syuの日記・気まま旅

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日野宿 多摩川散歩(27)

2016-02-27 | 気まま旅
甲州街道は、当初、府中分倍河原から多摩川の低地を通り、多摩川を「万願寺」で渡っていた。しかし、多摩川の氾濫で街道が分断されたことにより、
街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移 され、それと共に、1684年、それまでも多摩川の対岸、柴崎村(現立川市)への農耕作業などで使われていた
「日野の渡し」が甲州街道の正式な渡しとして決められ、以後、大正15年、まで240年あまり、使われ続けている。
渡しは有料で、人と馬の料金がそれぞれ定められ、僧侶、武士、そして宿の人々は無料で利用。
その経営と管理は、「日野宿」が行い、渡船料は宿場の収入源に。
渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われ、江戸時代後期、1824年からは通年船による渡しに。
船に使った船は歩行船(長さ6.4m、幅1.2m)1艘、馬船(長さ11.8m、幅2.7m)2艘。
1744〜48年頃、一人3文から4文、1824年、10文、1834年、には13文、慶応4年の1868年には30文となっていた。
これは平水時の渡し賃で、増水時には割り増し料金、 江戸時代が終わり明治になると、渡しはの経営は宿場から町へ移され、
毎年入札により決められた請負人が渡し船を運行し、定められた一定額を町に納入する方法になった。
明治22年、甲武鉄道(現JR中央線)が開通すると渡しの通行量が減少し、大正時代に入り自動車が輸入され、通行するようになると橋がないことが
問題になり、「馬船2艘並べ、その上に横に長い板を敷き並べ、その上に自動車を乗せて対岸へ運んだ」と伝えられるような不便が生じてきた。
大正15年、日野橋とその取り付け道路が完成し、日野の渡しは長い歴史を閉じている。
谷保方面から現在の日野橋交差点付近まで河岸段丘上を来た甲州街道は、根川と多摩川の氾濫減を一旦避けるために、崖線をなぞり弧を描くようにして、日野の渡しへ向い、柴崎体育館東側にこの旧甲州街道が残っており、その正面に富士山を見ながら渡し場へ向うこととなります。
多摩川の流れ、丘陵から連なる山々、そして、その後に富士山で絶景であったと云う。

                  JR日野駅
    

「日野宿」
甲州街道の5番目の宿場町。
宿場町として整備されたのは1605年、八王子宿を整備した「大久保長安」の手によって開かれている。
甲州街道は幾度か経路の変遷があるが、1685年以降、日野橋の開通までは、日野の渡しで多摩川を越え、都道149号立川日野線を南下し、新奥多摩街道入口信号で右折して都道256号八王子国立線を西進、日野駅前東交差点北側左折して日野自動車手前で現甲州街道に合流する道筋。
本陣跡には本陣としては、都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。
長屋門を改装して佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いた所で、この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。
近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。
この向かいに問屋場と高札場があったが、現在は石碑が建つのみ。前後の宿場は、府中宿・ 「日野宿」・ 八王子宿となる。
明治22年、町村制が施行された時点では、日野宿という名称のまま神奈川県南多摩郡の自治体となったが、東京府への移管後に日野町へ改称されている。

    奈良時代ー烽火台「飛日野」・武蔵七党の日奉氏「日野宮権現」でー日野


「JR日野駅」
1890年の明治23年、 地元有志の寄付により甲武鉄道の駅として開業され、旅客および貨物の取り扱いを開始。
駅北50mほどのところに用水路を跨ぐ小さな跨線橋が、赤レンガを積んだ風情のあるものだが、これは甲武鉄道開業当時(1889年)からのもの。
ここで使われているレンガは日野煉瓦(現在は廃業)製のもので、多摩川橋梁の橋脚にも同社製のレンガが用いられており、現在も上り線の立川寄りの橋脚に見ることができる。
明治42年、 線路名称制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属に、昭和12年、 複線化に伴い300mほど北、現在地に移転。
民芸調の入母屋造りの駅舎が建設されたが、これはこの地が「多摩の米蔵」と称された日野でも「八丁田圃」と呼ばれる稲作地帯だったことによる。
その田園風景との調和を考えたデザインとなっていると云う。
昭和24年、 日本国有鉄道発足され、昭和34年に 貨物の取り扱いを廃止。平成22年、 開業120周年記念として記念セレモニー・記念入場券発売。

