syuの日記・気まま旅

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矢切りの渡し 野菊の墓  江戸川を下る 11

2016-06-02 | 気まま旅
「江戸川」この川は、高齢者がゆっくりと休める、「宿場の町造り」を考えたらどうか。私は、「江戸川」を「哲学の川」と呼んでいる。

[国分川分水路]
国分川では,台風通過の度に流域で数百ha・数千戸もの家屋が浸水し、流量自体が多いため、特に合流先の市川真間川流域では市街化の進行も著しく、
松戸市内上流部から流出した洪水が数年に一度の割合で記録的水害を起こしている。
下流市街地では河道の拡幅にも限界があり、真間川の治水事業開始前から抜本的解決を図り対策が行われ、国分川分水路・松戸市の和名ヶ谷にて
国分川本川より分派し、同市上矢切で坂川へ接続する延長3,362m・流域面積19.4㎡の分水路を。
和名ヶ谷水門から上矢切水門までの2,555mがトンネル区間になっている。昭和48年、より松戸市が主体となり都市小河川改修事業として事業が
開始され、昭和58年、までに用地取得と開削部の工事を行った。
翌年より真間川流域総合治水事業に組み入れられ、千葉県主導でトンネル工事が進められ、平成5年、トンネル部分の工事が完了。
その後は、水門や和名ヶ谷水路(国分川分水路と交差)の整備。平成6年、通水を開始し、国分川分水路工事の一環で坂川下流部1.8kmの改修工事、
坂川の江戸川合流地点にあたる柳原排水機場の改築工事が付随的に行われ、平成9年、全事業が完了した。

国分川工事事故ー1991年の平成3年、台風18号による豪雨の影響で、松戸市建設中の分水路トンネル工事に濁流が流れ込み、坑内にいた7名が水死
した。(坑内1600m離れた現場)

     水田でよく見る白鷺ーダイサギ・チュウサギ・コサギ・アマサギの4種いる。


葛飾金町ー帝釈天ー松戸ー矢切りの渡しの江戸川は、「陸橋」が込み入っている。

           東京外環自動車道ー葛西大橋ー松戸ー市川ー高谷間
    

「国道6号線」日本橋ー台東区・墨田区・葛飾区、千葉県松戸市・柏市、我孫子市、茨城県取手市・龍ケ崎市・牛久市・土浦市・石岡市・水戸市・ひたちなか市・日立市・高萩市・北茨城市、福島県いわき市・双葉郡双葉町・同郡浪江町・南相馬市・相馬市、宮城県岩沼市・名取市
指定区間ー都中央区日本橋から宮城県仙台市宮城野区日の出町まで。

「東日本・JR常磐線」
都荒川区の日暮里駅から千葉県北西部、茨城県、福島県の太平洋側を経由して宮城県岩沼市の岩沼駅までを結ぶ。
    
                                   東京スカイツリー
    

                陸橋を抜けると広場に
  

「矢切」
県松戸市にある上矢切、中矢切、下矢切の3地区の地区の全体。
3地区は、松戸町に合併する前の各村単位で、上矢切村、中矢切村、下矢切村である。

               河川敷きに「矢切苑」-休憩する
    

「水五訓の碑」-黒田官兵衛(黒田如水)の教え。
1、自ら活動して他を動かしむるは水なり。2、常に己の進路を求めて止まざるは水なり。3、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
4、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり 。5、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり。
雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり。水というものを通し、人間としての生き方を。
1- 水は自らが動くことで周りのものを動かし、運んでいる。
2-自ら考えて道を拓くことを心がけよ。責任は自ら。
3-あきらめることからは、なにも生まれない。壁によってさえぎられることも。
4-人を追いやることをせずに共に頑張る。社会にはさまざまな価値観を持つ人が、長所を。
  水を一つにまとめ、大きな目的に向かって集約してゆくような、そんな度量を持つ人間。
5-常に自然の理にそって物事を考えよ。 水は温度の変化、器の形によって次々と自らの形を変え、本質は一切変化することがない、柔軟に。
          
            「水五訓」を思い出し、きっと、あなたの道標に。


             明治・大正・昭和初期頃の矢切りの渡し


「矢切り」地名は、戦国時代に起きた「第二次国府台合戦」にて、里見方が矢が切れ負けたことから
「やきれ」→「やきり」→「やぎり」となった説と、矢の飛び交うことことを嫌い、矢を切る。(矢はもういらない)という説もある。
(本土寺の過去帳に「妙心尼 文安四(1447年)丁卯三月ヤキレ」の記述ある。又、矢切神社の石塔に、元文五年(1740年)下矢喰村の記述がある)
                   ここ「一里塚」からー民営渡し舟・「矢切の渡し」があるー運行は、確認。

