こんにちは 岡本しょういです

京都の南部、和束町で日本共産党の町会議員をしています。町や議会などの情報をお知らせしています。

父の命日

2011-04-26 22:32:01 | Weblog

選挙が終わって2日目。

どっと疲れが出た感じで、すぐに眠くなったりします。

4年に1度の5日間は、やはり特別なもので、ある意味、「普通ではない」状態と言えますね。

 

今日、4月26日は、私の父の命日なんです。
ちょうど8年前の、早朝に亡くなったのですが、実はその時は、町議選挙の真っただ中で、確か最終日でした。

2000年に肺にがんがみつかって以来、闘病した父。
それまでは、病気らしい病気もしなかった人でした。
がんがみつかってから1年以上は、闘病しつつも、タクシーの仕事も続けていて、じゅんが生まれた2001年7月時点もまだ元気で、そんなに変化が見られなかったんですが、その年の秋頃に、タクシーを運転中に、突然、どっちの腕だったかが折れてしまいました。骨に転移した影響で、骨がもろくなってたんですね。それからは、入退院を繰り返しました。抗がん剤治療もしてたんですが、副作用もなく、けっこう元気そうにしてました。でも、2003年を明けてから、かなりしんどそうな感じになりました。
今でもよく憶えてますが、確か3月13日だったと思いますが、あの日は一緒に丸太町の第2日赤に車で行き診てもらったんですが、かなりつらそうでした。
でも帰りは何となく元気そうで、八幡市内の1号線沿いのビックボーイというお店で食事をしました。
サイコロステーキを注文して、パクパク食べてましたね。

その時に、おもむろに「今、渡しとく」と陣中見舞いをくれたんです。
それから1週間後くらいに、容態が急変して、住んでいた田辺団地から救急車で第2日赤まで運ばれ、そのまま入院。かなりの激痛があり、モルヒネで痛みを抑える事になりました。
痛みは抑えられたようでしたが、逆に意識がもうろうとしてしまい、あまり話がかみあわなくなる事もでてきました。病棟をふらふらと歩きまわるような事もあったり、目が離せなくなりました。

それでも、私は選挙が迫っていた事もあって、ほとんどそばにいてやれませんでした。
ある日、突然、父から電話がありました。何かと思ったら、「立候補用の戸籍謄本は大丈夫か」という事でした。私は本籍は父の郷里の富山県小矢部市にあって、郵送してもらう必要がありました。
その事を心配していたようで、この時の電話の対応は、驚くほどしっかりしてました。

府会選挙の投票日に、日赤から京都市西山のホスピスに転院させました。
日赤では、父がどんどん惨めな状態になっていく感じで、あまりに可哀そうな感じでもあったので、部屋に空きができた事もあり、入れていただけました。
でも、しばらくして、意識不明になってしまいました。
いたれりつくせりの完全看護だったので、安心してたんですが、ちょうど町議選挙最終日の前日の夜に電話があり、「もしかしたら危ない」との話があって、夜に病院まで行きました。

私は疲れていた事もあって、病室(個室)の椅子に座りながら、父が危篤にもかかわらず、眠ってしまいました。不謹慎ですよね。

そして朝になって、主治医の先生から「残られるか、行かれるかは決めてもらって結構です」と言われ、いろいろと考えたんですが、結局は選挙戦に戻る事にしました。父の手を握って、「ごめんな。選挙に戻るから。もうちょっと元気におってや」と声をかけたんですが、私が伏見あたりを車で走行中に、病院から電話があり、「亡くなられました」との話がありました。それが、8年前の今日の事でした。

なんか、タラタラと書いてしまいましたが、選挙が来るたびに、そんな感じの事を思い出しますね。
ずいぶん、「親不孝」をしたわびにもなりませんけどね。


新しい4年間へのスタート

2011-04-25 14:17:02 | 議会報告&議員活動

昨日、町会選挙が終わりました。

定数10を、12人で争い、345票をいただき、2位で当選しました。
多くのみなさんのご支援をいただき、本当にありがとうございました。

今回の選挙は、5日間のうち、晴れた日が1日しかなくて、あとはずっと雨。
私は、車がボックスカーだったので、まだましでしたが、それでも、連日かっぱ姿で、びしょ濡れになりながらの訴えになりました。

