本日は立夏。
外の風は少しずつ強まっている様子。南風である。しかし「立夏」とは思えないほど風が冷たいと感じた。天気予報を見ると最高気温は23.6℃もあったようだ。私の感覚とは違った。
★旅名残り雲のしかかる立夏かな 飯田蛇笏
★橋の灯の波に脈打つ立夏かな 藤原千沙子
★魚にやや塩をきかせし夏来たる 道下則子
★はらわたの有り合わせにて立夏まで 松本康司
第一句、夏の雲は確かに圧し掛かるように圧倒的である。しかし立夏の日にこのような雲が出るのかな、とは今年の天候を見ての感想。確かに入梅以前に夏の様相をこのようにみられる場合もある。だが、梅雨明けの方が「圧し掛かる」が生きてくる気もしないではない。いやはや尊敬する飯田蛇笏の句にいちゃもんを付けてしまった。私の読みが間違っている可能性の方が大きい。
第二句、「橋の灯の波に脈打つ」という表現に感服。「立夏」という季語が必然かというとこれもまた疑問がある。立夏という必然が私には感じられなかった。「脈打つ」が、多少夏のイメージに繋がるのかもしれないが、果たしていかがであろうか。「脈打つ」様子の何処に夏を見つけたのか、とても気になる。蕪村の春の波でもなく、秋・冬でもない。夏祭と解すると別の季語が似つかわしい。
第三句、こちらは「夏来たる」にふさわしい「塩を効かせる」という句である。だが、ありきたりといえばありきたり、の誹りは免れない。
第四句、「はらわたの有り合わせ」はとても身に沁みて、そして体の違和感が「有り合わせ」という語に籠っていると感じた。どうも自分なりに体を統御できない苛立ちやもどかしさが伝わる。きっと60代を過ぎた作者なのではないか。ただし「立夏まで」の「まで」がひかかった。「立夏かな」でも「立夏の日」でもいい。強く断定してほしいと思った。「まで」生きる、のではなく、通過点として体の不調を捉えて欲しかった。
本日は素直な読み方をしなかった。気分が内向き、下降気味だったかもしれない。
外の風は少しずつ強まっている様子。南風である。しかし「立夏」とは思えないほど風が冷たいと感じた。天気予報を見ると最高気温は23.6℃もあったようだ。私の感覚とは違った。
★旅名残り雲のしかかる立夏かな 飯田蛇笏
★橋の灯の波に脈打つ立夏かな 藤原千沙子
★魚にやや塩をきかせし夏来たる 道下則子
★はらわたの有り合わせにて立夏まで 松本康司
第一句、夏の雲は確かに圧し掛かるように圧倒的である。しかし立夏の日にこのような雲が出るのかな、とは今年の天候を見ての感想。確かに入梅以前に夏の様相をこのようにみられる場合もある。だが、梅雨明けの方が「圧し掛かる」が生きてくる気もしないではない。いやはや尊敬する飯田蛇笏の句にいちゃもんを付けてしまった。私の読みが間違っている可能性の方が大きい。
第二句、「橋の灯の波に脈打つ」という表現に感服。「立夏」という季語が必然かというとこれもまた疑問がある。立夏という必然が私には感じられなかった。「脈打つ」が、多少夏のイメージに繋がるのかもしれないが、果たしていかがであろうか。「脈打つ」様子の何処に夏を見つけたのか、とても気になる。蕪村の春の波でもなく、秋・冬でもない。夏祭と解すると別の季語が似つかわしい。
第三句、こちらは「夏来たる」にふさわしい「塩を効かせる」という句である。だが、ありきたりといえばありきたり、の誹りは免れない。
第四句、「はらわたの有り合わせ」はとても身に沁みて、そして体の違和感が「有り合わせ」という語に籠っていると感じた。どうも自分なりに体を統御できない苛立ちやもどかしさが伝わる。きっと60代を過ぎた作者なのではないか。ただし「立夏まで」の「まで」がひかかった。「立夏かな」でも「立夏の日」でもいい。強く断定してほしいと思った。「まで」生きる、のではなく、通過点として体の不調を捉えて欲しかった。
本日は素直な読み方をしなかった。気分が内向き、下降気味だったかもしれない。