こんにちは 岡本しょういです

京都の南部、和束町で日本共産党の町会議員をしています。町や議会などの情報をお知らせしています。

レオ=レオニ スイミー

2012-03-30 11:13:08 | こどもの本

議会が終わった直後に、何となしに手にとって読んでみました。

レオ=レオニの絵本も、子どもが小さい時によく読みましたね。

この「スイミー」も久しぶりに読んでみたんですが、レオ=レオニの絵本は、ある意味大人向けかも。

「スイミー」は、「ちいさな かしこい さかなの はなし」という副題がついているとおり、

1匹だけ、まっくろな、およぐのは誰よりもはやい、ちいさなおさかなのお話です。

ちいさなあかいさかなたちと一緒にくらしていたのですが、そこに、「おそろしい まぐろ」が「ミサイルみたいに」つっこんできて、あかいさかなたちを、みんな食べてしまいます。

1匹だけにになったスイミーは、海の底を悲しい思いで泳いでいました。

でも、スイミーは、海ですばらしいものと出会います。

「にじいろの ゼリーのような くらげ」

「すいちゅうブルドーザーみたいな いせえび」

「みたこともない さかなたち」

「ドロップみたいな こんぶや わかめの はやし」

「うなぎ かおを みる ころには、しっぽを わすれてるほど ながい」

「かぜに ゆれる ももいろの やしのきみたいな いそぎんちゃく」

実際、絵もとてもきれいで、おもしろいです。

無表情にみえる スイミーですが、よく見ると、微妙に表情が違うようにみえます。

そんなとき、スイミーは、いわかげに隠れている、ちいさなさかなのきょうだいたちを見つけます。

スイミーは「でて こいよ、みんなで あそぼう。おもしろい ものが いっぱいだよ」と呼びかけます。

でも、ちいさなさかなたちは、こわがって出てきません。

スイミーは言います。

「だけど、いつまでも、そこに じっと してる わけには いかないよ。何とかかんがえなくちゃ」

いろいろと考えたスイミーは、叫びます。

「みんな いっしょに およぐんだ。うみで いちばん おおきな さかなの ふりして!」

そして、離れ離れにならず、持ち場を守るというルールをみんなに教えて、ちいさなさかなたちは、1匹のおおきなさかなみたいに 泳げるようになります。

そして、まっくろなスイミーは、そのさかなの「め」になります。

1匹のおおきなさかなになったスイミーたちは、大きなさかなを追い出し、お話は終わります。

ちいさな さかなたちが 1つになって、おおきなさかなたちを追い出す

そんな痛快なお話に、子どもたちは、とても喜ぶのでしょうね。

でも、このお話は、それだけのことだけでなく、とても大事なことを教えてくれていると思います。

スイミーたち、ちいさなさかなたちは、子どもたちそのもの。

子どもたちが成長する社会、世の中は、とても厳しいですよね。

「おそろしい マグロ」が「ロケットのように」突っ込んできて、怖い思いをしたり、さびしい、悲しい思いをしたり、必ずそんな時を経験します。

そんな時、危険をさけてばかりで、チャレンジする勇気もなくなりがち。

私たち親も、「あれはダメ、これはダメ」と、「子どものため」という理由をつけて、危険やリスクを除去しようとしがち。

もちろん、危ない事やリスクをともなう事を、何でも自由勝手にやらせる事は、ただの無責任でしかないですね。

それに、スイミーが海の中で、いっぱい面白いものを見つけたように、世の中には、危険やリスクもあるけど、面白い事、素晴らしい事もいっぱいあって、世界は広がっています。

さあ、どうする?

スイミーは「いつまでも、そこに、じっとしてるわけにはいかないよ。なんとか 考えなくちゃ」と考えます。
そして、みんなが1つになる事で、世界に出ていく術を身につけました。

危険をさけるだけでなく、どうすれば乗り越えられるかを考え、世界を切り拓くことができる事の大切さ、そして、それは1人ではなく、仲間と力を合わせて、みんな一緒に切り拓く事ができる事の素晴らしさ・・・

スイミーは、そんなことを教えてくれているように思うんです。

だからこそ、スイミーは「ちいさな かしこい さかな」だと。

かしこさ って、テストで点数を取れるかどうかではなく、困難を乗り越える知恵、みんなと力を合わせ、つながり合う事ができる力だと感じますよね。そんな、しなやかな力こそ、子どもたちに育んでほしいものですね。

