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あきる野市-多摩川散歩(6)

2016-01-08 | syu散歩
東京都あくる野市は、都の西部・平成5年秋川市と五日市町が合併して新しい市、中世は、秋留郷・秋留台地で、約1万年前の「前田耕地遺跡」又
「西秋留石器時代住居跡・大塚瀬戸岡古墳」で知られ五日市は、山林地区で面積の約80%を占めている。
観光地「秋川渓谷」は、今でも散策コース。
秋川に沿って、五日市街道から檜原街道の分岐点で、江戸時代から栄え、街道沿いに往時をしのぶ建物が点在する。
夏には、百日紅の花が街道を彩ると云う。

「JR五日市線」
五日市鉄道は、大正12年、着工。
拝島-武蔵五日市間10.6kmが大正14年、開業。五日市は、秋川渓谷の谷口集落として機能する商業拠点で、現在は五日市線の終点。
五日市-武蔵岩井間2.7kmが開業、線型は武蔵五日市からの延長ではなく、武蔵増戸-武蔵五日市間からの分岐であったと云う。
この区間開業の主目的である勝峯山に埋蔵する石灰岩は明治43年に採掘開始、大正13~4年に浅野セメントが買収し、昭和2年から同社の川崎工場へ供給。
五日市鉄道は、大久野駅で浅野セメント専用線との貨車収受を行った。
石灰石の輸送先は、東海道本線に所属する貨物支線の浜川崎で、ここから浅野セメント川崎工場に専用線経由で搬入し、当時は南武鉄道が立川に達していないため、五日市鉄道、青梅鉄道、中央本線、山手線、東海道本線という迂回輸送を必要とした。
大正13(1924)年、拝島-立川間の地方鉄道敷設免許を、南武鉄道の大丸-立川間地方鉄道敷設免許と同日付で取得しているが、これは立川で両鉄道が連絡運輸を実施するとの協定にもとづく措置である。
拝島-立川間は、昭和5(1930)年、に開業、対する南武鉄道は、昭和4年、に屋敷分(→分倍河原)-立川間を開業している。
五日市鉄道の立川延長までは、浜川崎への輸送にはなお青梅電気鉄道拝島-立川間による中継を必要とした。
蒸気動力で発足した五日市鉄道は、昭和初年の時点でガソリソ動車を導入し、その後も蒸気機関車けん引による客車列車の運行を行っていた。
青梅・五日市鉄道は、浅野セメントによる投資対象であったが、傘下に入った時点は明らかでないと云う。

青梅鉄道初代委員長ー 指田茂十郎 1842-1902
指田家は、代々玉川上水の管理を委託された家で、茂十郎は地域のリーダーとして活躍し、 明治初年、玉川上水の舟での水運を許可されるものの、すぐ取り消された。
そこで鉄道敷設を思い立ち、沿線内の賛否が分かれる中、同郷の下田伊佐衛門と協力して青梅鉄道会社設立に尽力した。(青梅鉄道関係資料 羽村市)

                  JR五日市線


「五日市街道」
七曲りー 千川上水・玉川上水ー 横田基地ー 多摩川ー 杉並区ー 武蔵野市ー 西東京市ー 小金井市ー 小平市ー 国分寺市ー 立川市ー 福生市
ー あきる野市。
徳川家康の江戸入府後、五日市・あきる野市や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。
初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として
発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転したと云う
武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展し、都道7号とほぼ一致。
起点付近は、JR中央線高円寺駅の南にある「五日市街道入口」交差点を起点とし青梅街道から分岐し、平成11年、に開通した新道で、それまでは100mほど西の交差点が起点、大法寺前で新旧道が合流する。

