Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書3月号」から 続き

2020年02月29日 12時00分20秒 | 読書

 いつものように覚書として。今月は16編中12編に眼をとおした。

・太平洋でプラスチックごみ拾い     中嶋亮太

「‥『黒潮続流再循環域』という名前がついている。日本列島の東側に沿って北上してきた黒潮は、関東の沖合辺りで南下してくる親潮とぶつかるため、その向きを急に西に変えて黒潮続流となる。急に向きが変わるときに海流の一部が渦を巻いてしまうのだ。この渦の中にプラスチックごみが大量に集積している‥。」

「海流が時計回りに循環し、ぐるぐる回るうちに海水が内側に押される‥。海水は下に向って潜り込むが、軽いプラスチックは海の表面に留まるので、‥循環域の中心付近に巨大なごみのたまり場を形成し‥その名を『西太平洋ごみパッチ』という。」

・漱石全集の読み方(中)        赤木昭夫

「漱石が創作にいそしんだ年数は、小説が約10年にたいして、俳句漢詩がいずれも約30年、点数では俳句が約2500、漢詩が約200に及ぶ。‥(俳句と漢詩)どちらも「なりわい」とせず、「たしなみ(素養)」とした。俳句や漢詩ならではの文学形式の神髄を――東洋的な感性表現よりも、むしろ超西洋的にきめ細やかな《場面設定と展開》――を深い層で、小説に役立てた。題材や文体といった表面から東洋を引っ込め、代わりに西洋を前面に押し出し、東洋は底支えにした。‥内容も文体も高踏的で、新聞読者を捉え損なった「草枕」や「虞美人草」から「三四郎」以降の「社会小説」へ転身するなかで実現された。」

『俳句と云ふものは、自然なり人事なりの、些つとしたところに目を附けるものであるから、普通の人の気の附かぬ所を、俳句の趣味を養つたお陰で見出すことがある』
『俳句や漢詩を心得て居ると、文章を非常に緊縮させるのに有効だ。だらだらと数行を費やして書くところでも、一句、或ひは一行にして済すことが出来る場合もある。』(漱石「文話」)

・異形の場所からモノへ         赤坂憲雄

「武蔵野がはらんでいる時空の歪みは、確実に、いたるところにそうした「異形の場所」を産み出しています。東京の郊外としての武蔵野は、開発と移民の色濃い影に覆われているのです。‥いま・そこに暮らす人びとには地の記憶として継承されていません。そこには、いかなる歴史が埋もれているのか、ほんの六、七十年前には、あるいは近代のはじまりの百五十年前には、いかなる景観が広がっていたのか。その足元からの掘り起こしが、やがて近代の初期設定(デフォルト)を浮き彫りにするような方位へと、私の武蔵野学は向かうことになるでしょう。」

・見ることも書くことも叶わぬかざり   橋本麻里

・三十分の死              長谷川櫂

「リンカーンは北軍をアメリカ建国の理想、自由と平等の守護者として正当化し、南軍を建国の理想に敵対する賊軍に仕立て上げた。これが北軍の士気を鼓舞し、南軍の戦意を挫くことになる。さらに南部と友好関係にあるフランスとイギリスの動きを封じることになった。‥リンカーンは北軍の戦死者を自由と平等という建国の理想に命を捧げた英雄として祀り上げた。」

「アメリカという国家が英雄になれると約束して兵士を思うように戦わせたわけだ。言葉で人間を描くのが文学なら言葉で人間を動かすのが政治である。‥このときリンカーンは宗教の仕事である魂の救済の領域に一歩踏み込んでいた。言葉で人間を動かす政治と言葉で人間を救う宗教はいつも境界が明らかでない。」
「アメリカにかぎらず国家の奥の間で国家を動かしているのは今も昔も国家による死者の保証である。日本では明治以降、靖国神社がこの機能を担ってきた。」
「死もまた意識の消滅である。‥このときは死のサンプルを見せられたような気がした。ではサンプルの死と本物の死は違うとすれば、どこが違うのか。それとも同じなのか、今回の死のサンプルは短時間の意識消滅ですんだ。意識の器である肉体がまだ残っていたので目覚めることになった。一方、本物の死となると意識消滅だけではすまない。意識の次に肉体も消滅する。ここがサンプルと異なるが、死が消滅であることにかわりはない。」
「ところが人類には天国と地獄、極楽往生、魂の不滅、輪廻転生、自然に帰る、あるいは無に帰るなどなど、言葉が生み出す幻想あるいは妄想としか思えない死後の壮大な体系がある。これはどうしたことか。」
「漱石は三十分間、意識がなかったことを一と月以上たって妻から知らされた。この「三十分の死」は漱石にとって吐血より衝撃だった。‥「余は一度死んだ」。漱石はここから死の考察をはじめる。幽霊について、死後の意識について、ドストエフスキーが癲癇の発作のあと、経験したという恍惚感について、またドストエフスキーが銃殺される瀬戸際で皇帝の命令によって命拾いしたことなど。惜しいことにこの死の考察はやがて東京へ生還する喜びに紛れてしまうのだが、ここで途絶えたのではない。漱石の死の考察は六年後の本物の死へと深まっていった。それは水脈のように小説「こころ」や絶筆「明暗」を浸している。死の一と月前に弟子に語った「則天去私」もそこから生まれたのではないか。」

・こぼればなし

「2011年3月から九年の歳月が流れました。しかし、この長い年月をもってしても、東日本大震
災がもたらした傷跡は癒えぬままあることを感じます。大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な事故を引き起こした、東京電力福島第一原子力発電所の現状を収束させる目処は未だに立っておりません。」

「‥(双葉町の)ふるさとへの帰還を断念された方々が六割を超えているということに、九年という歳月の重さを感じずにはいられません。いま、まだ判断がつかないとお考えの方々も、帰還が先延ばしになることで断念に傾くということがあるのではないでしようか。帰還困難区域の指定が解除されたとして、かつてのようにそこにコミュニティが再生するのか、とても困難な課題がここにはあります。」
「あの日がもたらしたものに、どうむきあうのか――九年を経ても現在進行形の問いとして眼前にあります。」



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