何か教育的なお話になってしまったけれど、そんな難しい話ではないかも。

面白いものがいっぱいある海の中で、どうすればみんなとのびのびと遊べるかを、必死に考えるスイミーの姿は、まさしく、子どもそのものってことかな。

 


「がれき」問題の考え方

2012-03-28 10:57:36 | 議会報告&議員活動

今朝の新聞を見ると、被災地のがれき処理問題での政府広告が掲載されていました。

いま全国では、被災地のがれきを受け入れるかどうかで、様々な議論が起きていますね。

実は、3月議会でも、その話が出ました。

確か予算委員会のときだったと思いますが、ある議員が、被災地のがれきの受け入れはすべきものだとし、それは「日本人として当たり前のこと」みたいな言い方をされました。
私はその後で、被災地の早期の復興を考えれば、がれきの早期処理は必要な事だが、放射能汚染の問題は通常とは異なり、放射能汚染の拡散につながる恐れがある事を踏まえないといけない事、そもそも今回の事態の責任は東電と政府にあり、そこをあいまいにしてはならない事を指摘しました。

26日の本会議では、別の議員が、受け入れが必要だとの前の議員に同感だとし、「ある議員の発言は理解できない」と言われました。
「ある議員」とは私の事をさしているのですが、さらに旧ソ連や中国、北朝鮮を持ち出し、以前、共産党が与党だった大山崎町や南山城村の事まで持ち出しました。要は「そんな共産党だから、がれき受け入れに反対している」と言いたいようでした。

私は即座に発言を求め、「そんな話と、がれき処理問題がどう関係があるのか。根拠のない話であり、抗議する」と反論しました。

これらの議員の発言に見られる特徴は、がれき処理受け入れの問題を、被災地支援の名のもとに、「日本人として受け入れは当然だ」のような、何か日本人としての態度が問われている問題かのように言い、受け入れに難色を示すのは日本人ではない、「非国民」だといった精神論のようなものがありますね。

確かに、被災から1年以上も経過しているのに、いまだにがれきがうず高く積まれている光景は痛ましいですし、あれがどうにかならないとなかなか進まないなと誰もが思うかもしれません。

しかし、今回の場合は、そういう心情だけでは済まない問題、放射能汚染という、とてもやっかいな問題があります。
がれき処理を遅らせている根本であるこの問題の責任は、原発事故を起こした当事者である東電と政府にあり、責任ある対応をとらせる事が何よりも大事です。
26日の本会議で発言した議員は、「東電や政府に責任があることは、誰もがわかっていること」と言われましたが、問題は、当の東電や政府が何ら反省していない、東電は未だに事故を人災だと認めてもいないところです。本来、除染にしてもがれき処理にしても、事故を起こした東電がもっと責任をもって進めるべきものなのに、東電はあまりに他人事のような態度じゃないでしょうか。
昨日のニュースでも、「電気料金値上げを拒否するなら送電しない」との東電の態度について報道してましたが、こういうところにも無反省ぶりがあらわれていると思うんです。

政府も、今朝の新聞の広告でも「安全」を強調してますが、この間の政府の後手後手の対応や、事故の原因もわかっていない段階で新たな「安全神話」をふりかざして、原発再稼働に突き進む姿勢を見れば、到底信用できないものがありますし、多くの国民が疑問と不安を感じるのも当然のことです。

実際、政府が「問題ない」としている「基準」には根拠がありません。
政府は、特別に管理が必要な指定廃棄物を、セシウム134とセシウム137の濃度合計で1キログラムあたり8000ベクレル以上とし、それ未満は一般廃棄物と同様に扱うとしているそうですが、この基準だと、政府の試算でも廃棄物の処理に携わる作業者に年間1ミリシーベルト近い被ばくを容認することになり、共産党は、この基準のまま広域処理を委ねることは許されないし、放射能をおびたがれきは、「封じ込め、拡散させない」との原則にのっとり、国の責任で処理すべきだと考えてます。

この間処理されたがれきは、全体の7%と言われて、全国で引き受けないとどうもならん、といった報道や政府の「説明」が目立ちますが、今朝の政府広告でも、広域処理に回そうとしている量は、岩手県で約10%、宮城県で約22%程度です。そういう事さえもあまり知らされていない現状もあります。住民合意の下での広域処理自体は必要と共産党も考えていますが、被災地での処理能力の強化や推進こそ政府が強力にすべき事だと思います。