天候も荒れ気味でしたが、選挙戦そのものがかつてなく激しい様相の厳しいものでした。
「いつもなら、あまり回ってこないが、今回は何回も車が来ていた」とか、「いろいろなつながりで声がかかり、かつてない状況だった」など、住民の方からも、いろいろな話がありましたが、まさに票の奪い合いって感じでした。

そんな中で、何をどう訴えるかが、大きな意味を持ちますが、ここにギリギリまで悩みました。
告示日前日の夜中遅くまで、演説原稿を考えました。
今回の選挙は、東日本大震災の発生という未曾有の事態の中でのとりくみになり、3月11日以前と以降では、訴える内容が大きく変わりました。震災の救援に全力をあげるとともに、命と暮らしを守る政治を日ごろから行ってこそ、いざという時に命を守る事ができる、という論立てで、府会選挙の時はそれなりに訴えやすかったのですが、より身近な町会選挙では、なかなかしっくりこず大変でした。

震災問題がメインというか軸になって、町政の問題が枝葉のようになるのは、やはりダメという事で、この間取り組んだ住民アンケートでの声や傾向を前面に出して、「安心して住み続けられる和束町を」をメインテーマにすえて、少し長めではありましたが、告示日から訴えました。結果的には、自分としてもすっきりと訴える事ができ、良かったかなと思っています。

かつてない激戦の中で、住民のみなさんも大変悩まれたと思います。
地域や親せきの関係も無視できないし、かと言って、それだけで選ぶのもどうか・・・

かつてない激戦の中で、住民の方もかつてなく真剣に考えられたと思います。
今回の選挙の中でも、たくさんの方と握手をさせていただきましたが、終盤になるにつれて、これまでになく真剣な表情やまなざしで握り返してこられる方が多かったです。

投票日の朝に、ある方から電話がありました。

「うちは2人だが、私は岡本さんに、これから入れてくるから」と。

この家の方に投票日の2日前に電話でお願いした時には、地域から出ているから今回は無理そうなお話しだったんですが、決意をこめたような電話でのお話しに、本当にありがたい気持ちでいっぱいになりました。

そんなみなさんの、1人1人の決意や思いが集まって、今回の結果につながりました。

このみなさんの思いに、しっかりとこたえて、がんばりたいと思います。

今朝、ローソンのある交差点であいさつに立ちましたが、たくさんの方から激励をいただいて、勝利を喜んでくださいました。

新しい4年間が、今日からはじまりました。
住民のみなさんの声をしっかりと聞き、議会にしっかりと反映させる。力を合わせて願い実現にがんばる。議会や町政の事をしっかりお知らせする・・・議員としての当たり前の役割を、これからもしっかりと果たしながら、少しでも暮らしと地域を良くできるようがんばります。


いよいよ町会選挙です

2011-04-12 09:30:39 | 小さくても輝く和束町に!

10日に、府会議員選挙が終わりました。

村城恵子さんは、残念ながら勝利できず、本当に残念!

定数2の相楽で議席を得るには、「自民党の分裂」という「他力」ではなく、どんな組み合わせでも勝てるだけの「自力・地力」が必要だとあらためて実感しました。

村城さんは本当にがんばってくれました。ご苦労様でした。

和束では、363票を獲得。
4年前と比べて、19票減らしましたが、昨年の参院比例票からは、127票増やしたので、共産党としては、少し押し返すことができました。

さて、いよいよ町会選挙です。
今回は、定数10に12人くらいの出馬が予想されていて、今回も厳しい、激しい選挙になる事は間違いありません。

東日本震災という未曾有の災害が襲う中で、被災地の救援や再建に力を合わせて、取り組まなければなりませんし、今こそ政治のあり方や力が問われていると思います。

今こそ、住民の命と暮らしを守り支えるという当たり前の政治の姿、あり方こそ求められています。

日本共産党の議席は、その立ち位置からぶれずに、命と暮らしを脅かす政治に対して一歩も引かないし、妥協しない―ーそこに一番の値打ちがある。

私は、この事を心から訴え抜きたいと思っています。

あと1週間で告示。がんばります。