Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「浄土思想」

2023年10月25日 18時33分11秒 | 読書

   

 本日「浄土思想 釈尊から法然、現代へ」(岩田文昭、中公新書)を読み終えた。
 本日読んだのは第6章「二十世紀の新たな物語」と終章「物語は現代に続く」。

いつの時代でも宗教的体験は、宗教の真理判定の重要な要素であった。とはいえ伝統的社会では宗教的権威が真理判定に大きな役割を果たしており、宗教的体験そのもののもつ意義に一定の枠組が課せられていた。‥浄土三部経がいったん文字となり成立してからは、書かれていることは釈尊の言葉であるとして、仏教者は経典に真理基準をおいていた。‥自らの体験が重要な意味をもっていても、経典の真実性を根拠づけるのではなく、経典についての自らの「解釈」が正しいことを根拠づけるものとなっていた。

西洋の近代的な文献学が導入され、大乗経典が歴史上の釈尊の言葉ではないことが知られてきた。また伝統的思考や権威、宗教的共同体の絆が弱体化してきた。‥近代の諸思想に出会うなかで、宗教的体験のもつ意義が重要視されていった。明治以来、知識人青年には、宗教の真理性をその体験、自らの実際の経験において検証する傾向が顕著に表れてきた。

(親鸞は歎異抄の中で)経典の引用も解釈もなしに、念仏をとるかとらないかは、各人にまかせると突き放す。親鸞は一人の人間が単独者として本願の真実性に、向きあうか否かを弟子たちにまなっている。仏教の二つの意味のうちの「釈尊の教え」よりも「仏になる教え」を根本においているだけではなく、「釈尊の教え」にもとづく詳細な教義解釈を不要であるかのように省略している。

 いろいろと引用したが、いづれもどこか懐かしい議論のような気がした。それを思い出すと同時に、現在の私に響くのが、終章の精神分析や心理療法に結びつける「物語」論であった。

親鸞や證空も、浄土教の伝統の中でその思想を形成し、‥教団の中で固定的に捉えられてきた。しかしかれらの思想はダイナミックな思索の可能性をうちに有している。物語が再構築され、また物語が創造的に解釈され、新たな物語が発生することは否定されないからである。‥浄土教の物語はそのような未来にも開かれている。

 最初の一文のとおり「教団」という組織ではあらたなダイナミズムはもう生まれないと私は思ってきたし、今もその判断は変らない。「教団」は「自ら考える人」を排除したがる。排除の論理と組織の延命を自己目的化せず、それを避けるあらたな「物語」が生まれるとして、どういうところから生まれるのだろうか。40数年こんなことばかりを考え続けてきた。



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