どうも最近、問題がすり替えられているというか、がれき処理の責任が全国の自治体の責任みたいに言われ、受け入れるのが善で、慎重に対応する事が悪かのような雰囲気があり、放射能汚染を心配する人たちや受け入れに反対する人たちをバッシングする風潮を政府が先導している向きがある事は、問題の本質をあいまいにする許せない事です。

がれき処理も含めて、被災地の再建・復興がなかなか進まない責任は、政府や東電にあります。
それを棚上げして、「がれき処理を受け入れてくれないと復興が進まない」「被災地の事を考えれば受け入れは当然だ」等と、自治体に責任を転嫁するようなやり方はまさにすり替えだし、「反対する人は日本人として恥ずかしい」みたいな事は、それこそ本末転倒の議論だと思います。

私は議会でも強調しましたが、この問題はあくまで科学的に検討し、住民合意を基本に考えるべきものです。

先日、府議会で「東日本大震災で発生した災害廃棄物の広域処理に関する決議」が、共産党府議団も賛成して可決されましたが、府議団が決議への対応んついての見解を発表しています。

その中で、受け入れる上での最低限の条件を次のように明らかにしています。

①自治体で焼却されている「通常の廃棄物」と同程度の放射能の量・質レベル程度以下のものに限ること
②処理の各段階で、放射能測定の体制を万全を期すとともに、そのための体制、財源、結果公表については国の責    任で行う事
③処理の各段階の測定結果についてすべて公開すること
④住民合意が大前提であり、国や関西広域連合、京都府が、合意がないまま焼却・処理施設をもつ自治体に広域処理を押しつけないこと
⑤受け入れる自治体への国による財政措置を含む全面的支援策が必要

以上の条件を整えないままの受け入れは認められないとしています。

→「見解」の全文はこちら

 

町長は、府からまだ何も示されておらず、安全基準も示されていない中では判断するものがない事や、仮に受け入れるにしても住民合意が前提である事、また最終処分地を持たない中、最終処分をお願いしている自治体の理解も必要になる事などを答弁していましたが、これらの話は当然の事だと思います。

仮に受け入れた場合、政府のいう基準を仮にクリアしたとしても、特にお茶への影響、風評被害は当然免れない危険性があります。
政府の基準自身が信用できない事や、放射能汚染の影響は測り知れない問題であり、特に小さな子どもたちの命や健康にも関わる事にもなります。

原発事故が引き起こす「異質の危険」がまさにここにあるわけです。
「日本人としての態度」が問われているのではなく、人間としての科学的な叡智と態度こそが試される問題ではないでしょうか。

 


子育てサロン 8年目が終了

2012-03-27 09:45:53 | 子育て安心の町に

久しぶりの更新です。

この間は、南山城村で村議選挙があって、その応援にほとんどの時間を費やしてました。

私は、現職の青山まり子さんのところに行って、主にはニュースづくりをしてました。
村では、共産党議員が2人いて、青山さんと橋本さんが出ていましたが、2人とも見事に当選!

ほんと、良かったです。

 

選挙の翌日だった昨日は、3月議会の最終日で、3月議会も終わったんですが、議会の事はまたいろいろとご報告したいと思います。

今日は、22日に子育てサロンで「お別れ会」をした事を書いときたいと思います。

22日で、今年度の子育てサロンが終了しました。

子育てサロンの最終日は、恒例の「お別れ会」をします。

4月から保育園に行く子どもたちや、これまでがんばったママさんを、みんなでお祝いし送り出す企画です。

今年は、いつもより多い、12人の子どもたちとサヨナラしました。
これまでは3歳になってというケースがほとんどでしたが、最近は途中入所もふくめ、それまでに入園するケースが増えてます。
今年はそんな子どもたちが一気に増えて、一度にたくさんの子どもたちとお別れとなりました。

ママさんたちも、下の子どもさんがおられる方は残られますが、それでも7人のママさんが卒業になりました。

お別れ会は、最初に簡単なゲームをして、お別れの式をして、1年を振り返るスライドを上映して、お昼ごはんを一緒に食べて・・・と言う感じで、手作りのささやかなものです。
でも、特にお別れの式のときの、ママさんたちの「ひとこと」には、ジーンとくるものがあります。
この時のママさんのお話しで、初めて聞く事もあって、そんな事もあったんだ、そんな思いがあったんだ、と感動したり、驚いてみたり。

