1か月近くも経ってしまったが、「日本美術の歴史 補訂版」(辻惟雄)の第3章を読み終わった。第3章は、「飛鳥・白鳳美術 東アジア仏教美術の受容」。
「飛鳥・白鳳はもともと美術史に由来する用語である。飛鳥時代は仏教公伝の538年から大化元年(645)の大化改心まで、白鳳時代はそれ以降、平城遷都の和銅3年(710)までの間を指している。日本が高度な大陸文化の波を被る時代である。美術史上では仏教美術の巨大な波である。ぎこちない抽象性を残しながらの表現のアルカイックな強さを止利派の仏像から、初々しい面立ちと柔らかな体躯を持つ白鳳仏へと、日本の工人は、帰化工人の助けを借りて、大陸美術の水準に近づくべく努力をする。」(第3章冒頭)と概括している。
前章でも「仁徳天皇陵古墳」等の現代の歴史家は使わない戦前の呼称を使っていたり、第3章でも「帰化人」という言葉が出てくるなど、気になるところはある。しかし、注目すべき指摘・大胆な指摘におおいに驚かされる。
「この時代、中国大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本にもたらされた新しい美術は王朝の庇護のもとに発展した仏教美術がほんどの割合を占める。ところで仏教美術とはなにか、それは一言でいって「荘厳(しょうごん)」の芸術である。‥仏の身体(とそれをとりまく)すべては金銀や極彩色の宝石によって変化自在に装われ彩られる。‥建築、彫刻、絵画、工芸のすべてが混然一体となった「かざり」の総合芸術‥それが仏教美術の本質である。‥今後期待されるのは、荘厳の芸術としての仏教美術の原初像、全体像を復元することである。」(②「荘厳としての仏教美術」)
「飛鳥時代の王室に仏教と並んで道教思想が浸透していた事情を物語る。‥寺院という新しい建造物のための技術習得を容易にしたのは、縄文依頼の大規模な土木工事の経験であった。」(⑤「大規模土木工事と道教的石造物」)
「救世観音(法隆寺)のアニミスティックな神秘感を否定できまい。‥この像の独特な衣文のあらわしかたから朝鮮の仏像との関連も考えられるが、‥朝鮮仏像に見出すことにも無理がある。敷いてその表現の類縁を求めるとすれば、縄文中期の土偶の人面しかない。帰化人を祖先とする止利派仏師の体内にも、縄文人の呪術の血が混入してたのだろうか。」(⑦「救世観音像の異様な“物凄さ”)
「血」の「混入」というような表現には与したくはないが、造形の思考に数千年の歴史の累積を見ることは可能なのか、あらためて縄文の表現との比較に心をとめてみたいとは思う。
「仏像に託された幼児のおもかげを、白鳳人がなぜこれほどまでに敬愛したのか、その理由はさだかでない。おそらくそれは、祇園祭のような伝統的な祭の場で、稚児が神の遣わし、依代(よりしろ)としての役割を受け持つことに関連するものだろう。毛利久のしてきするように、人物埴輪の“純真無垢”の表情につながる童顔美の系譜なのかもしれない。」(⑨「童顔への信仰 白鳳仏の世界」)
ここら辺も大胆な推論だが、子どもへの着眼というところでは、網野善彦も思い出した。