」として扱われてしまう。しかし現在の俳句の季としては虫の「声」に着目した季語であり、その視覚的な姿態に着目して詠まれることはあまりない。平安の美意識がまだ現在でも生きている、といえる。この句ではキリギリス(コオロギ)の姿・形に季節感はかなり薄いといえる。和歌的世界を引き出すとっかかりとして夜寒を引き出した、という解釈が穏当なところだろうか。
同時に暗い場所や人目に触れないようなところで生息するキリギリス(コオロギ)が、暖かい火の上に登場し、人目に触れて、そしてその生々しい姿態を晒していることへの諧謔味を感じる。ヘタをすると炉の火で焼け死んでしまうかもしれない危うい生、そして腹の膨らみや触覚の動きなどの生々しい生命観、いづれも蕪村の凝視に私は脱帽である。