                「野菊の墓」文学碑へ。
    

日本音風景百選石(穴から風の音が)       野菊の墓記念碑
    

               両側一面どかな「畑ー野菊の小路」


     矢切り橋                     坂川
    

                 矢切り苑から徒歩20分位
    

「西蓮寺・野菊の墓の碑」
「矢切の渡し」、江戸時代の初期にすでに、農民渡船として使われていた。
江戸川から、台地上の「西蓮寺」には、伊藤左千夫の小説、「野菊の墓」を記念する文学碑が建てられている。
この地は、かつて、「北条氏・里見氏ー国府台合戦」主戦場。両軍合わせて一万余の戦死者がでた激戦地であった。

                真言宗豊山派の寺「西蓮寺」
    

「1564年-、北条氏康と里見義弘軍・の戦い」
北条軍は、江戸川柴又、小岩側に江戸城代家老遠山丹波守直景と葛西の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣させ、
高城胤辰軍も北条方に加勢し、下矢切大堀(矢切神社付近)に布陣。
里見軍は、八千余の軍兵が矢切側の台地上に布陣し、遠山、富永等は、大将北条氏康の到着を待たず里見軍へ攻め寄せ、両軍は今の矢切の渡しから
西連寺付近で激突しますが、北条方が敗退し遠山、富永は討死する。
しかし、北条軍は二手に分かれて、得意の夜襲をかけ、油断している国府台本陣の里見軍を急襲し、北条軍が勝利をおさめる。
この合戦で両軍合わせて一万余の戦死者がでたと云う。「第二次合戦」

寺の坂道を、大坂と呼ばれ、遠山丹波守直景・富永三郎右衛門尉が討ち死にした激戦地と伝えられている。
                      高台の野菊苑
  

国府台合戦で激しい戦いで、地元民も人足に狩り出され、塗炭の苦しみの中で、弓矢を呪うあまりに「矢切り・矢切れ・矢喰い」の名が生まれたと云う。
住民の平和を願う塚
                「矢喰村庚申塚」塚の裏が矢切神社
  

「北総・公団線」-京成グループ企業ー

        千葉ニュウ―タウンー白井ー鎌ヶ谷ー東松戸ー「矢切」ー柴又ー京成青砥へ
    

千葉県山武市で掲載。
「伊東左千夫」ー歌人・小説家 (1864 - 1913)
千葉県成東町殿台に生まれ、 年少の師「正岡子規」に傾倒し、長塚節とともに、島木赤彦、斎藤茂吉ら次の世代に師。
「野菊の墓」「分家」等の小説の名作もある。
万葉的な熱い情けに富んだ一世の詩家として懐かしまれる。

伊東左千夫「野菊の墓」
・・・15の政夫と17の従姉民子。政夫の母親の体調がよくないので、民子は看護や仕事の手伝いで斉藤家にやってくる。
小さい頃から仲がよかった2人は、次第に男女の恋愛感情を抱くようになる。
しかし、兄嫁や作女のお増はそれが気に入らずに、母親に告げ口などをする。
母親は2人に、もう子どもではないのだから、あまりべたべたしてはいけない、という内容の説教をする。
それに民子は2歳上の女。世間体的にもふたりが結ばれるなどとは考えられない。その説教以来、民子は政夫のもとへあまり近づかなくなってしまった。それが原因なのか、政夫は民子を女性として感じるようになる。
ある日、2人は少し遠い斉藤家の畑まで、収穫にいくようにと、母親に頼まれる。
久しぶりに2人で語らえるので、お弁当を持って楽しみにでかける。
道々、野菊が生えている。
ふたりとも野菊が好きだ。
そして、民子は野菊に似ている、と政夫は言う。このニュアンスを2人は意識し、会話は少なくなる。
想いは通じていた。
世間体の悪さから(明治時代なので)、政夫は早めに中学校(いまの高校か)に進学させられる。
下宿なので、民子と離れなければならない。政夫は、お見送りにきた民子に想いを込めた手紙を渡す・・・・。

     伊藤左千夫の代表作「野菊の墓」像(伊藤左千夫記念公園内に)
  

