「平城京」
古都の奈良は、710年の平城京への遷都に始まると云える。784年の長岡亰への遷都、10年後の平安京により「平城京も終わりを告げる
社寺は、奈良にとどまったが、廃都し大半は衰退していく。
皇室の保護を受けた「東大寺・興福寺・春日社」の藤原氏の勢力で発展させている。中でも、興福寺は、顕著であった。寺は、荘園を増大させると同時に、12世紀には、春日社を薗氏は池に置くことになる。春日社の神威を利用して、東大寺など一部の社寺を除い大和国の社寺を
末社・末社化させ、その豪族・土豪をも従属させていく。この状態は中世末期まで続くことになる。
1180年の源平合戦で焼き尽くされるが、のちに復興再建され以前よりまして偉容を呈するようになる。
奈良に大きく影響を与え、門前郷の形成である。鎌倉時代末で街の姿が出来ている。
町の大半が「興福寺郷」で、寺門郷(南都七郷)・一乗院門跡郷・大乗院門跡郷の3つに分かれている。春日社は興福寺郷、元興寺郷は、
「治承の兵火」の後大乗院門の支配を受ける存在になった。鎌倉時代に入り、中期に、一乗院・北市ー大乗院・南市ー1414年寺門郷は、
中市が開設している。しかし、交通・店舗商業の発達で中市を除き廃絶された。
都と川、市街地に排水路をつくるために、佐保川や秋篠川の流れを変え、新たに人工的に水路をつくる。
宮殿や屋敷を建てるために必要な木材は、藤原京から建物をうつし、不足分は滋賀県の田上山から切り出し、筏にして宇治川、木津川を通り、木津で陸あげして都に運んだのである。
平城京への遷都は、707年に遷都の議論をし、710年には遷都するという、かなり急なもの、この早急な遷都を可能にしたのは、
藤原京から多くの建物がうつされたからだといわれている。
平城京の大路・小路には、道の両側に、下水、排水の役目をもった溝をつくり、排水は、秋篠・佐保川や人工的につくった川に流れこむようにつくられている。
近鉄京都線が跨ぐ「秋篠川」、名もゆかしい秋篠の里、光仁天皇氏寺「秋篠寺」は、雑木林に囲まれた上流に、
「平城宮」跡は、幻想的な野原、広大である、野原が続く。だが、只の野原ではない、かって世界的規模のメマガノポリスの心臓部があった
都の中心平城京あとである。在都74年間、唐の新羅などが大陸から渡来し異国の文化と国内各地の物産品など続々と平城京を目指した所。
人・物・金・情報など集結した国際都市でもあった。しばらく野原に立ちすくんでいた。
694年藤原京・天武天皇(天皇中心国家に)・天武天皇の妻持統天皇女帝・文武天皇・元明天皇710年「平城京遷都」
奈良時代の天皇は、元明天皇(708~714)女帝・元正天皇(715~723)女帝・聖武天皇(724~751)後半期から光明皇后が実権をもつ・孝謙天皇(752~758)女帝・淳仁天皇(759~763)実質的には孝謙天皇が実権をもっていた。
称徳天皇(764~769)女帝 (孝謙天皇の再即位)・光仁天皇(770~773)と続く。
奈良7代70年の帝都「平城京」の中心、広さ約120ha 内裏・朝堂院「公式儀式を行う」・官庁街・東院の四ブロックに
「資料館」は、奈良文化研究所が昭和34年から発掘調査をしている。
その成果を分りやすく展示し、宮殿内部を模型などで出土品と展示している。
遺構展示館は、発掘した状態をそのまま見る事が出来、北棟奈良時代4回の建て替えられた柱跡・井戸。又南棟の大量のレンガ敷き詰め建築が見られる。
奈良時代後半の「西宮」は殆ど残っていないが、大極殿の基壇・階段の地覆石の跡と見られる溝状遺構が部分的に検出したと云う。
それにより、基壇・階段・規模が確定されたと云う。
資料館無料、いろいろイベントがある。 9時(10時)~16時
一時は、「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛り成り」と詠まれるほどの栄華を誇っていた平城京も100年以降荒廃し続け田畑に変貌し見る影もなくなってしまった。
現在、少しずつ整理されてきたが残念ながら、ただの歴史公園に。
官庁街路 近鉄奈良線が 越えると二条大路
710年飛鳥にちかい「藤原京」から、奈良盆地の北端に新しくつくられた「平城京」は、唐の長安をモデルにして設計され、南北約5km
東西約6km、都の中央北端には政治の中心となる「宮」がつくられ、約1km四方の広さで、大極殿・朝堂院・天皇の住まい内裏・周囲に国の役所が建ち並んでいた。
聖武天皇が、740-745年間、都を移し、改築している。
十二堂跡と朝堂院(遠方に朱雀門と近鉄線) 第一次「大極殿」屋根の形に特徴が
「大極殿」宮殿の中でも最も重要な建物、即位の儀式・元旦の朝賀など、天皇の玉座(高御座)が置かれた。
間口44m・奥行20m・屋根の高さ27mで、平成22年(平城遷都1300年記念)復元完成している。
「聖武天皇」が745年戻って新たに出来た「第二次大極殿」明治末発見している。
「第一次大極殿」屋根の形 天皇の玉座(高御座)
「朱雀門」は、平城宮の正門・朱雀門。
その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まって歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいたと云う。