             武蔵野五日市駅前ー秋川渓谷の入り口


「五日市憲法草案」
明治13年、第2回国会期成同盟大会で憲法の起草が議され、翌年の第3回大会に各自草案を持ち寄ることが決議され、全国各地の自由民権グループが私擬憲法(民間有志による私案の憲法)を作成、翌年、国会開設の詔勅が出され第3回国会期成同盟大会が自由党結党大会に変わってしまったため、各地の民権家が持ち寄った憲法草案は審議されませんでした。
その後「伊藤博文」らがフランス法律学者ボアソナードらの指導により、明治23年に「大日本帝国憲法」が成立したため、
ここ、千葉卓三郎が起草した草案は、昭和43年に、深沢家の土蔵に眠っていたと云う。
千葉卓三郎の起草した草案の標題は「日本帝国憲法」ですが、発見者は、千葉の知識や個人的な資質が、五日市を中心とする地域の人々との交流や協力により磨かれ、地域の自由民権運動につながっていること、さらに五日市学芸講談会や学術討論会では、様々なテーマの討論、検討がなされており、五日市の地域社会と切り離して考えられないことから、この草案を「五日市憲法草案」と名付け。
(5篇204条)に及ぶ大作で、和紙24枚に細かな文字で清書されている。
現在発見されている明治自由民権運動期の私擬憲法の中でも、国民の権利の項目に多くの条文が割かれており、現在の「日本国憲法」と比較しても引けを取らない民主的な内容を含んだ憲法草案であること、五日市地域の有力者や若者たちを中心に学習結社「学芸講談会」を組織し、憲法に関する討論会や学習会を実施しており、自由民権運動から憲法草案起草に至る経過がわかることが高く評価。(都の有形文化財指定・郷土館に碑がある)

  

「勧能学校跡」
1852年,仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村ー現・宮城県栗原市志波姫、仙台藩士である千葉宅之丞の子として生まれ、11歳で仙台藩藩校「養賢堂」にて
大槻磐渓に師事。明治元年の1868年、16歳にして戊辰戦争勃発。
仙台藩士として出征、白河口の戦いに参加するも敗戦を経験する。明治5年、地元の水沢県に設けられたハリストス正教の祈祷所(後の金成ハリストス正教会)にて洗礼を受ける。
その後、各地を遍歴し、医学・数学・ロシア語・国学・浄土真宗・儒学・正教・カトリック・プロテスタントを学び、一時は商人に転向するも
明治13年、ここ、神奈川県西多摩郡五日市町ー現・東京都あきる野市の「勧能学校」に勤務。
後に二代目校長となる。明治14年、私擬憲法「日本帝国憲法」を深沢権八らと起草したとされる。
明治15年、には持病の結核・胃病が悪化し、療養生活に入り、明治16年の1883年、治療の甲斐なく東京府本郷区の竜岡病院にて死去。(享年31)
養女により、仙台市青葉区・資福寺に葬られたと云う。

  

「武蔵五日市の市神様」
広場の片隅に、注連縄をした石が祀られていた。
立て札には「市神様」とあり、昔の市というのは、山の人と里の人とが物を交換する場所であったが、ここがその市場であろう。
「市」の語源は、「五十路」とする説、道路は、人が行き交う通路ですが、神霊が行き交う通路でもあると昔の人は考えていたようで、辻や村境には古くから神々が祀られている。
漢字の「市」の字は、市の立つ場所を示す標識の形からきていると云う。

    

「街道筋の子育地蔵尊」
その昔、弘法大師が、子のない夫婦の願いで地蔵を供養したところ子宝に恵まれたと伝えられ、その後、各地に地蔵尊を奉納し願をかける。

旧五日市街道沿いにも上町・仲町・下町の地名が見られ、この辺りが宿場町の中心部。(江戸から遠い方から上町)
  

