Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「風土記の世界」(岩波新書)

2018年06月27日 17時50分01秒 | 読書


 本日読み終わった本は「風土記の世界」(三浦佑之、岩波新書)。古事記も日本書紀も一度は目を通読したことがある。そして拾い読みをしたところや、各種の本での引用部分や、その前後を確かめながら読んだところは何か所もある。しかし風土記というのは引用された部分しか読んだことがなかった。
 友人からも風土記は読み物としても極めて面白いと勧められたこともあったが、目をとおすことはなかった。これを機会に目をとおしてみたいと思った。

「現存する風土記が五か国と逸文だけというのは、上総国風土記にかぎらず、残念なことである。当時あった六十数か国のうちの半分でも風土記が遺っていれば、古代の日本列島は、今とはまったく違う多彩な姿を見せてくれたにちがいない。その豊かさは、現存する各国風土記や運よく遺された逸文類を読むだけでもよくわかる。
 まぼろしの風土記からは、遺された風土記と同様に、中央であるヤマトに包み込まれてしまいそうな地方の姿と、それに抗い続ける固有の姿と、その二つが見いだせるだろう。そしてそこから浮かび上がるのは、「ひとつの日本」に括られる途中の日本列島の姿である。もちろな、出雲国風土記は例外的で、ほとんどの国の「解(げ)」の撰録者は中央から派遣された国司層であり、ヤマトの影響力が強いのは明らかである。しかし、それでもたくましく土地の伝承は生き続け、消されたとしても行間から読み取れる情報はさまざまにあったはずである。」(まとめにかえて)

「古事記は七世紀後半には存在していた。そして、そこではすでに、ヤマトタケルは悲劇の英雄であった。その悲劇性が父子の対立を回避するかたちで、八世紀初めには律令国家の正史「日本書」紀に載せられることで、ハクチョウとなって飛び翔るヤマトタケルの死が、国家に公認された歴史となってゆく。ところが、「日本書」紀が成立する直前まで、国家の側にあったヤマトタケルは天皇だった。その一端が常陸国風土記の倭武天皇として定着した。‥(その)倭武天皇の伝承は、天皇家の歴史が確定する以前の、「もう一つ」の歴史や系譜を垣間見せている。古事記でもなく、ましてや日本書紀でもない伝承や系譜が、じつはいくつも存在したのであり、常陸国風土記はその一つに過ぎない。そうしたことを浮かび上がらせてくれるという点だけでも常陸国風土記が今に遺された意味は計り知れないほど大きい。」(第3章常陸国風土記)

「出雲国造が責任者として署名した出雲国風土記は、正式な「解(げ)」ではなく、何らかの理由で国造側によって撰録された書物ではないかという祈念が拭いきれないのである。国主が提出した「解むに対して国造には何らかの不満があり、この書は編まれた。その書が、ヤマト朝廷に「解」として提出されたか、逸れても出雲の側に留め置かれたはわからないが、私撰本とでもいえる書物として出雲国風土記は現存するのではないか。」(第4章出雲国風土記)

「播磨国風土記には、人びとばかりか神もまた普段着で登場する。‥古事記には最初に地上を統治した神として語られ、出雲国風土記では「天の下造らしし大神」と讃え名で呼ばれる英雄神オホナムヂは、播磨国風土記においても国造りの神として語られている。しかし、その「国」は国家としての国といよりは、クニの原義に近い大地といった意味で理解したほうがよい。したがって、そこで語られるオホナムヂ像は、国土を統一した威厳のある英雄神というよりは、民間伝承の主人公ダイダラ坊(ダイダラボッチ)と同様の、ちょっと間抜けな大男といった性格を帯びてしまうのである。‥ちょっと間が抜けていて愛嬌のある紙が語られるところに、民間伝承における日常の語りの真骨頂かあるといえそうである。」(第5章語り継がれる伝承)

「風土記に描かれた女性首長の記事には、ヤマトの王権が列島を制圧する以前の歴史が何らかのかたちで反映している‥。古墳時代以前、日本列島には男の首長もいたし、女たちも首長として土地を治めていた。これは、男と女が対の構造をとって並ぶ存在だということからみれば、当然のありようだった。文化人類学の認識では、古代の日本列島は母系でもあり、父系でもあるような双方的(双系的)な社会だったと考えられている。‥男系的な血統を重視する天皇家においてさえ、アマテラス(天照大御神)という女性神を始祖神として斎き祀り、律令国家の確立した八世紀においても、‥何人もの女性が天皇として即位する。その証しが、これら九州風土記に伝えられた女性首長の記事からは浮かび上がる‥。」(第5章語り継がれる伝承)

「「日本書」の紀としての日本書紀、「日本書」地理志になろうとしてなれなかった風土記、それから遠く離れて存在する古事記、そのように把握することによって、遺された三つの作品を、論理の破綻なく位置づけることができるのではないか。それが、紆余曲折を経てわたしがたどりついた、ひとまずの結論です。」(あとがき)





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