syuの日記・気まま旅

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門前仲町駅 富岡八幡宮

2013-07-25 | 気まま旅
大江戸線に戻りました。

「門前仲町」は、江東区の西部、首都高速9号線、江戸の名残をとどめており、「門仲」で通る町、1653年永代寺門前町屋を開き、
永代寺門前中町と称したなが町名の起源。永代通りに地下鉄東西線、清澄通りに大江戸線が交差、門仲は、8月の富岡八幡の千貫神輿・
10月の深川力持・大横川ほとりの黒船橋公園のきばの角乗りが有名。

大江戸線は、隅田川に沿って江東区・墨田区・台東区へと


「深川公園」は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つ。 富岡八幡宮の境内で遊行の地として昔から大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかり、西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘があり、1879年には梅、桜を植え花園として整備し江戸の人気スポット。
1907年に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、1909年に深川図書館が建てられましたが、1923年の関東大震災で焼失。
震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場に。

下の漆喰画は、1815年 伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし1889年深川で没した「漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作されたという。

今は、ホームレスの公園に。


「成田山 東京別院 深川不動堂」は、江東区富岡にある真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院。通称は、深川不動尊、深川不動堂。
江戸時代、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まった。
元禄16年 1703年、1回目の成田不動の「出開帳」秘仏特別公開。が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。
これが深川不動堂の始まり、江戸における成田不動の出開帳は、1856年まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となったという。

永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となった。
しかし不動尊信仰は止むことがなく、1878年に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められ、境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められた。
1881年に本堂が完成。その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失、本尊は焼失を免れた。
永代寺は門前にあった塔頭・吉祥院が明治29年に再興され、名跡を継いだ。

地元では、「不動さん」で親しまれている
    

現在は丈八の「おねがい不動尊」が安置、 旧本堂の西側にある外壁に梵字(不動明王真言)を散りばめてある建物は、開創310年を期に平成23年に完成。
本尊不動明王像及び脇侍の二童子像、四大明王像を遷座し、護摩供養は新本堂で行われている。
不動明王二童子像・四大明王像(五大明王から不動尊を除く)は、区指定文化財。
内仏殿、開創300年を期に、2000年に完成、澤田政廣作の不動明王立像などの仏像、四国八十八箇所の巡拝所、大日如来を安置する宝蔵大日堂天井画は、中島千波の作。 深川開運出世稲荷、成田山出世稲荷を勧請したもの。(深川龍神)

人情深川ご利益通り、門前の参道は通称“人情深川ご利益通り”といい、毎月1・15・28日に縁日が開かれて賑わう。

朝からお線香が、ご利益通りのお店のシャターの音、通勤者も参拝して。
  

関東36不動20番、お札と大草履が本堂両脇に
    

「富岡八幡宮」は、1624年、長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓し、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされるが、横浜市の
富岡八幡宮の八幡宮明細帳(1893年)では、江戸時代初期に行なわれた深川 (江東区)の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ
富岡八幡宮を分霊したとの記録が残る。
創建当時は「永代八幡」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があったと云う。
八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれ、広く美麗な庭園は人気の名所であったという。
長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺も建立していると云う。

門前町として形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても発展、重要視されきた。

3か月に一回は、お詣りする「富岡八幡宮」
    

歌川広重は、「深川八幡山開き」、春に半月の間「山開き」として庭園を一般公開したという。
現在の数矢小学校西門へ至る路地の右手にあたりに、「御富士山」として戦後も存在していたと云う。

伊能忠敬(日本地図)は、ここからスタート、     拝殿、          夏の祭り
  

「臨済宗妙心寺派、長光山 陽岳寺」は、紀州の水軍たちの歴史上の足跡、その足跡は、日本の大阪から中部・関東・東北の海の歴史といる
東北までもは、遣欧使節の船を造り水夫たちを乗船させたりしたからでもある、 三浦岬の見桃寺・横須賀の貞昌寺等がある。

「法乗寺」は、清澄通り沿いに、江戸庶民から親しまれたという「深川ゑんま堂 法乗院」がある。
法乗院は、寛永6年創建だという長谷寺系列の真言宗寺院。

陽岳寺            法乗院                 閻魔堂
  

「心行寺」は、深川七福神福禄寿。
福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されている。
福禄寿は星宿の神、南十字星の化身といわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であり、 一説には、中国の宋の時代、嘉祐年間(1056~)に実在した道士であると言われています。
福禄寿は、背たけが低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え、円満な人格を人々に授ける福神。また、福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の3つの福徳を授ける福神ともいわれている。

心行寺                         門前に心の花壇が
    

「絹本着色毘沙門天像の増林寺」深川2 は、、岩座上の邪鬼を踏んで立つ、軸装に仕立てられた毘沙門天の画像の有る寺。
(本紙の寸法、縦93.0cm、横36.2cm)。
毘沙門天は、四天王の多聞天と同体、また十二天の一尊として祀られ、北方の守護神、あるいは福徳神として古くから信仰されている、
本像は、円光背を背にして、右手に宝棒、左手に宝塔を持ち、袖や天衣を翻した動きのある姿に描かれており、特に頭上の摩尼宝珠や右手の宝棒は、毘沙門天像としては珍しい作例といえます。
この画像、南北朝時代(14世紀)に描かれた優れた仏画である、江東区では、やはり南北朝時代の作と考えられる永代寺の絹本着色地蔵菩薩半跏像(区指定有形文化財)とともに最も古い画像と云う。
画像が1865年に表装し直され、河内国百済山長栄寺(大阪府東大阪市高井田元町)で開眼供養されたことが知られている。

増林寺             毘沙門天画像の有る寺
    

「芭蕉・採茶庵跡」は、芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病疫するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、ここより全国の旅に出た。

芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失。大正6年 津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次朗氏等、地元の人々の尽力によりここにここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常磐一丁目を旧跡に。
昭和20年 戦災のため荒廃し、地元の芭蕉遺跡保存会が昭和30年復旧させた。(芭蕉遺跡保存会)

松尾芭蕉も           ここから船で北千住宿へ (奥の細道)
    


次回は、森下方面へ。

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