屋号の書かれた土蔵にも、街道の歴史を感じます。
    

「戸倉城跡ー小宮城・あきる野市戸倉字ー城山」
多摩丘陵の古城址・中世城ー戸倉城は、戸倉町の西方にそびえる比高200mの城山に築かれて、秋川渓谷と盆堀川に厚狭まれ、街から目立つ独立山であり、かなり遠くからでもその山容を遠望することができる。
山の上の方は、険しそうな山と云う。
城は、非常に簡素で小規模な砦のような城で、軍勢が駐屯する城というよりは、物見あるいは狼煙台といった程度のものと思われる。
だが、八王子城に繋がる重要な位置で、檜原城と網代城、戸吹城、滝山城、後北条・八王子城へ。
監視所ルートの一端を担うつなぎの砦城であったと思われるが。

                 五日市から戸倉方面


                 立派な蚕屋敷が


「秋技留神社」
創建は不詳。「延喜式」神名帳に武蔵国多摩郡8座の筆頭に記載されている、同国著名の古社。
社名は、「阿伎留」「阿伎瑠」「秋留」「畔切」などとも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。
「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祀られた神社とする説もある。
現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の「土師連男塩」が氏神を祀ったことに始まるとも考えられている。
天慶3年の940年、鎮守府将軍の「藤原秀郷(田原藤太)」が大原野明神(京春日)を勧請したことから、中世以降「春日大明神」と称された。
鎮座地により「松原大明神」と称し、通称は「松原さま」といわれた。

神主・土師連男塩(職業部たる土師部を管掌しているのが出雲国造の支族の「土師連」・塩神ー塩竈神社祭神ー、、氏神を祀っていると云う。

    

鎌倉時代以後、武将の崇敬も篤く、「源頼朝・足利尊氏・後北条氏」からそれぞれ神領が寄進された。
徳川家康は、江戸入府の翌年、1591年、武蔵国多西郡秋留郷松原の内で10石を寄せたとある。
それ以後代々の将軍は、家康の先例に従って、同じ土地を寄進し、その朱印状12通が残されている。
江戸時代には神主は触頭をつとめ、触下は、秋川流域から小河内にいたり28人。6月、9月の末日を年中二度の大祭と称し、これらの神主が二班に分かれ、阿伎留社頭で武運長久、天下泰平の祈祷が行われたとある。
明治に入り、明治6年、近代社格制度において郷社に列格し、のち明治40年、神饌幣帛料供進神社に指定、戦後の昭和29年に宗教法人となった。

「主祭神」
大物主神・味耜高彦根神・建夷鳥神・天児屋根命


例大祭ー9月28日-30日に行われる例大祭は、別名「五日市祭」と称される。
屋根と胴は珍しい六角形で天保年中に制作された約600キログラムの「六角神輿」 が先頭となり、そのあとに中神輿、さらには各町内の神輿が連らなり街を練り歩く。またこの露払いとして五日市入野獅子舞が奉納され、檜原街道には多数の夜店が立ちならぶ。
(なお例大祭の日付が曜日によって変わることはない)

「文化財」
有形文化財 年中十二祭神事絵巻(絵画) 狩野谿運・久信筆の美しく彩色された絵巻物で、江戸末期の作。
当社で古くから行なわれていた月毎の祭事が描かれており、当時の年中神事がうかがえる。

懸仏・台盤(工芸品) この懸仏は中央の仏体が失なわれ、台盤(径30cm)のみ、裏面に陰刻された
     「武蔵国秋留神社小塩村松原大明神之御本躰、建武五年(1338年)二月一日沙弥本願敬白」
の文字は地域の希少な中世資料である。武州南一揆文書 6通(古文書) 武州南一揆は南武蔵の在郷武士団で、その有力集団が秋川流域にあり、15世紀を中心に活躍した。
社には6通の関係文書があり、中でも、1417年、関東公方足利持氏の下した恩賞状は資料価値が高い。

                  本殿


1月ー 元旦祭 (1月1日)・古札焼納祭 (1月15日)
2月ー 節分祭 (節分の日)・初午祭 (2月初午の日)・祈年祭 (2月22日)
4月ー 山王祭 (4月10日)
5月ー 琴平際、熊野祭 (5月5日)
6月ー 水無月大祓 (6月30日)
9月 例大祭 (9月28日)・神幸祭 (9月29日)・神幸祭 (9月30日)
11月ー 大鳥祭 (11月酉の日)・七五三祭 (11月15日)・新嘗祭 (11月23日)
12月ー 大祓 (12月31日)