「サロンに参加できて、本当によかった」と言ってもらえる事に、うれしいというか、何かホッとする思いがします。

ママさんたちにとって、サロンは、おしゃべりの場です。
いろいろなママさんたちと話をする事で、ほっこりできて、安心できて、つながれて・・・

ママさんたちの言葉を聞きながら、サロンが存在する意味を再確認してました。

サロンは、子どもたちの成長を垣間見れる、、とてもまぶしい場所でもあります。

子どもたちは、広い部屋で思い切り遊べるのを楽しみにしてくれているそうですが、私もとても楽しみでした。
赤ちゃんだった子が、みるみるうちに成長して、一緒に遊べるようになっていく、遊びもどんどん広がっていく、

エネルギーと可能性の塊のような子どもたちと遊ぶのは、年とともに?「ちょっと休憩」も必要ですが、とにかく面白いです。

サロンでは、滑り台とかいちおう遊具もありますが、子どもたちが本領を発揮するのは、遊具を片づけて、何もなくなってから。
所狭しとかけまわって、手を広げて「ぶーーーん!」と飛行機になってみたり、畳に寝転がって、ゴロゴロしてみたり、ざぶとんで「ぞうきんがけ」してみたり、子どもはほんとに遊びの天才で、飛ぶ事ができるピーターパンだなあと実感します。

これから、もっと遊べて、面白くなるのになあ、と、ちょっぴりさびしい思いがしますが、保育園でもいっぱい遊んでほしいですね。

4月12日から、9年目がスタートします。

また、ぼちぼちとやっていきたいと思います。


 


でんでら竜がでてきたよ

2012-03-16 15:05:42 | こどもの本

和束図書室で見つけたもので、「でんでら竜」にひかれて借りてきました。

でんでら竜ばあ 出てくるばってん
でんでら竜ばあ 出ーてこんけん・・・・

今、何かのCMでも出てくる、おなじみ(かな?)のうたですね。

この本は、ありこちゃんという女の子が、でんでら竜の絵を、じゆうがちょうに描いた事からはじまる、

とってもかわいい、ファンタジックなお話しでした。

じゆうがちょうに描いた、でんでら竜の卵。

ありこちゃんのまくらで「温め」、でんでら竜のうたを歌っていると、

ペラペラの紙のでんでら竜が生まれちゃったんです。その名は、タブラッサと言いました。

タブラッサとは、真っ白な紙という意味だそうです。

その週間から、ありこちゃんは、お母さんになって、タブラッサを育てます。

お腹がすいたとわめくタブラッサに、紙に哺乳瓶を描いて、ミルクをあげたり、ぐちゃぐちゃに丸めた紙をおだんごにしたり、りんごにしたり、

そうこうしているうちに、タブラッサは、あっという間に大きくなって、空も飛べるようになっていきます。

ありこちゃんを背中にのせて、ビルの屋上に行ったり、大空を飛んで夜空を散歩したり、列車と競争したり、

うらやましくなるような場面が展開します。

この本の絵は、みんな版画で、とっても素朴で温かみのある雰囲気が素晴らしいです。

大きく成長した、でんでら竜は、故郷の長崎に還っていくんですが、このお話し、たった一晩の出来事なんですね。

まさに夢のような夜を、ありこちゃんは経験したんですが、

自分のところにもでんでら竜がこないかなあと思ってしまう、素敵なお話しでしたよ。

「でんでら竜がでてきたよ」は、理論社の本で、

おの りえん作  伊藤英一絵 です。

良かったら、読んでみてくださいね。


防災対策強化で一定の前進が見られた3月議会

2012-03-14 12:43:34 | 議会報告&議員活動

3月8日に、3月定例議会がはじまっています。

8日に一般質問を終え、12,13日には予算特別委員会が終了し、大きなやまは越えた感じです。

一般質問や、予算委員会での質疑で、いろいろと取り上げたのですが、その中で今日は、防災対策の強化について報告しておきたいと思います。

先日、3月11日に、東日本大震災の発生から1年を迎えましたね。
この間、テレビなどでは、震災特集って感じで、連日様々な関連番組や報道がありましたが、あらためて地震や津波の恐ろしさ、原発事故の深刻さを再認識しました。

8日の一般質問は、3・11を目前にした中での質問でしたが、被災地の1日も早い生活再建、復興を願いつつ、今回の震災を教訓に、わが町での防災対策をしっかりと強化していく事が大事との立場から質問しました。