                 新撰組「土方歳三」出身地。


「平山 季重」
平安時代末期から鎌倉時代初期の武蔵七党の一つ西党(日奉氏)の武将。
平山直季の子。多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山)を領し、院武者所に伺候したため平山武者所と呼ばれた。
武蔵国平山(平山城址公園駅付近)で生まれ、1156年、の「保元の乱」で「源義朝」に従い、1159年、の「平治の乱」では義朝の長男源義平に従い
待賢門での戦闘で平重盛の軍勢500騎に17騎で戦いを挑んでいる。
義朝の敗死後は平家に従い、在地領主として平穏な日々を過ごし、1180年、に伊豆国に流罪となっていた義朝の遺児源頼朝が挙兵するとそれに従い、
その弟源義経に従って富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍している。
特に佐竹氏征伐の金砂城の戦いでは同僚の熊谷直実とともに抜群の戦功を挙げている。
1184年、季重は源義経率いる木曾義仲追討軍に従い上洛。「宇治川の戦い」で根井行親、楯親忠を撃破して京都へと入った。
「一ノ谷の戦い」では「源義経」に従って、奇襲部隊に参加。同僚の「熊谷直実」とともに「一ノ谷の平家軍」に突入して、勝利のきっかけを作った。
1185年、の「屋島の戦い、壇ノ浦の戦い」でも常に先陣を切って、勇猛果敢に戦った。
戦後、後白河法皇によって右衛門尉に任ぜられたが無断での任官であったため、これが源頼朝の怒りを買った。
「吾妻鏡」に他の無断任官者と共に「平山季重、顔はふわふわとして、とんでもない任官である」と頼朝に罵られた記述が残っている。
この頃に、筑前国三笠郡原田荘の地頭職を得ている。1189年、には「奥州合戦」に息子の「平山小太郎重村」と参戦。そこでも戦功を挙げ、
鎌倉幕府の元老として取り立てられた。
建久3年の1192年、の「源実朝」誕生の際、鳴弦の大役を務めている。

    

「根川」
市内を流れる準用河川ー流域全体が程久保川のような三面護岸構造、日野用水や上田用水が流入する。
ただし、これらの水路には生活廃水が流れ込んでいる為に水の清浄度は低めであり、下流では泥臭がする事もあると云う。
今は、全流域にフェンスが張ってある為、本河川へ立ち入ることはできない。水鳥が水底に足をつけて休んでいるのを見かけることもあると云う。

    

「土方歳三」 1835-69 北の果てに散った新撰組副長
多摩郡石田村、農家出身ー天然理心流剣術を学ぶ。道場主「近藤勇」らと「新撰組」結成。
鳥羽・伏見・宇都宮・会津・転戦後北海道箱館(函館)・箱館戦争で旧幕軍陸軍奉行並を務めた。

         菩提寺ー高幡不動尊末寺「地蔵院石田寺」


「八坂神社」
伝説ー多摩川の淵から拾い上げられた「牛頭天王像」を勧請し祠を建てたのが神社の始まりと云う。
1398年、普門寺が開基され、牛頭天王社を管理し、600年以上の歴史を持つ神社で、1570年、、普門寺の移転。
神社は、現在地に遷座。 本殿は、1800年、建造・彫刻が組み込まれた江戸後期を代表する神社建築。(市指定重要文化財指定)
明治維新政府の神仏分離によって別当であった普門寺から切り離され、神道で祇園の神といえば素盞嗚尊、八坂神社に改名。
「祇園社」の篇額が掲げられていましたから、「八坂」と称されたと云う。
佐藤彦五郎氏が万延元年の1860年、奉納した「祇園社」の篇額が残されている。

          天然理心奉納(額)、新撰組の剣術流派
    

「日野宿本陣」
本陣跡には本陣としては、都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。
この辺りに、長屋門を改装して「佐藤彦五郎」が「天然理心流」の道場を開いた。
この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。
近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。

