Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

春惜しむ、惜春

2020年04月30日 13時13分27秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★先人は必死に春を惜しみけり      相生垣瓜人
★惜春のサンドバッグにあずける背    夏井いつき

 間もなく立夏、今年は5月5日である。暖冬、寒暖の激しかった春、さて今年の夏は.どのような夏になるのか。新型コロナウイルスに振り回される日々が続くのは間違いなさそうである。
 第1句、今年の春はウイルスに振り回せされながら必死にいろいろなことをこなしてきた。「必至」はこのような「必至」ではない。多分俳句の席題で「惜春」「春惜しむ」が出されて必死に「春を惜しむ」気分を反芻しながら、季節感を思い出し、そして句に仕立て上げようとしている作者を思いうかべた。
 先人もこうやって苦労したのかという感慨と同時に、どこか虚しい努力ということを感じているのではないか。「ためにする季節感」「実感を伴わない季節感」の構築で俳句の優劣が決まることへの違和感もある。「先人も」ではなく「先人は」というのが、作者の新たな決意ではないのだろうか。どこか大切なものを失った現在の俳句への異議申し立てが潜んでいると理解した。
 以上の解釈ならば「春惜しむ」の季語は他のどんな季語でも置き換えが可能になる。「梅雨を楽しめり」でも「虫を聞き分ける」でもいい。だが、「春を惜しみけり」でなくてはならない。それは春の息吹が生命のかがやく展開に変わる瞬間を全身で受け止めようとする決意を詠み込んでいるからだろう。いろいろなことを読み取れる句ではないだろうか。

 第2句、若い肉体の躍動を感じる、しかしこの躍動の期間は短い。見事な成果が約束はされていそうなエネルギーを見ると同時に、その一瞬の輝きのあとの衰弱もまた見えないか。練習の合間に身をサンドバックに寄せたときのほんの一瞬の隙、そこに肉体の躍動の危うさを感じ取っている。「惜春」が意味深である。

 出かけているときに、第1句に別の解釈がありそうだと思った。
 「「先人」は季節の推移にとても敏感だった。今の我々は季節の移ろいにあまりに鈍感になっていないか、季節感を大事にした生活をしていないのではないか」あるいは「現代は、都市化が進み、季節感が希薄になりつつある。もっと季節感を生活に密着したものとして作り直すべきではないのか」」という問いかけを読み取ることもできる。
 歩きながら考えたが、この解釈では少々訓戒めいている。胡散臭いお説教になってしまう。そんな風にも思える。
 果たしてどう解釈したらいいのだろうか。分からなくなってきた。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。