Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「ヴァイオリン・ソナタ全3曲」

2017年04月16日 22時17分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ブラームスのヴァイオリン・ソナタを聴きながら、「雪村展」の図録を眺めている。好きな作品だけでも近いうちに列挙する記事を書かないと忘れてしまうそうな気がしている。
 さてブラームスのヴァイオリン・ソナタは、いつものとおり、徳永二男のヴァイオリン、伊藤恵のピアノによるもの。録音は1996年のもの。
 CDプレーヤーが壊れているので、残念ながら妻の持っているCDラジカセを借りて再生している。赤子が気張って無理に声を出しているような具合である。もっと自然で、奥行きのある音が聴きたい。早めにCDプレーヤーの手立てを講じないといけない。

   

「自選 大岡信詩集」から

2017年04月16日 18時58分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 有隣堂の文庫本のコーナーにようやく岩波文庫の「自選 大岡信詩集」が並んだ。刊行された昨年2016年4月に手に取ってみたが、私にはなかなか理解できない詩と思われたので、購入しないままになっていた。
 先日大岡信(1931~2017)が亡くなったと聞いて、批評ではずいぶん勉強させてもらったり、楽しませてもらったこともあり、その詩を読んでみたいという気持ちになっていた。
 大岡信の詩作品は初めての体験である。しかもまだ読み始めたばかりである。
 この岩波文庫の解説は三浦雅士氏。その解説の冒頭に「大岡信はまず批評家として登場した。必ずしも本人の意志ではない。1953年8月、雑誌「詩学」に掲載された評論「現代史試論」があまりにも鮮烈だったからである」と記されている。
  また「1960年代に二十歳前後だったものの実感としていえば、大岡は、鮎川信夫、吉本隆明と並ぶ、師団の指南車にほかならなかった。鮎川、吉本が多かれ少なかれ政治的であったのに対して、大岡は非政治的であり、芸術家の代表に他ならなかった。鮎川、吉本が詩人の戦争責任を問うたとすれば、大岡は詩人の芸術上の責任を問うたのである」とも記されている。この後半部分は私が大岡信に対して抱いているイメージそのものである。
 このような解説を読みながら、1950年代、大岡信20代の作品を読んでみた。

 神話は今日の中にしかない

なめらかな苔の上で燃え上がる影
ぼくの中の燃えるいばら
ぼくの両眼に巣をかけて
茂みに街に風を運ぶ小鳥たち

朝の陽ざしは葉のうらで
午後の緑をはや夢みている
道の遠くで埃があがる
その中で舞う子供らのあいだをぬって
むかし死んだおまえの母の優しい手が
丸い小石をふりまいてゆく
池のふちまで‥‥‥

池にひびく小鳥の足音
あれはぼくらの夢の羽音だ
そのはばたきは
季節の屋根をとびうつりながら
晴れた空のありかを探す五本の指だ

苔の上では星が久しい眠りから覚め
ぼくの夜がおまえのかすかに開かれた
唇の上であけはじめる

[記憶と現在](1956)所収

 この詩を読んで1950年代の前半の作品としてあまりの明るさにまずはたじろいだ。たぶん成就された愛の歌なのだろうと想像しているが、それでもこの明るさは私には遠い世界ではないか、と感じた。
 しかし一方でこの詩集には、この詩の前に「1951年降誕祭前後-朝鮮戦争の時代」という詩もおかれている。そこには

おれたちの青春は雨にうたれている
言え、おれたちのために
どのような春が、どのような夢が
荒野の涯に生きながらえて輝いているか
みよ 十円札の皺のような心の皺と
飛び散った肉が焼杭にはりついている
冬の空-おれたちの焦げた空間


と記されている。
 まだ読み始めたばかり、大岡信の詩に散らばることばがまだ私の頭の中には座り切れない。理解しきれない。イメージが了解できないものが多い。しかししばらく付き合ってみたいと思えるようになってきた。



5月下旬の陽気

2017年04月16日 13時02分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中は団地内で若干の植栽作業。坐骨神経痛や腰痛が再発しないかと心配したが、何とかだましだまし。
 結局は半袖のポロシャツとベストで過ごした。午後もこのままの格好で出かけることにした。予想最高気温は24℃であったが、すでに11時前に23.8℃。予想を超える気温になりそうである。風もなく、過ごしやすいが‥。
明日からは退職者会の会議・打合せ・作業・ニュース作成・メーデー・東京での集会とで5月半ばまでは手が離せない。慌ただしい時間が過ぎる予定なので、それに集中するために、本日は読書タイムを確保したい。といってもいつも、仕事に疲れるとすぐに読みかけの本に手が伸びてしまう悪い癖は、中学生の頃から治らない。一番いけないのは、そのために作業が遅れてしまう。作業に影響の出ない範囲で止めるということが出来ない。好きなことの方が集中するのは誰でもが同じである。
 子どもにいくら「勉強に集中しろ」といっても当の大人もそんなことは出来ていない。子どもはちゃんと大人のそういうところは見ているので、言ってもゆうことなど聞かないのは当たり前である。
 そして「雪村展」の感想も急がなくてはいけない。気持ちはあるが、なかなか手かつかない。情けないものがある。

 くどくどと言い訳ばかりのブログになってしまって、いたく反省はしている‥。これでは読んでいるかたも呆れて、もう訪れるのをやめてしまうかもしれない、とビクビク。