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真鶴港ー足柄の旅7

2016-07-09 | 気まま旅

石橋山の合戦に敗れた「源頼朝」を、湯河原・頼朝七騎の一人、土肥次郎実平が、平家大庭景親から守り、真鶴へ。

「貴船神社」-真鶴港に鎮座・大国主神、事代主神、少彦名神を祀るー


889年、三ツ石真鶴岬の沖に現れた「木像12体と書状」を、社家平井家の先祖ー平井翁ーが発見して、社殿を建て村の鎮守としたのに始まると伝わる。
                     古社


江戸時代までー貴宮大明神ーと称している。(貴船神社は明治以降)
                        拝殿


「祭事」毎年7月27日・28日(2日間)ー日本三船祭・重要無形民俗文化財
神輿の宮出しが、長い急階段を下り港へ。(見ごたえある)、一連の行事は、古式に乗っ取って行われる。

           2013年囃子船が沈没したが改修された。


「源 義家」 1039-1106  天下第一武勇の士、頼義の長男。
「前九年の役」奮戦、陸奥守鎮守将軍で、後三年の役を起こした。が、朝廷は、私戦と見なした。
「勿来の関」で、-吹く風を勿来の関と思へども 道もせにちる山桜かなーと詠んでいる。(歌碑がある)
「大江匡房」に兵学を学び、飛ぶ雁の乱れをみて伏兵がいるのを、、、。

  「荒井城址公園」城主ー「荒井実継」の居城。源義家の家臣で1083年「後三年の役」従軍


   荒井城は、土肥城(湯河原)の出城ー後戦国期は小田原北条氏ののろし台に。


             相模灘・真鶴港(三ツ石右・岩海岸は左)


午前5時頃の港                  一時間後


三ツ石                             真鶴漁港


ー熱海・伊豆山神社ー
              若き日の頼朝と政子は、この神社で、
  

流人頼朝が政子と初めて会ったのは伊豆山神社近くの川に架かる「逢初橋」
伝承は更に、頼朝が伊豆山の僧覚渕に師事した時に政子と逢って恋に落ちたとも伝えている。
曽我物語の記述から考えれば伊東から逃げた頼朝は最初の流刑地・蛭島のある韮山に戻っている、14歳から数年間も頼朝をを監督した北條時政の娘と伊豆山初めて会ったという。
 
本殿横には二人が恋を語ったと伝わる「頼朝と政子の腰掛け石」が残されている。
頼朝腰掛石は三嶋大社等にもある。 
伊豆山権現は鎌倉幕府開設後も源頼朝と政子のみならず代々将軍に崇敬され最盛期には僧兵3800人を抱える勢力を誇ったが、1590年に起きた秀吉の小田原攻めで後北条側に味方したため全山が焼き払われている。
その後は江戸時代に再建、徳川家康も参拝に訪れた記録が残っている。

伊豆山神社のナギの木の葉は男女の縁結びに。
ここと、三嶋大社にもある腰かけ石
  

海が望める小路
  

頼朝は土肥から箱根権現までの山中を逃げ回り、8月になって真鶴の海岸から安房へ小舟で脱出。
この時は、主従わずかに七騎と伝わっている「七騎落ち」。

岩浦から北條時政と義時、岡崎義實、近藤七国平などが先触れのため舟で安房に向かった。
先発隊は途中の海上で三浦を落ち延びた義澄主従一行と奇跡の合流を果たしている。
今でも、真鶴漁港近くにも鵐(しとど)の窟が残っている。
追っ手から逃れた頼朝一行が隠れたと伝わっており、昔は高さ2m・奥行は10m以上もあったが崖崩れによって小さくなったらしい。
地元の伝承に拠れば、大庭景親の兵が中を確認しようとした時に「しとど」と呼ぶ小鳥が飛び出したため、誰もいないと思って見過ごしたという。

真鶴湾ー「頼朝神社と鵐の窟」

1180年石橋山で敗れ逃れて、隠れた「岩窟」ー真鶴港波打ち寄せていたー
    

「うたい坂」は、、源頼朝が石橋山の合戦に負け敗走中に、土肥実平が無事を祝い再起を願って、うたい踊ったのに由来するという。
そして、坂を下り道祖神と石碑の前を通り過ぎると、目的の岩海岸が現れる。
源頼朝は、最終的にここから船に乗り房州(千葉県)まで逃れたという。

「岩海岸」は、入江のような地形になっていて、中央部は砂浜があるものの、左側は岩場、右側は漁港になっている。
正面には、「かながわの橋100選」にも選ばれた岩大橋が架かっている。

「土肥実平」は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となる。
富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られている。
平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられている。
土肥氏と西国との関わりはここに始まり、平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を続けた。

湯河原城主土肥実平は頼朝の再起を祝い踊り謡ったとある
     

「源頼朝船出の浜」は、石橋山の戦いに敗れ、1180年8月28日房総に船出した浜が、ここ岩海岸である。
「七騎落ち」田代冠網・新開次郎忠氏・土屋三郎宗達・土佐坊昌俊・土肥実平・土肥太郎遠平・岡崎義実。

岩海岸から千葉県房総に


 

2013年6月「千葉県内房の旅」掲載済み、一部分です。
「吾妻鏡」は、(現代語)
治承四年(1180)九月大一日庚戌。頼朝様が上総介廣常の屋敷に行こうと言い出しました。北條時政殿始め面々はそうすべきだと云いました。安房国の安西景益は頼朝様の子供の頃に特に仲良くしていた人なので、最初に手紙を出しました。その内容は、「令旨は間違いなく従うべきなので、国衙に勤める在庁官人を同行して参上しなさい。又安房の国内の京都から来ている平家方の連中は、全て捕まえて連れて来なさい。」と
ある。

1180年、「石橋山の戦い」に敗れた源頼朝は箱根別当にかくまわれた後、真鶴町から出航。安房国平北郡猟島、ここ「竜島付近」に到着。
ここから再起を図った。頼朝上陸の碑が、竜島海岸に建立され、同地は、県の史跡に指定。
最初に頼朝のもとに参じた「安西景益」は、安房国の住人で、幼少時の頼朝に仕えていたという。

道路と砂浜の間に「源頼朝上陸の碑」が
  

「竜島」は、昔、島。北端の富津市との境に霊場で知られる鋸山がある。
南端には浦賀水道に突き出た西ヶ崎、海岸線は起伏に富んでおり、保田、勝山などの漁港、又勝山沖には浮島などの島、岩礁も多い。
内陸の山間部は房総丘陵の一部を形作っている。

勝山海水浴場は、入り江の奥にある静かな砂浜と小さな島が並ん人気がある。

昔は「竜島」で小さな島であった。
  

                      真鶴ー三ツ石


次回も、真鶴。

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