3月議会では、防災対策については、これまでよりも一定の前進が見られました。

その1つが、食料や水、生活物資等の備蓄を、今後は避難所を単位として分散的に行っていく方向が確認できたことです。
和束町は、地形的にも道路が寸断されれば即時に孤立化しやすい地域ですし、町内8か所ある避難所を拠点にした防災機能の強化がどうしても必要です。避難所単位で備蓄場所を確保し、一定数の備蓄を行う必要性は、町の防災計画でも書いてあるんです。
ところが、震災直後の昨年6月議会での議論では、備蓄は役場に集中し、必要な場合に避難所に運ぶといった答弁がされて、分散備蓄には消極的でした。
今回の質問では、その見解をただすことが大きな目的でしたが、今回は一転?して分散備蓄に前向きな答弁がありました。

現在、町として、どれくらい備蓄があるのか、どこに備蓄されているのか、ご存知ですか?

質問に向けて、あらためて確認したのが、以下の通りです。

〇五目御飯(アルファ米)500食
〇炊き込みご飯(アルファ米)400食
〇飲料水(5年期限)2リットル×120個、500ミリリットル×480個
〇毛布300枚
〇救急箱 2セット
〇簡易トイレ 5個
〇紙おむつ 大人用 M、L各20個ずつ
〇紙おむつ ベビー用 S、M、L、新生児用 各8袋ずつ
〇生理用品 25個
〇哺乳瓶 10個
〇炭 150箱

※新型インフルエンザ対策としての備蓄(マスクや手袋など)は別にあります。

1年前と比べると、この間要望していた紙おむつや哺乳瓶などが新しく備蓄されていました。

備蓄場所は、現在は、役場倉庫と海洋センター前のコンテナ倉庫にあります。
備蓄場所も、見てきました。

↓ここは、役場1階の倉庫です。

役場倉庫の方には、主に食糧や水関係が備蓄されています。
↓これは、飲料水です。

↓これは、ご飯類です。

海洋センター前のコンテナ倉庫には、紙おむつや毛布、哺乳瓶などがあります。
↓これは、紙おむつです。

↓これは、哺乳瓶

↓これは毛布です。

↑備蓄倉庫で紙おむつをもって

こういう備蓄倉庫を、各避難所ごとには最低限、整備していく事が必要です。
まだこれからですが、町がその方向で努力する事を明確にした事は大きいと思います。

もう1つは、自家発電装置の整備です。
大きな地震等の時は、大規模で長時間の停電が予想されますが、そうなると避難所もお手上げで、何もできません。
町内で350人規模を想定している小学校も、避難所としての機能は何もないに等しいのが現状で、もちろん自家発電もできません。

避難所や公民館など公共施設に計画的に自家発電装置を整備するよう質問しましたが、町もその方向で考えているとの答弁でした。

今回、町が一定前向きな姿勢を示した大きな要因として、平成24、25年度の2年間で整備を予定している、防災無線があるのではと思っています。
防災無線の整備も以前から要望してきたんですが、今回、過疎財源を活用して整備する事になりました。
24年度は、役場や公共施設などの基地局的な設備を整備し、25年度には、各家庭に無線を受ける機器を取り付ける予定です。

屋外にたてられる放送設備は、避難所や各区の公民館などに整備される予定で、その際に、停電時も無線機が稼働するためのバックアップ電源がどうしても必要なんです。
質問の中で、その電源は、無線機だけでなく、避難所や公民館などの機能もフォローできるものとして整備してほしいとの要望をしたんですが、その方向で考えたいとの答弁がありました。

防災無線が避難所や各区の公共施設ごとに整備される事から、それを単位とした機能強化に町も目を向けてくれたのかもしれません。動機はどうあれ、昨年とは大きく姿勢が変わり、良かったと思います。

東日本大震災のような未曾有の災害を目の当たりにすると、今のままではまだまだですが、1歩1歩充実を図っていきたいと思います。

もちろん、今回は原発事故という、これまた違う意味で深刻な「人災」が起こっているので、それに対する対策というか対応も大きな課題になっています。
この事は、26日の本会議2日目でぜひ取り上げたいと思っています。