・・・・ある日、政夫のもとに電報が届く。
急いで家に帰ったところ、民子が死んだことを告げられる。
母親は無理に嫁にやったことを後悔しており、取り乱している。
民子の気持ちが本心ではないので、半年ほどで離縁され、その後、民子は病気になり死んでしまったのだ。
死後、民子が手に持ち、胸に押し寄せていたのもは、政夫の写真と手紙だった。ここにきて、政夫と民子の強い気持ちを知り、皆、すすり泣く。
政夫は民子の墓に参る。
周りには野菊がたくさん生えている。政夫は7日間通いつめ、民子の墓の周囲一面に野菊を植えた・・・・・。

       左千夫記念公園ー先に、生家・歴史民俗資料館が
    

左千夫は、(上総国武射郡殿台村・現在の千葉県山武市)の農家出身。
明治法律学校(現・明治大学)中退し、明治31年、新聞「日本」に「非新自讃歌論」を発表。
歌よみに与ふる書・に感化され、正岡子規に師事。
子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木・アララギ」の中心となって、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成したと云う。
1905年の明治38年、には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を「ホトトギス」に発表。
夏目漱石に評価される。代表作に「隣の嫁・春の潮」などを次々に。
東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。
常音の兄である真宗大谷派僧侶の「近角常観」とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌「求道」(求道発行所)に短歌を寄稿する。
1913年の大正2年、に脳溢血のため死去。
                公園内には、記念碑が多数ある。
    

左千夫の菩提寺は、東京普門院、
真言宗智山派の寺院。山号は福聚山という。亀戸七福神・毘沙門天を祭っている。
寺は、以前掲載し、普門院は、1522年に武蔵国豊島郡石浜(現在の荒川区)に創建された古刹
元和年間(1615年~1624年頃)に現在の土地に移った寺。
歌の世界に生き甲斐を見出した時は、37歳、それから50歳で没する13年間に「馬酔木」を経て「アララギ」を創始し、門下からは島木赤彦、斉藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などの大歌人が出ている。短歌と小説、随筆、写生文などの幅広く才能を発揮した。

          明治22年墨田区江東橋(錦糸町駅に近い)で乳牛改良社を開業している。
    

茶の湯・左千夫は、茶道にも通じており、正岡子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けたと云う。
一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。(現在では生家に移築)
左千夫はもともと旧派の和歌を詠んで、号は「春園」。
正岡子規より年長だが、子規に議論を吹っ掛けにいって、逆に論破され、門下に連なったとも云う。
子規の死後、機関誌をもたない「根岸短歌会」のために「馬酔木・あしび」を創刊するも、雑誌は売れず廃刊。
三井甲之の「アカネ」がこれを引き継いだが、同人の間に不満続出。紆余曲折を経て、「アララギ・当初は漢字書き」を創刊。
雑誌の経営難・資金難、さらに自宅が洪水の被害を受けるなどの困難がふりかかる。
「アララギ」が安定したあとも、島木赤彦の作品をめぐって、斎藤茂吉と誌上で激論を交わした。
それでいて斎藤茂吉の異色な作品をかばったとある。
島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明などの個性の違う弟子たちや、長塚節・岡麓らの子規門下をまとめ、いわば「根岸短歌会」の「重石」だった。
岡井隆のいう「大同団結」の気風をアララギの中に育んだのは、伊藤左千夫の功績。
生前、自身の歌集を出版することはなく、小説の執筆に傾倒したこともあり、「野菊の墓」などの作品が。



「作田川」ー2級水系(高倉川と合流する)20.7km・河口ー九十九里海岸。
千葉県山武市北西の大木地区付近に源を発する。
JR総武本線とほぼ平行に流れ、同市雨坪付近で源川を合わせる。
日向橋以降は河川改修により拡幅されており、同市椎崎付近では旧河道が残る。
八反目橋で狭まり、成東堰にて両総用水を分ける。程なくして山武市街に達し、成東・東金食虫植物群落のすぐ北側を流れる。
河川幅が徐々に広がり、東金市に入ると武射田堰を越え、山武市との境界付近で境川を合わせる。
両市の境界を流れ、白幡ニュータウンを越えると九十九里町に入る。
鶴巻堰手前で真亀川より分流してきた高倉川を合わせ、更に河川幅は広がる。
九十九里橋を過ぎると、片貝漁港より太平洋へ注ぐ。周囲は九十九里浜で、作田川を境として東に作田海水浴場、西に片貝海水浴場が広がる。
流路延長20.7kmのうち、源川合流地点より下流18.218kmが二級河川に指定。
明治・大正時代までは支流の境川の名称が使われていたが、近年になって「作田川」に改められた。

大橋に、童べの時 覚えねど 岡負へる日南成東は 春によろしもー左千夫

           左千夫も子供時代は、この川で遊んだであろう
    


次回は、市川方面へ。