聖武天皇によって752年に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年 765年に創建された。
これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。
この他、法華寺、唐招提寺、菅原寺(喜光寺)、新薬師寺、紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。
2006年3月10日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。
下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見された事に依る。この羅城は中国の都城の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。
第二次大極殿は745年聖武天皇が「柴香楽宮・大極殿」を造る 発掘調査中
「平城天皇楊梅陵」
桓武天皇の第一皇子。母は、皇后藤原乙牟漏。種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わって皇太子となり、桓武帝崩御によって即位。
重なる遷都や蝦夷征伐軍の派遣で疲弊していた財政緊縮のため、役所の統廃合や地方行政の円滑化を行った。
長期政権だった、父桓武天皇の治世を超える事に情熱を傾けるあまり、元来病身であった帝は今で言うノイローゼにかかり、実弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。即位からわずか3年の治世であった。
自らは上皇となって、京都から旧都の平城京へ移り引き籠もったが、健康の回復とともに、次第に嵯峨政権に干渉を始める。
その周囲にいたのが、藤原仲成・薬子の兄妹である。薬子は平城天皇の女御でもなく、尚侍という低い地位の女官だったが上皇の寵愛を受け、
兄の仲成と共に上皇に政治的な影響力を持つようになる。平安京遷都に不満を持つ旧勢力も周囲に集め、次第に平安京の勢力に匹敵するほどの状況となり、上皇は平城遷都の詔を発するなど「二所朝廷」と称されるほどであった。
薬子は、平城上皇が天皇時代の、妃(藤原縄主(式家蔵下麻呂の子)と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女)の母であり、もともとは娘の付き添いで入内していたものであるが、平城天皇は妃よりその母を愛してしまったという経緯があると云う。
東院庭園の先、国道24号線に平城天皇楊梅陵
次回は、法華寺へ。
古都の奈良は、710年の平城京への遷都に始まると云える。784年の長岡亰への遷都、10年後の平安京により「平城京も終わりを告げる
社寺は、奈良にとどまったが、廃都し大半は衰退していく。
皇室の保護を受けた「東大寺・興福寺・春日社」の藤原氏の勢力で発展させている。中でも、興福寺は、顕著であった。寺は、荘園を増大させると同時に、12世紀には、春日社を薗氏は池に置くことになる。春日社の神威を利用して、東大寺など一部の社寺を除い大和国の社寺を
末社・末社化させ、その豪族・土豪をも従属させていく。この状態は中世末期まで続くことになる。
1180年の源平合戦で焼き尽くされるが、のちに復興再建され以前よりまして偉容を呈するようになる。
奈良に大きく影響を与え、門前郷の形成である。鎌倉時代末で街の姿が出来ている。
町の大半が「興福寺郷」で、寺門郷(南都七郷)・一乗院門跡郷・大乗院門跡郷の3つに分かれている。春日社は興福寺郷、元興寺郷は、
「治承の兵火」の後大乗院門の支配を受ける存在になった。鎌倉時代に入り、中期に、一乗院・北市ー大乗院・南市ー1414年寺門郷は、
中市が開設している。しかし、交通・店舗商業の発達で中市を除き廃絶された。
都と川、市街地に排水路をつくるために、佐保川や秋篠川の流れを変え、新たに人工的に水路をつくる。
宮殿や屋敷を建てるために必要な木材は、藤原京から建物をうつし、不足分は滋賀県の田上山から切り出し、筏にして宇治川、木津川を通り、木津で陸あげして都に運んだのである。
平城京への遷都は、707年に遷都の議論をし、710年には遷都するという、かなり急なもの、この早急な遷都を可能にしたのは、
藤原京から多くの建物がうつされたからだといわれている。
平城京の大路・小路には、道の両側に、下水、排水の役目をもった溝をつくり、排水は、秋篠・佐保川や人工的につくった川に流れこむようにつくられている。
近鉄京都線が跨ぐ「秋篠川」、名もゆかしい秋篠の里、光仁天皇氏寺「秋篠寺」は、雑木林に囲まれた上流に、
「平城宮」跡は、幻想的な野原、広大である、野原が続く。だが、只の野原ではない、かって世界的規模のメマガノポリスの心臓部があった
都の中心平城京あとである。在都74年間、唐の新羅などが大陸から渡来し異国の文化と国内各地の物産品など続々と平城京を目指した所。
人・物・金・情報など集結した国際都市でもあった。しばらく野原に立ちすくんでいた。
694年藤原京・天武天皇(天皇中心国家に)・天武天皇の妻持統天皇女帝・文武天皇・元明天皇710年「平城京遷都」
奈良時代の天皇は、元明天皇(708~714)女帝・元正天皇(715~723)女帝・聖武天皇(724~751)後半期から光明皇后が実権をもつ・孝謙天皇(752~758)女帝・淳仁天皇(759~763)実質的には孝謙天皇が実権をもっていた。
