「鎌倉古道・鎌倉街道」
古くは鎌倉道と呼ばれ、鎌倉街道は中世の頃、 東国の武士達が彼らの居館と当時の都、鎌倉との往還に踏み固めた道筋
1192年、源頼朝は始めて武家政権を樹立し、鎌倉に幕府を開 いた「鎌倉幕府」。
東国の武士達は早くから頼朝を武門の棟梁と して臣従し政権樹立に大きな役割を果たした。
鎌倉街道はこうした東国の御家 人達が一朝ことあれば「いざ鎌倉」と馳せ参じる道筋。
鎌倉街道の主 要な道筋は上ノ道、中ノ道、下ノ道の3本であったが、その他にも多数の枝道、 間道があった。
鎌倉幕府崩壊後も、建武中興、南北朝時代、室町時代、戦国時 代と、時代は移ろっても鎌倉は中世における東国の都として生き続け、
鎌倉街 道も幾多の歴史を刻んだが、徳川家康が江戸に入府すると、鎌倉の歴史的 使命は終わりを告げている。
鎌倉街道山ノ道は、秩父から青梅、五日市、高尾等、山辺を縫う様に走る道筋で、 上ノ道の裏街道の役割を担った。
別名「幻の道」とも「夢の道」とも呼ばれ、 武蔵武士の鑑と言われた鎌倉武将「畠山重忠」にゆかりの深い道筋でもある。
鎌倉古道の丘陵 越えには2つのルートがある。
一つは梅ケ谷峠を経由する車道、いま一つは馬引沢峠を経由する山道。
畠山重忠が歩 いたのは古い鎌倉古道の馬引沢峠道、一方梅ケ谷峠道は、戦国時代に大軍を動 かす軍道として開かれたと云う。
馬引沢峠道は、今でも、薄暗く寂しい峠道と云う。
JR青梅線日向和田駅(無人)
「神代橋」
吉野地区 位置/65k100m(河口から)・建設は、昭和44年・構造ーアーチ橋・長さ 132.4m・道幅と車道6.2m 歩道2.7m×2
高さは、21m(水面まで)
石碑ー「ふるさとに 澄める空あり 雁渡る 康弘」と彫られていた。
元首相・中曽根 康弘氏の句
即清寺の東を流れる沢を明王沢といい、あるとき本尊の首が落ちていたのでこの名がついたと云う。
沢にかかる橋を「明王橋」
山門下の吉野街道は、大門坂と呼ばれていた。
「鎌倉街道・馬引沢峠・二つ塚」
悲しい物語が、-何百年もの大昔、峠の麓に貧しい母と娘が住んでいました。
不幸にして、不治の病にかかった母親は、山に生きたまま埋められることを願い、親思いの娘も、一緒に葬られることを涙ながらに願って、
この地に埋められました。
それ依頼ここを、「二つ塚」と呼ばれ、薄幸の親子をしのんで、心ある村人が、掃除や土盛りをして、今も供養していると云う。
「都道」 ー青梅街道(西東京市東伏見4丁目~東大和市中央2丁目)・ 府中街道(稲城市大丸~東村山市久米川町5丁目) 立川通り(立川市錦町6丁目
~小平市小川町1丁目) ・吉野街道(青梅市友田町2丁目~青梅市畑中1丁目)・ 滝山街道(あきる野市牛沼~青梅市友田町2丁目)
新滝山街道(八王子市戸吹町~あきる野市牛沼)・ 高尾街道(八王子市東浅川町~八王子市戸吹町)・ 町田街道(八王子市東浅川町~町田市鶴間)
多摩ニュータウン通り(町田市小山町~多摩市乞田)・鎌倉街道(府中市本町1丁目~町田市森野5丁目・・奥多摩・・)。
「吉野街道」
起点は、都羽村市(新奥多摩街道交点)~終点が、都西多摩郡奥多摩町(古里交差点=青梅街道交点)間を云う。
(終点付近より多摩川南岸道路が建設され、将来的に国道411号現道を経由しないでも奥多摩湖に向かうことができると云う)
「下山八幡神社」
日向和田駅の西、吉野梅郷の中、吉野街道から西に入ったところにある。
長久2年の1041年、創建と伝えられる古社で、梅郷の鎮守として崇敬されてきたと云う。
拝殿の後ろにある本殿は三間社流造りの形式で、この形式のものは、都内では数少なく、青梅市の有形文化財に指定。
社宝として弘安4年の1281年、銘がある木彫神鳩のほか、神鏡や石剣などを保存。
社殿は端正なたたずまいを見せ、凛とした雰囲気を漂わせている。現在造成中
毎年10月半ばに行われる秋季例大祭には梅郷の下郷、中郷、上郷の各囃子連が囃子を奉納される。
「曹洞宗ー天沢院」
丘に登ると目の前に、「梅の公園」が一望できます寺。
天沢院は慶長8年の1603年、の開創と伝え、本尊は釈迦如来です。
境内には、石仏・梅をはじめ、サンシュユや季節の草花が植えられている。
「梅の公園・吉野梅郷」
梅の名所として吉野梅郷を訪れた人は必ず立ち寄る 「吉野梅郷のシンボル」そして「観光の中心スポット」になっていました。
しかし、平成21年に吉野梅郷地区でウメ輪紋ウィルス(PPV)が発見されて以来、多くの梅樹が伐採されてきました。
感染拡大の防除と梅の里の早期復興のため、平成26年5月には全ての梅樹が伐採されました。
現在、園内には菜の花や福寿草、日本スイセン、ツツジ等が植栽されていると云う。
公園入り口に、僅かの蝋梅が迎えてくれた。
多摩川を下ります。