syuの日記・気まま旅

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代々木~青山 国立競技場 乃木神社

2013-07-13 | 気まま旅

明治公園は、新宿区霞ヶ丘町・渋谷区千駄ヶ谷にある都立公園。明治神宮外苑に隣接、同神宮の管轄ではない。
国立競技場が東京オリンピックのメーン会場に決まった際に整備され、1964年に開園したしている。
公園用地は外苑西通りを挟んで東西に分かれる。西の渋谷区側には東京体育館、陸上競技場などがあり、東の新宿区側は霞岳広場がある。
明治神宮野球場(神宮球場)、国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)、日本青年館、秩父宮ラグビー場、聖徳記念絵画館、神宮外苑、東京体育館、新宿御苑などがある。
国立競技場に隣接するため、同競技場で多数の観客が訪れる試合が開催される場合は霞丘広場などが観客の待機場所として利用される。

「都庁前~新宿駅」の次が「代々木駅」下車。


代々木の、この二寺は、以前訪ねている。

御府88ヶ所、第10番 観谷山 「聖輪寺」は、本尊  如意輪観世音菩薩、創建 726年、開基 行基菩薩、 真言宗豊山派の寺。
所在地 東京都渋谷区千駄ヶ谷一丁目13-11 (地図表示:マピオン)
御詠歌 欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障りとぞなる
メモ 寺伝によれば行基菩薩の開創とされ、本尊の如意輪観音も行基菩薩の作と伝えられる。御府内八十八ヶ所の中でもっとも古い由緒を伝える札所である。ただし、本堂は現代風の建築である。

境内に、庚申塔 身守不動尊

「聖輪寺」は、二度目                     開祖行基の古寺
    

行基は、3尺5寸の如意輪観音像を彫刻し、それが本尊、1469年頃渋谷氏一門は、黄金長者と呼ばれ(青山長者丸は、跡地になる)
1573頃、国中疱瘡が流行し、その本尊を川へ運び童達が水遊びしたところ、里人は、疱瘡から免れたとある。
1598年頃盗賊が双眼を黄金と思い、くり抜いたが、自刃で身を刺して自殺したと云う。それ以来、観音を「目玉の観音・千駄ヶ谷観音」
と云う言い伝えが。

狭い境内に                    貴重な石像等が
    

法雲山「仙寿院」日蓮宗寺院、は、1644年 紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方(法名養珠院妙紹日心大姉)の発願により里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山として創建したといわれ、本尊 阿弥陀如来。
江戸期は、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里とも呼ばれていた。
お萬の方は、徳川家康の側室で紀伊徳川家の祖、頼宣水戸徳川家の祖、頼房の生母でもあり、また法華経の信仰篤く日蓮宗門の大外護者として知られている。
開山里見日遥(一源院日遥上人)は、後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺。

法雲山・仙寿院」            日蓮宗の寺でここも二度目
  

江戸期において隆盛を誇った当山も明治維新の変革によって衰微し、火災によって全山焼失、その後、里見日玞により復興されるも、
昭和20年戦災で再び全山焼失し、昭和39年東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、
昭和40年には本堂・書院を再建、昭和59年には書院・客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に。(境内掲示より)

本堂                           境内の石仏など
    

「国立競技場」駅


国立競技場は、1964年の東京オリンピックの競技会場として建設された。
現在でも各国立競技場にはオリンピックマークと"Tokyo 1964" を合わせたエンブレムが残っており、東京オリンピックの会場であったことを偲ばせている。
国立競技場の競技は、 メインスタジアム(国立霞ヶ丘陸上競技場)、陸上、サッカー(決勝戦、3位決定戦)、馬術(大賞典障害飛越)
秩父宮ラグビー場-サッカー場、開催時は、人混みであるが競技の無い時は静かな公園。

第一体育館-水泳・ 第二体育館-バスケットボール・西が丘会場(国立西が丘競技場)-サッカー場にも近い。

                    国立競技場正面                  246・319号交差点
    

「青山一丁目駅」は、港区になる。東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅。

東京メトロの銀座線と半蔵門線、都営地下鉄の大江戸線が乗り入れており、接続駅となっている。
各路線とも駅番号が付与されており、銀座線がG 04、半蔵門線がZ 03、大江戸線がE 24。

「青山一丁目」駅に


「赤坂消防署発祥の地記念碑」、区南青山に建つ石碑。碑は火消しの纏の形をしている。
赤坂の消防暑は、 1894年 消防規則公布により設置、 1899年に消火栓を設置された。 1948年に、自治体消防制度発足している。

「青山通り」は、江戸時代、「厚木街道」と呼ばれていた。
五街道に次ぐ主要な街道と1つで、明治時代に入ると、急速な交通機関の発達により大規模な道路改正計画が公示されるも、日清戦争の影響で計画は頓挫し、1904年には市電が青山通りの三宅坂から青山四丁目(現在の外苑前付近)まで開通、明治末には内堀通りから渋谷までが路面電車で結ばれている。
大東亜戦争末期の昭和20年5月、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)により、赤坂地区(赤坂・青山)は激しく被災、
被害率は98.3%にも達する焼け野原となった。

                     新宿ー青山ー六本木 青山通り
    

「乃木邸跡・神社」は、再掲載。

乃木は、日露戦争における自責の念で、日露戦争において多くの兵を失ったことに自責の念を感じていた。
時間があれば戦死者の遺族を訪問し、「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べた。
東郷平八郎や上村彦之丞とともに長野における戦役講演に招かれた際、勧められても登壇せず、その場に立ったまま、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります」と言って落涙し、それ以上何も言えなくなってしまったという。

外玄関                邸宅                               子供と乃木大将
    

全国「乃木神社」は、相次ぎ建立され、乃木神社建立、乃木邸の保存、新坂の乃木坂への改称等を希望するとの意見が示され現在に、その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された。

馬小屋、白馬もここに                        庭園から乃木神社へ
    

乃木は、楠木正成を深く崇敬し、尽忠報国は正成を見習ったものという。
乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたもの。
楠木正成について次のような歌を詠んでいる。

           いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき

           根も幹ものこらず朽果てし楠の薫りの高くもあるかな

神社前を乃木坂と云う。
 
                              拝殿                    乃木坂
    


次回は、六本木方面。