

昨日魯迅を私がどのように読んだか、そして魯迅が仙台の地で(日本でといった方がよりよいかもしれないが)何を考えたのか、記載してみた。
それは仙台の片平キャンパス内にある「東北大学資料館」の「魯迅記念展示室」の展示の感想を記載するにあたってどうしても自分なりに整理しておきたいと思ったからである。
今年松島を訪れたとき旧仙台医学専門学校で魯迅が学んだ「階段教室」に触れた。「階段教室」は片平キャンパスの大学本部棟の裏手に人目につかない場所に隠れるように建っている。私はこの建物に記憶が無い。江沢民はここで魯迅が受講した席に座って感慨深げにしていた、というがどのような思念が去来したのであろうか。魯迅が生きていたら、江沢民の政治をどのように評価したか、江沢民を迎えた東北大学というものをどのように思ったか、ここでは触れないでおこう。


この階段教室を挟んで立っている立派な本部棟の向かい側の古い建物に「大学資料館」がある。昨年の同窓会のときにはこの前をみんなで歩いたものの、まったく気にも留めなかった。話題にすればよかった。事前の下見、予習が足りなかったと反省している。
この資料館は無料で一般開放されている。2階に「歴史のなかの東北大学」という展示や企画展示室(8月末まで「東北大学とノーベル賞」)があり、常設として「魯迅記念展示室」がある。2011年開設ということでごく最近である。

魯迅記念展示室は当時の仙台の様子から、魯迅(周樹人)の入学許可などの資料のほか、藤野厳九郎教授が添削したというノート、人となりも中心になっている。そしてこのコーナーの最後は東北大学がいかに留学生を受け入れてきたか、特に中国からの著名な留学生の紹介で終わっている。
藤野教授が魯迅に贈った実物大の写真や朱筆で丁寧に添削してあるノートなどは、教授の人となりを窺わせとても興味深く見た。そして小説「藤野先生」の記述が事実とかなり一致していると思った。魯迅の藤野厳九郎教授に対する敬愛は小説の末尾に記載されているとおりのものなのか、と感慨深かった。
昨日引用しなかったのでここに記しておく。
‥彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語りだしそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。
「藤野先生」(1926年10月、岩波版魯迅選集、竹内好訳)


さて私が引っかかったのは、展示のこの表現である。解説の文章を記すと、「「吶喊」の自序」によれば、医学生・周樹人が文学の道を志すきっかけとなったのは、仙台医学専門学校二年生のとき授業で見た日露戦争に関する幻灯写真のなかの、中国民衆の姿であったという。この話には文芸作品としのある種の創作が含まれていると思われるが、戦争に関する幻灯が学校で上映されたこと自体は、現在残されている資料からも確認できる。「幻灯」の記憶は、藤野先生の思い出とともに、作家「魯迅」の中に、重い記憶として永く留められていたのだろう。」となっている。
私はこの記述を見てビックリした。
1.どうして引用が「吶喊自序」であって小説「藤野先生」ではないのか。展示の大きなスペースを割いて藤野厳九郎教授の人となり、周樹人に対する指導の熱心さなどを展示しているのにかかわらず。
2.どうして「幻燈事件」の内容が中国民衆の姿だけなのか。「吶喊自序」にも言及してある「見せしめのため日本軍の手で首を斬られようとしている」が欠落しているのか。小説「藤野先生」では、「首を斬る」は「銃殺」になっているが、この場面で級友が「万歳!」といって「みな手を拍って歓声をあげた」ことも重要な要素になっている。
3.確かに「藤野先生」は小説であり創作も含まれている。しかしもしも「記憶」の思い返しであってもそこには作者の思想を通過したフィクションは紛れ込む。何が創作か事実かは、現場にいた級友の証言を抜きにしては確定しない。大学の調査では級友からの聞き取りでそこまで確認できなかったと言いたいようである。それならば何故「確認が取れなかった」と記さないのか?
4.この展示では周樹人が医学をやめた理由はあまりに薄っぺらい。日本の民衆による一中国留学生に対する心無い様々な仕打ちや偏見(これが仙台だけの記憶ではなく日本での印象全般であったと推察することもできる)、そして対極にあるとしるされている藤野教授の指導など総体的にとらえなければならないのではないか。
5.展示では藤野教授のプラス評価だけがクロースアップされている。仙台医学施文学校と東北帝国大学、後身の東北大学の留学生に対するプラス評価ばかり並べていては、日中の歴史は語ることはできない。そこに横たわるマイナス評価も冷静に検証する姿勢は「大学」だからこそ問われるのではないか?
6.「展示」というものは展示を見たものに考える素材を提供するものである。展示する側があらかじめ得た結論はあくまでも検証の素材として提供されなければいけない。1960年代半ばの私に示された中学生の国語教科書の「記述削除」のように、隠ぺいするばかりでは正確な読みは出来ない。
ここまで考えたとき私は、この「隠ぺい体質」という言葉がとても気になった。都合の悪いこと、対応の面倒なことを避けてとおる体質というのは私が体験した1970年代前後の教養部の体質そのものではないのか。東北大学というのは、そのころから何ら変わっていないのではないか。ひょっとしたら周樹人が学び魯迅へと飛躍しようとした時代からも変わっていないのではないか。
私はとても暗澹とした気分になった。私は大学から逃れるように仙台から離れた。だからその後の大学に何ら関わっていない。外部の感想でしかないが、それでも「国立」である以上、私にも発言する権利くらいはある。
そこで当初は見る気もなかった「歴史のなかの東北大学」の展示も見ることにした。当時のことがどのような視点から展示されているか興味が湧いてきた。
おっしゃる通りこのような先生はいました。声高に自己主張はされなくとも、必ずいます。
学校に限らず、どんな組織にもこのような方はいたと思います。
今の時代、とても肩身が狭い思いをされているのかもしれません。