          向かいに問屋場と高札場があった。
    

「甲州街道」・(江戸:日本橋) - 内藤新宿 - 下高井戸 - 上高井戸 - 国領 - 下布田 - 上布田 - 下石原 - 上石原 - 府中 -「日野」 - 八王子 -
駒木野 - 小仏 - 小原 - 与瀬 - 吉野 - 関野 - 上野原 - 鶴川 - 野田尻 - 犬目 - 下鳥沢 - 上鳥沢 - 猿橋 - 駒橋 - 大月 - 下花咲 - 上花咲 - 下初狩 - 中初狩 - 白野 - 阿弥陀海道 - 黒野田 - 駒飼 - 鶴瀬 - 勝沼 - 栗原 - 石和 - 甲府 - 韮崎 - 台ヶ原 - 教来石 - 蔦木 - 金沢 - 上諏訪 -
下諏訪(五街道ー東海道・ 日光街道・ 奥州街道・ 中山道)

                日本橋から11番目「日野宿場」
    

日野宿本陣は、1849年、大火によって古くからの主屋は消失。
現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が10年に及ぶ歳月を費やして準備を進め、1863年、に上棟し、翌年、住み始めた建物。
木造り平屋建、切妻造瓦葺屋根、式台附の建物で当初の建坪は約100坪です。
日野宿本陣には、佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」があり、後の新選組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司、
井上源三郎たちが激しい稽古に励んだ道場が。(長屋門は、大正15年の大火で類焼、現在は無い)

                   入館有料
    

「大田 南畝」 1749ー1823ー天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。
勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。
膨大な量の随筆を残す。狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。
南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称され、名は覃。字は子耕、南畝は、号。
通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。
山手馬鹿人も南畝の別名とする説がある。
狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称したと云う。



「問屋場・高札場跡」
江戸時代の宿による荷物の輸送は、前の宿から送られた荷物を自分の宿の人馬に載せ替えて次の送る「継ぎ送り」が原則。
このような宿の事務を行う役所がー問屋場ー

高札場は、幕府からの通達などを提示する施設で、問屋場の前にあったと云う。

               問屋場・高札場跡の碑がある。
    

「日野図書館」
             新撰組・宿関係資料、本などがある。 
    

「三鷲山・大昌寺」
創建は、慶弔12年の1607年、「讃誉牛秀上人」により建立。
寺の檀家に佐藤家があるが、当時この地域の名士であった佐藤家に土方歳三の実姉が嫁いでいる。
佐藤家は実家の前に佐藤道場を構え、自ら師範代として剣術の指導にあたり、近藤勇、沖田総司ら天然理心流の兄弟弟子を集め剣術の腕を磨いた。
土方歳三もまたここで後の新選組の面々と剣術の腕を磨いたという。
佐藤氏は土地の名士という身分から新鮮組には入らなかったが、資金面での援助で陰から支えた一人だったと記録されている。

               浄土宗ー1594年讃誉上人が創建
    

樹齢何百年という大木は繁り、いまなお静寂に包まれ、大きな山門をくぐると、正面に生まれ変わった本堂が悠然と構え、
右手には高さ7mの鐘桜堂が建つ。
参道には六地蔵がある。
寺宝ー「説法色葉集」があるが、これは開山の牛秀上人の直筆といわれている。(全10巻の古書は都文化財指定)

           名主日野宿問屋佐藤家(新撰組を支援)菩提寺
    

           「時の鐘」として日野宿その周辺に告げていた。
    

「宝泉寺」-臨済宗の寺・1329年頃の創建ー

         新撰組六番隊隊長・井上源三郎・八王子千人同心井上松五郎の墓がある。
    

           堂内には、「馬頭観音立像・持ち上げ観音」が
    

「新撰組」
文久2年の1862年江戸幕府は、
庄内藩郷士・清河八郎の建策を受け入れ、将軍「徳川家茂」の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。
集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。
浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。
京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。
浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。
これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。
鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。
これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退。
殿内・家里は排斥され、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。
一方、江戸に戻ったメンバーはー新徴組を結成した。

    

次回は、京王百花園方面へ。