南米での体験の後、秋田で壁画「秋田の行事」(1937、現秋田県立美術館蔵)をフジタは描いている。ここで祭を描くことで「群衆」の熱気、非日常の姿を描いている。この「群衆」に対するフジタの興味に私は注目したい。後の「猫」や「アッツ島玉砕」へと繋がる画家の視点があると思われる。
さて、この絵は「南昌飛行場の焼討」(1938-39)。最初この絵を見た時、技法上のことはわからないが、構図の取り方・飛行機の配置の仕方など、私は紙芝居の絵でも見せられたようだと思った。フランスで名を馳せた「西洋画家」の作品なのかと疑った。
しかし他の画家の戦争画でもおなじように、場面としては散漫な作品が多くある。遠景で煙だけが戦争の証のような絵画が多くの画家によって描かれていた。近代の戦争というものは凝縮した場面や迫真性や集団的な場面とは想像以上にかけ離れたものなのかもしれない。兵器の進展に伴い、人の死というものがどこか遠方で実在感のないものとして生起しているのかもしれない。しかし実際には狭いところでの阿鼻叫喚と地獄図が噴出している。それを私たちは国内での空襲や原爆や沖縄戦、そして撃沈される艦艇や一方的に殺戮される戦争末期の戦闘行為、抑留者の過酷な状況を実相として戦後に語られ、伝えられた。
多くの戦争画を描いた画家の目には、戦争の現場は人間のドラマとしては残念ながらどこか現実感のない、どこか遠い別世界の出来事のような実態であったと思う。しかしフジタは陥落直後の漢口に足を踏み入れ、銃剣を手に疲労した日本兵や、横たわる中国兵の死骸、逃げ惑う避難民、破戒された戦車など生々しい傷跡を目にしているという。それらのものは初期の戦争画には表現されていない。無論そのようなものは作品としては残っていない。描いてから拒否されたのか、描いても採用されないと忖度したのか、そのような現実には当初は興味がなかったのか、真相はわからない。
しかしフジタは自身の作品を含むこのような戦争画にとても違和感を持っていたのではないかと私は想像している。フジタという画家は自身の中に湧き上がる表現意識よりも、フランスに行き、技法の獲得によって表現すべきものを獲得したと思える。
このようなフジタは現実を見る眼につねに楽観的で現実とは大きな齟齬やズレがある。このような絵を描いた直後フジタは再び戦時下の日本を離れ「もう一度自由に絵を描きたい」とバリに向かう。しかしヨーロッパの戦争勃発はそんなことを許さず、日本大使館より帰国勧告を受けることになる。しかしドイツは身動きもならず戦争は終局に向かうと楽観視して、帰国勧告には当初従っていない。いよいよ危険が身に迫り、ようやく日本に帰国する破目になる。
この時期ヨーロッパにいったん戻り描いた「猫」(1940)について、私はフジタの職人的な技法のひとつの頂点なのかと思っていた。しかし1940年という時期を考えると、ヨーロッパでの戦争の迫った時期、日中戦争という争闘の時代の反映という指摘もある。可愛らしい猫、あるいは画家の目を代弁するような視線を持つ猫ではなく、生存のために闘争本能を剥きだした猫である。この姿態を迫真性をもって描いたといえるが、同時に細部をよく見ると実在の猫の仕草とはかけ離れているようにも見える。その1でも記載したが、写実とは言えない様式化された職人芸を感じる。フジタなりの時代把握の絵なのかもしれない。
様式化された技法を経て、南米での「群衆」を描いた壁画への着目、秋田で祭の群像を描き、そして猫の群像、それも生存をかけた争闘の場面という生の噴出する場面への着目に私は興味を惹かれる。フランスで名を成したころのフジタの作品は「何かを表現したい」という表現意識よりも、技能・技量が先行して描く対象をさがしているように思える。それが南米の体験を経て、生々しい人間の生の噴出を描こうとし始めたように思われる。大きな転換がパリを離れて以降、徐々に、そして画家本人はまだ無自覚ながらはじまったのではないだろうか。
「哈爾哈河畔之戦闘」(1941)。この絵は実は聖戦美術展で公開された同じ題で別のものがあり、それが絵を依頼したこの戦闘に携わった司令官のもとにあったという。
「巨大なソ連の戦車から絶え間なく銃弾が降り注いでいる。阿鼻叫喚の声上げる日本兵。死体は累々と積み重なっている。その死体の山を踏みつぶしていくソ連の戦車‥‥。凄惨きわまりない戦争の実像である。それは聖戦美術展に出品されたものとはまったく異質なもう一枚」(近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」)。
この公開されなかった作品が「アッツ島玉砕」(1943)や「血戦ガダルカナル」(1944)、「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945)などに続くフジタの戦争画におおきな画期となったと私は思う。
フジタにとっては、初めて戦争画によって「表現したい対象」を獲得したのではないか、というのが私のフジタという画家に対する評価である。
南米での壁画や秋田での祭、猫の群像を経て、人間が非日常で見せる生命の噴出、ドラマチックな生の発現を描く延長上に、戦争という極限状態での人間を描こうとしたのではないだろうか。ダ・ヴィンチやラファエロ、あるいは19世紀初頭の西洋絵画を参考にしながら描いたといわれる。私はフジタの頭の中にはジャン・グロ「アイラウの戦場のナポレオン」(1808)、ジェリコー「メデュース号の筏」(1819)、ドラクロワ「サルダバナールの死」(1827)などの新古典主義やロマン主義の絵画が念頭にあったような気もする。これらの作品のように人間の阿鼻叫喚の地獄絵図の中に人間のドラマを描きたかったのだろうか。
さて、アッツ島玉砕にしろ、ガダルカナルやサイパン島の戦闘にしろ、このような激しい肉弾戦があったとは思われない。作品では日本兵が優位にアメリカ兵と対峙し殺戮を行っている。それが日本の軍部の意向であることは間違いがない。たがいろいろな話を聴く限り、米軍の兵器による一方的な殺戮によりほとんどの日本兵が命を奪われている。
そして日本兵の顔はとても現実の人間の顔ではない。神がかり、というのは憚れるほど人間性を喪失した顔である。戦争による殺戮そのものが人間性を喪失した極限の状態であることを描いていることは確かであると思う。
フジタはこれらの絵を描くことで、ようやく絵画で日本に受け入れられたという時代を得たのかもしれない。だが私の気になるフジタのことばがある。
「(アッツ島玉砕の絵を前にして)膝をついて祈り拝んでいる老男女の姿を見て生まれて初めて自分の画がこれほど迄に感銘を与え、拝まれたということは未だかつてない異例に驚き、しかも老人たちは御賽銭を画前に投げてその画中の人に供養を捧げて瞑目していた有様を見て一人唖然として打たれた。この画だけは尤も快心の作だった」
私は自分の作品を見て肉親や日本兵の死に首を垂れ鎮魂している人を見て、ひとり悦に入っているフジタを思うと、背筋がゾクッとするほど怖くなる。人を感動させる絵を描くことができたという満足があったのだろう。だがこの「満足」はとてもゆがんではいないだろうか
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