選挙が終わって2日目。
どっと疲れが出た感じで、すぐに眠くなったりします。
4年に1度の5日間は、やはり特別なもので、ある意味、「普通ではない」状態と言えますね。
今日、4月26日は、私の父の命日なんです。
ちょうど8年前の、早朝に亡くなったのですが、実はその時は、町議選挙の真っただ中で、確か最終日でした。
2000年に肺にがんがみつかって以来、闘病した父。
それまでは、病気らしい病気もしなかった人でした。
がんがみつかってから1年以上は、闘病しつつも、タクシーの仕事も続けていて、じゅんが生まれた2001年7月時点もまだ元気で、そんなに変化が見られなかったんですが、その年の秋頃に、タクシーを運転中に、突然、どっちの腕だったかが折れてしまいました。骨に転移した影響で、骨がもろくなってたんですね。それからは、入退院を繰り返しました。抗がん剤治療もしてたんですが、副作用もなく、けっこう元気そうにしてました。でも、2003年を明けてから、かなりしんどそうな感じになりました。
今でもよく憶えてますが、確か3月13日だったと思いますが、あの日は一緒に丸太町の第2日赤に車で行き診てもらったんですが、かなりつらそうでした。
でも帰りは何となく元気そうで、八幡市内の1号線沿いのビックボーイというお店で食事をしました。
サイコロステーキを注文して、パクパク食べてましたね。
その時に、おもむろに「今、渡しとく」と陣中見舞いをくれたんです。
それから1週間後くらいに、容態が急変して、住んでいた田辺団地から救急車で第2日赤まで運ばれ、そのまま入院。かなりの激痛があり、モルヒネで痛みを抑える事になりました。
痛みは抑えられたようでしたが、逆に意識がもうろうとしてしまい、あまり話がかみあわなくなる事もでてきました。病棟をふらふらと歩きまわるような事もあったり、目が離せなくなりました。
それでも、私は選挙が迫っていた事もあって、ほとんどそばにいてやれませんでした。
ある日、突然、父から電話がありました。何かと思ったら、「立候補用の戸籍謄本は大丈夫か」という事でした。私は本籍は父の郷里の富山県小矢部市にあって、郵送してもらう必要がありました。
その事を心配していたようで、この時の電話の対応は、驚くほどしっかりしてました。
府会選挙の投票日に、日赤から京都市西山のホスピスに転院させました。
日赤では、父がどんどん惨めな状態になっていく感じで、あまりに可哀そうな感じでもあったので、部屋に空きができた事もあり、入れていただけました。
でも、しばらくして、意識不明になってしまいました。
いたれりつくせりの完全看護だったので、安心してたんですが、ちょうど町議選挙最終日の前日の夜に電話があり、「もしかしたら危ない」との話があって、夜に病院まで行きました。
私は疲れていた事もあって、病室(個室)の椅子に座りながら、父が危篤にもかかわらず、眠ってしまいました。不謹慎ですよね。
そして朝になって、主治医の先生から「残られるか、行かれるかは決めてもらって結構です」と言われ、いろいろと考えたんですが、結局は選挙戦に戻る事にしました。父の手を握って、「ごめんな。選挙に戻るから。もうちょっと元気におってや」と声をかけたんですが、私が伏見あたりを車で走行中に、病院から電話があり、「亡くなられました」との話がありました。それが、8年前の今日の事でした。
なんか、タラタラと書いてしまいましたが、選挙が来るたびに、そんな感じの事を思い出しますね。
ずいぶん、「親不孝」をしたわびにもなりませんけどね。