称徳天皇(764~769)女帝 (孝謙天皇の再即位)・光仁天皇(770~773)と続く。
奈良7代70年の帝都「平城京」の中心、広さ約120ha 内裏・朝堂院「公式儀式を行う」・官庁街・東院の四ブロックに
「資料館」は、奈良文化研究所が昭和34年から発掘調査をしている。
その成果を分りやすく展示し、宮殿内部を模型などで出土品と展示している。
遺構展示館は、発掘した状態をそのまま見る事が出来、北棟奈良時代4回の建て替えられた柱跡・井戸。又南棟の大量のレンガ敷き詰め建築が見られる。
奈良時代後半の「西宮」は殆ど残っていないが、大極殿の基壇・階段の地覆石の跡と見られる溝状遺構が部分的に検出したと云う。
それにより、基壇・階段・規模が確定されたと云う。
資料館無料、いろいろイベントがある。 9時(10時)~16時
一時は、「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛り成り」と詠まれるほどの栄華を誇っていた平城京も100年以降荒廃し続け田畑に変貌し見る影もなくなってしまった。
現在、少しずつ整理されてきたが残念ながら、ただの歴史公園に。
官庁街路 近鉄奈良線が 越えると二条大路
710年飛鳥にちかい「藤原京」から、奈良盆地の北端に新しくつくられた「平城京」は、唐の長安をモデルにして設計され、南北約5km
東西約6km、都の中央北端には政治の中心となる「宮」がつくられ、約1km四方の広さで、大極殿・朝堂院・天皇の住まい内裏・周囲に国の役所が建ち並んでいた。
聖武天皇が、740-745年間、都を移し、改築している。
十二堂跡と朝堂院(遠方に朱雀門と近鉄線) 第一次「大極殿」屋根の形に特徴が
「大極殿」宮殿の中でも最も重要な建物、即位の儀式・元旦の朝賀など、天皇の玉座(高御座)が置かれた。
間口44m・奥行20m・屋根の高さ27mで、平成22年(平城遷都1300年記念)復元完成している。
「聖武天皇」が745年戻って新たに出来た「第二次大極殿」明治末発見している。
「第一次大極殿」屋根の形 天皇の玉座(高御座)
「朱雀門」は、平城宮の正門・朱雀門。
その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まって歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいたと云う。
聖武天皇によって752年に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年 765年に創建された。
これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。
この他、法華寺、唐招提寺、菅原寺(喜光寺)、新薬師寺、紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。
2006年3月10日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。
下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見された事に依る。この羅城は中国の都城の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。
第二次大極殿は745年聖武天皇が「柴香楽宮・大極殿」を造る 発掘調査中
「平城天皇楊梅陵」
桓武天皇の第一皇子。母は、皇后藤原乙牟漏。種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わって皇太子となり、桓武帝崩御によって即位。
重なる遷都や蝦夷征伐軍の派遣で疲弊していた財政緊縮のため、役所の統廃合や地方行政の円滑化を行った。
長期政権だった、父桓武天皇の治世を超える事に情熱を傾けるあまり、元来病身であった帝は今で言うノイローゼにかかり、実弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。即位からわずか3年の治世であった。
自らは上皇となって、京都から旧都の平城京へ移り引き籠もったが、健康の回復とともに、次第に嵯峨政権に干渉を始める。
その周囲にいたのが、藤原仲成・薬子の兄妹である。薬子は平城天皇の女御でもなく、尚侍という低い地位の女官だったが上皇の寵愛を受け、
兄の仲成と共に上皇に政治的な影響力を持つようになる。平安京遷都に不満を持つ旧勢力も周囲に集め、次第に平安京の勢力に匹敵するほどの状況となり、上皇は平城遷都の詔を発するなど「二所朝廷」と称されるほどであった。
薬子は、平城上皇が天皇時代の、妃(藤原縄主(式家蔵下麻呂の子)と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女)の母であり、もともとは娘の付き添いで入内していたものであるが、平城天皇は妃よりその母を愛してしまったという経緯があると云う。
東院庭園の先、国道24号線に平城天皇楊梅陵
次回は、法華寺へ。
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