災害に強いまちづくりを進める上で、みなさんが気になっておられること、お気づきの事などありましたら、どんどん教えていただければと思います。


子どもの医療費 4月から「窓口無料」に

2012-03-06 09:31:08 | 子育て安心の町に

3月に入って、はや1週間を迎えようかとしてますが、3月は去るとか言いますが、早いですね。

3月議会が8日に開会するのを目の前に、議会準備で忙しくしてます。

3月議会は、新年度予算が審議される議会でもあり、特に重要な時期でもありますが、今日はうれしいニュースをお知らせします。

昨日、議会準備の関係で税住民課に行き、課長からいろいろとお聞きしていたんですが、その話の中で、

「4月から、子どもの医療費無料制度を現物給付でいけるようになります」

との情報をいただきました。

現物給付というのは、医療機関の窓口での負担をしなくても良いという事です。

昨年4月から、医療費無料化を願う子育て世代や住民のみなさんの声が実り、中学3年生まで無料化がスタートし、それは大きな前進でしたが、いったん窓口で負担をして、申請して、後で戻ってくるという、いわゆる償還払いだったんですね。

償還払いだと、いったんは必ず負担しなければいけないので、「それでは本当の意味で無料とはならないし、せっかくの無料化の意味が台無しになる」として、早急に現物給付、窓口負担なしにするよう要望してきました。

和束では、月200円の一部負担金も無料にしたんですが、それ自身は悪い事ではないのですが、意外とそれがネックになって、なかなか調整が難しかったようです。

でも、4月からは、引き続き一部負担金もなしのまま、窓口負担なしになり、ようやく本当の意味での無料化になります。

役場の担当課では、いろいろと努力いただいて、実現のこぎつけていただいたこと、感謝したいと思います。

実は、京都府が秋頃からをめどに、通院についても小学生まで助成を拡充する予定で、すでに独自の拡充をしている自治体にとっては、財政的にすこしは助かると言われています。
府の拡充はもちろん歓迎すべき事なんですが、助成対象が、月額3000円以上の負担分からなんですね。
役場の方の話では、月3000円以上かかるケースは意外と少ないそうで、思ったより財政的にも助からないそうです。
せめて月1000円以上とかだと値打ちがあると思うとも言われてましたが、府のやり方はどうも中途半端なんですね。
どうせやるなら、もっと思い切って支援してくれればと思いますね。

でも、府の拡充もうけて、町でももう1歩、高校生までの無料化にも足を踏み出してほしいと思います。

4月からの窓口負担なし、は大きな前進ですし、府南部でも井手、南山城と並んで、進んだ方になりました。
でも、深刻な少子化や若者の流出が続く和束のこれからを考えれば、子育て支援や定住対策のさらなる充実や創意工夫がなお強く求められています。

これに満足せず、3月議会では、さらに積極的な提案をしていきたいと思います。

いろいろな要望やアイデアがありましたら、ぜひお寄せくださいね。


新美南吉「牛をつないだ椿の木」より

2012-03-02 11:57:26 | こどもの本

新美南吉と言えば、どんな話を頭に浮かべるでしょうか?

やはり「ごん狐」でしょうか。多くの方は、というか私もそうでした。

あとは「おじいさんのランプ」や「手袋を買いに」あたりも、「そう言えば」と思いますね。

ちょっと新美南吉さんの作品が読みたくなり、図書室でお借りしたのが、

新美南吉さんのいくつかの作品をまとめた「牛をつないだ椿の木」というタイトルの本。

金の星社から出ている「日本の文学」の中の第27巻です。

この本には、「屁」「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」「川<B>」「鳥右衛門諸国をめぐる」

「天狗」「ごん狐」「手袋を買いに」「うた時計」「久助君の話」「うそ」「いぼ」13作品が収められています。

さっき紹介した「代表的」な作品以外では、どれもはじめて読んだ作品ばかりで、どれもなかなか面白いというか、いろいろと考えさせる中身を感じましたね。

その中で、いくつかについて、ちょっと感想です。

一番、印象的だったのは、冒頭に紹介されている「屁」という作品です。

春吉君という少年が主人公で、「屁の名人」とみんなから言われている石太郎君を軸にして話が展開します。

石太郎君は、学校での授業中をはじめ、いろいろな場面で屁をこいて、そのたびに、みんなが「石だ、石だ」と騒ぎ、先生も「いいかげんにしろ」などと注意している。

春吉君は、そんな石太郎君を、心のどこかで軽蔑する気持ちを持ちます。

が、ある時、お腹の調子が悪かった春吉君が授業中に、「音を立てずに」屁をしてしまいます。

屁の臭気に、クラスのみんなが「くせえ、くせえ」と騒ぎだし、先生も「誰だ」と怒鳴る。

春吉君は、いつも石太郎君がされているような「仕打ち」を受けると思い、緊張してちじこまります。

しかし、みんなは春吉君がしたとは思わずに、いつものように「石だ、石だ」と騒ぎます。

石太郎君は、濡れ衣をきせられた格好になりますが、自分ではないと言わず、いつものように笑っているだけ。

春吉君は、ホッとする気持ちもありつつ、正直に言うか言わないで「闘争」しますが、結局言えずじまいで、「気持ちに背負いきれぬほどの負担」を背負う事になり、「くやしさのあまり、泣きたいような気持ち」になってしまいます。

