20年前の1月17日。
あの時私は、京田辺市の実家にいて、あの揺れを体験しました。
実家は団地だったのですが、ドン!という突き上げのあと、まるで箱の中で転がされるような、経験した事のない揺れでした。
幸いにも被害はなかったのですが、これはただごとではない、と感じました。
その後、じょじょに伝えられる神戸市を中心とする被災地の状況に、それは確信に。
それから1週間後に、私はたくさんの青年たちと被災地の一つ、西宮市に支援ボランティアに入りました。
20年たっても忘れない、
阪急西宮北口駅を降りたち、足を踏み入れた時の異様な雰囲気。
空にはヘリが飛び交い、あちこちで鳴り響く、救急車両のサイレンの音。
気のせいではなく、本当に景色がセピア色に見えました。
支援の受け入れ先である地元の党事務所に向かう道々で見た、倒壊した建物、道路。
これは、大変なことになってるぞ。
そんな思いも背負いながら、事務所に到着し、早速、支援物資を届けに行きました。
青年の集まりだけに、まだ運転免許を持っていない人が多かった中、またミッション車を運転できる人が少なかった中、あの時ほど、運転免許を持っていて良かったと思った事はありませんでした。
水や食料を車に積んでは、走り、届け、話をお聞きする・・・何度も何度もこの作業を繰り返し、あっという間に陽が落ち、支援の1日を終えました。
これで帰っていいのか、との思いを抱えつつ、帰宅。
帰るまでは異様なほど元気と言うか、気持ちが張っていたのが、帰った途端にどっと疲れたのを憶えてます。
震災があった、あの年の4月、
私は和束町で議会議員となりました。
私が、阪神淡路大震災から学んだ一番の教訓は、
災害という非常時であっても、
政治が歪んでいたら、ちゃんとしてなかったら、
決して助けてくれない、助かる命も助からない、せっかく助かった命も奪われかねない
そういう政治の酷さ、冷たさでした。
ボランティア元年と言われ、多くの人々が困難な中でも、人間性を発揮し、助け合い、支え合いました。
それにひきかえ、政治や行政は、情けないほど、酷く、冷たいものでした。
まだ瓦礫の下に人がいる、誰もがこれからの暮らしをどうするか、どうなるか、途方にくれている震災からまだ2週間後
当時の神戸市長は、神戸空港を予定通り建設すると宣言し、事もあろうに「復興のシンボル」などと都合よく結び付け、
どんな場合でも、大企業の儲けが優先され、住民の暮らしや命が後回しにされる
そのボタンの掛け違いが、
20年が経過した今も、被災地に、被災者に大きな苦しみを与え続けています。
だから、「命を、暮らしを守れ」の声をあげなければ、政治や行政は向き合おうとしない、
声を挙げ続け、粘り強く要求し続ける事が、命と暮らしを守る事につながる
この思いこそ、私の議員活動の原点です。
東日本大震災、そして原発事故
安倍政権の下での、暮らしと平和を破壊する数々の暴走
このような様相の下でたたかわれる4月の地方選挙では、
ますます、その思いが問われる、大事になると思っています。