syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

兼続伝世館と銭淵公園

2014-12-09 | 気まま旅

「直江兼続伝世館」
六日町駅から徒歩で約25分ー開館時間・午前9時~午後4時30分ー定休日・毎週木曜日(1月~3月は休館)ー有料、入館料300円

館内には、難攻不落の名城と言われた坂戸山・城跡の模型が。
山麓には城主館跡などが残る。(国の指定史跡)、
坂戸城主であった長尾政景公(上杉景勝公の父)が溺死したと言われている銭淵は、公園として整備され市民の憩いの場。その銭淵のほとりに伝世館はある
家康への挑戦「直江状」
1600年、上杉家の会津における軍備増強を恐れた徳川家康は兼続と親交あつい豊光寺の僧承八兌を介す形をとって分毘忠告と詰問のための問罪使を送った。これに対して上杉家は、既に家康との決戦を決意し詰問に対し痛烈に反駁し剛毅の気既を兼続によって答書した。
この兼続の断固たる気骨、不屈の精神が絶賛され、後に「直江状」と称され復書されたものが世間に広く流布。
この直江状写が、(個人が所蔵する大変貴重な文書) 館内売店ではこの「直江状」レプリカ版が販売されいる。

                   兼続伝世館建物


関東との砦、不落の名城と名を馳せた「坂戸城」が今蘇る。坂戸山の地形を生かした坂戸山の地形を活かした坂戸城。
東には越後魚沼の山々を城壁とし、西には魚野川という堀を備えた山城。
上杉家が最も重要視した坂戸城の地形や主な跡地がわかる。

                  坂戸山の里山登山道入り口


「上杉謙信・長尾政景」
政景は、1526年、長尾房長の子として生まれる。
長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁に当たり、妻は長尾為景の娘(景虎の姉)の仙桃院。
1537年頃に婚約が成立した。1547年、府中長尾家家中で長尾晴景と景虎との間で抗争が起こると、政景は晴景側につく。
政景が晴景の妹・仙桃院を娶っていたことや、上田長尾氏と対立していた古志長尾氏が景虎側だったことなどからと云う。
1548年12月、晴景は景虎に家督を譲って隠居している。

                     上田長尾家


「上杉謙信」を中心に。
1530年、越後守護代「長尾為景」の4男として「春日城」で生まれる。母、虎御前。幼名虎千代。1543年元服長尾景虎、領内反乱討伐。
1552年、関東管領上杉憲政、北条氏に敗れる。群馬上野から信玄の下に。
1553年、武田信玄信濃侵攻・謙信第一次川中島の戦いに。
1555年、第二次川中島の戦い、200日今川義元調停で和睦撤退。
1557年、急速に勢力を伸ばして来る信玄に対抗第三次川中島の戦い。
1561年、10万の大軍で小田原城を包囲・上杉憲政から家督と関東官僚職を継ぐ、名を「上杉政虎」と改名・8月第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)
    武田方、武田信繁・山本勘助戦死・上杉方戦死者多数。12月足利義輝の一字を賜り「上杉輝虎」と改名。
1564年、第5次川中島の戦い、信玄と塩崎で対するが戦わず兵を退く
1570年、北条氏康の子氏秀を養子に迎える。名を初名景虎を与える。
1576年、武田勝頼らと結び、反織田信長包囲網を築く。
1577年、織田武将「柴田勝家」と激戦勝利する。
1578年、3月春日城で倒れ、13日急死(49歳)「四十九年一睡の夢一期の栄華一盃の酒」信玄の言葉(一期の栄華も一盃の酒のようだ・酒を愛した謙信)

毘沙門天の化身謙信   川中島の戦いの屏風等が          兼続の甲冑・兜に「愛」

「直江景綱」 1509~1577 与板城主、謙信の父の代から上杉家の臣として活躍。
             娘「お船の方」は、上杉景勝の右腕「直江兼続」の正室、景網は、能登遠征にも従軍している。後北条氏の折衝など外交面で             も活躍した実務家。

「北条氏康」 1515-1571 北条三代目、関東掌握、後北条家全盛時代を築いた。1561年甲斐・相模・駿河三国同盟を結んでいる。
             謙信小田原攻めでは、徹底した籠城戦であったと云う。

「山本勘助」 1493-1561 武田信玄軍師・たけだ24将の一人、足が不自由であったと云う。諸国放浪し兵学を学ぶ、軍略・築城術に才を発揮した。


公園内に喜平次(景勝)と与六(兼続)像                   魚野川の歌碑


「川中島の戦い」の関連勢力
上杉謙信春日山城ー飯山城・与板城・栃尾城・坂戸城・沼田城・厩橋城。
武田信玄居館ー高遠城・上原城・松本城・塩田城・葛尾城。             今川氏真居館ー駿府
北条氏康居城ー小田原城・沼津韮山城・滝山城・川越城・松山城・鉢形城。      千葉氏居城ー佐倉城。
里見氏居城ー久留里城・市川里見城。                       佐竹氏居城ー太田城。
宇都宮氏居城ー宇都宮城。                            蘆名氏居城ー黒川城(現在の若松城)

                         上杉謙信公


「庭園風の銭淵公園」
公園は、平成8年に市営公園として整備。
石張りのお堀、四季折々の花と桜並木、松の老などが迎えてくれ、中央に池を配した園内には、遊歩道や芝生広場などがある。
公園は、上杉景勝、直江兼続主従が幼少を過ごした坂戸城が築かれていた坂戸山の麓にあり、日本庭園風に整備。
園内から、坂戸山が一望し、喜平次(のちの上杉景勝)と与六(のちの直江兼続)の像もある。

坂戸城の外堀となっていた魚野川が、坂戸山裾とぶつかり、大きく蛇行し渦巻いたところが現在の「銭淵」と呼ばれる地。
長尾政景が存命の頃には「野田尻ヶ淵」もしくは「野尻池」と呼ばれていた。

謙信の尺八                                                         


川中島の戦い屏風


上杉景勝が謙信にお守りを送っている。「謙信の養嗣子として迎え、実母が謙信の姉で、景勝は、まだ若干9歳」

謙信が景勝(喜平次)宛書状
返々、細々いんしん よろこび入候。手弥入心さひ、、、あがり候へば、手本音信、ことに為まひらせ候。以上。
祈念まぼり巻数、よろこび入候。こころもとやがて隙あけ、帰府のうえ可申候。   謹言。        謙信花押
 2月13日         喜平次殿                               

一段落ち着いて府中に帰りましたらお話いましょう。返す返すお手紙嬉し限りです。手(字)が上手になってりますから、字の手本を送ります。

                      銭淵公園石垣



                    坂戸山を背にした銭淵公園内


謙信は、元服すると「栃尾城」を任され、兄から家督を譲られ活躍は目覚ましく、ほぼ無敗、生涯の敵,武田信玄であったが、織田信長の対抗勢力として恐れられた人物であった。上杉家は明治まで残ったのである。

                        銭渕公園中央噴水                 
  

坂戸城主で景勝の実父である長尾政景が溺死したのは、この地だったという説。
政景の亡き後、供養のため参詣に集まった人々がこの淵に六道銭を捧げたと伝えられており、そのことが「銭淵」の名前の由来と云う。
公園では豊かな自然だけでなく、南魚沼の歴史や文化にも触れる。



池の隅に         政景公生誕地・野田尻の渕の小さい碑が
  

次回は、十日町紫陽花公園へ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