こんな経験、あったようななかったような、何となく、くすぐったくなる話ですね。
自分がやったのに、「自分がやりました」と正直に言えない、勇気がでない・・・そんな自分が嫌で仕方がないのに、どうしても言えない。
そんな、少年の葛藤が微笑ましくも感じるのですが、話はこれで終わりません。

春吉君は、この経験の以降、いつもの屁騒動が起こっても、それが石太郎君の仕業とは信じなくなります。
「石だ、石だ」と言いながら、本当は違う人が屁をしているのではないか、いや、そうに違いないと。

最後の方の文章を、そのまま引用してみます。

「そういうふうに、みんなの狡猾そうに見える顔をながめていると、なぜか春吉君はそれらの少年の顔が、その父親たちの狡猾な顔に見えてくる。大人たちがせちがらい世の中で、表面はすずしい顔をしながら、きたないことを平気でして生きてゆくのは、この少年たちが濡れ衣を物言わぬ石太郎に着せて知らん顔しているのと、なにか似通っている。自分もその一人だと反省して自己嫌悪の情がわく。だがそれは強くない。心のどこかで、こういう種類のことが、人の生きてゆくためには、肯定されるのだと春吉には思えるのであった」

ウ―ーン!と思わずうなってしまう最後でしたね。

人間としての正しいあり方っていうものは、学校ではもちろん口すっぱく教えられているし、人権尊重と言う名のもとに、大人の社会の中でも、言われる事です。

でも、実際は、なかなかそう簡単ではないし、そういう事の方が多いのが世の中の実情でもありますね。
それが、子どもの社会の中にも、入り込んで幅をきかせている。それに自己嫌悪を感じながらも、強くは思えず、肯定している自分がいる。それが大人になっていくという事なら、なんてせちがらいもんなんだろうとの春吉君の思いが伝わるようです。

ピーターパンの話で言えば、春吉君は「飛べなくなった」という事になるのでしょうか。

でも、そういう事を肯定する思いを認めつつ、基本的に否定的にとらえる春吉君の姿に、まだ「飛べる」子どものまっすぐさや、人間としてのあり方を大事にしたいとの願望を、強く感じましたね。

「屁」という作品だけでたくさん書いてしまいましたので、これくらいにしたいと思いますが、「花のき村と盗人たち」「鳥右衛門諸国をめぐる」「うた時計」「いぼ」なんかも、なかなか面白い作品だと思いました。

特に「いぼ」という作品も、子ども心に、ちょっとせちがらい、これも誰にも経験がありそうなお話しです。

「いなか」に住む松吉くんと杉作くんの兄弟が、「町」から遊びに来た、いとこの少年・克己くんと夏休みを過ごし、親交を温めます。町の子である、克己くんがいなかになじみ、松吉くんの「いぼ」を欲しがるほど仲良くなります。
ある時、兄弟は家のお使いで、克己くんの家に行く事になり、また克己くんと会える、遊べるとルンルン気分で出かけます。
でも、行ってみると、克己くんは兄弟に目もくれず、町の友だちと遊んでばかりで、冷淡な態度に終始します。

兄弟はすっかりショックを受けて帰路につくのですが、その途中で弟の杉作くんが口で「どかあん」と大砲の音をまねる遊びをしだし、松吉くんも一緒にやりながら帰って行きます。さびしい思いを、何とか乗り越えようと大きな声を出す兄弟の姿がとても愛おしく感じますね。

松吉くんは「きょうのように、人にすっぽかされるというような事は、これから先いくらでもあるに違いない。おれたちは、そんな悲しみになんべん会おうと、平気な顔で通り越していけばいいんだ」と考えます。

2人は「どかん、どかん」言いながら、だんだん明るい気持ちになって帰ります。

彼らは、まだ立派なピーターパンですね。