露払いとして五日市入野獅子舞が奉納・、檜原街道には多数の夜店が立ちならぶ。

    

情報収集会社に勤める主人公友里は、「五日市は今・・・平成の大合併のさきがけの街から」というテレビ番組の情報収集のため、あきる野市に。
取材を進めていくにしたがって、五日市の歴史、自然、そこに住む人のパワーに惹かれていく友里であったが、番組が延期になり取材は中止となる。
しかし、五日市に強い魅力を感じていた友里は、退職してまで夢だったルポライターとして五日市の素晴らしさを多くの人に伝えようと、泊り込みで取材活動を始めた。その中でさまざまな人との出会い、興味深い歴史などに引き込まれていき、やがて友里は、五日市が自分にとっての“ふるさと”ではと思うようになっていく・・・。(五日市物語映画のあらすじ)

江戸の暮らしを支えるエネルギーや材木の供給基地として発展しながら、文化人をはじめ商人や知識人など多くの人を惹きつける魅力があり、
豊かな文化圏を形成していた「五日市」。
幕末から明治初期には、五日市憲法草案を起草した千葉卓三郎や、看護師として国内外で活躍し、世界初のナイチンゲール記章を受けた萩原タケを。
また、歴史的価値のある寺社も多く、森林や里山に抱かれた四季折々の美しい街。
まさに「東京のふるさと」。
「市制15周年記念事業」として、その東京のふるさとー五日市物語を映画製作することに。

    

「秋川」
都多摩地域西部を流れる河川、多摩川水系の支流。
幹線流路37.6km、流域面積169.6km²は、多摩川の支流で最も広く、多摩川最大の支流とも言われる。西多摩郡檜原村役場付近の北秋川との合流点より
上流は、南秋川の別称で呼ばれている。



都西多摩郡檜原村の西端、山梨県との県境にある三頭山の山腹にある都民の森のブナの路(登山道)沿いを流れる三頭沢が源流。
少し下流には三頭大滝があり、周囲は整備されている。
檜原街道に沿って蛇行しながら東へ流れ「数馬」集落を抜け、「笹平」地区で北に流れを変え檜原村本宿で北秋川を合わせる。あきる野市を東へ流れ、
あきる野市、八王子市、福生市、昭島市の4市の境界付近で多摩川に合流する。

        城山から佳月橋・小和田橋・あゆみ橋・秋川橋(あゆみ橋~秋川橋間・河川公園)
    

秋川・水道水源、浄水処理、取水 浄水場、給水拠点、


岸辺の並木道に「小庄の桜」がある。夏は花火・秋は紅葉と四季折々の風景が(小和田橋付近)
  

「龍角山・広徳寺」ー臨済宗鎌倉建長寺派
1373年創建の古刹、正應了受居士によって創立鎌倉建長寺70世「心源希徹禅師開山、創建。
(次回掲載の、「真言宗・大悲願寺」1191年創建と対峙する位置にあると云う)多摩川桜街道88ヶ所ー佐倉札所「77番」

寺伝
正応長者というものの妻(法名龍智智雲尼)で、 明徳年間の1390~94年、に建長寺前住心源希徹和尚を請じて開山としたと伝えられている 。

茅葺の総門                  二層の茅葺山門
    

1532-55年「北条氏康」中興され、江戸時代には、幕府から40石朱印地が与えられている。
約12000坪の境内地を保有。
盆地の西・秋川右岸の山麓で、地形的に東に総門・山門・本堂が東西の中心軸上に配置されている。
参道を挟んで北の鐘楼・南に経蔵。

7世紀初頭の大阪の四天王寺や奈良の法隆寺(斑鳩寺)の旧伽藍(若草伽藍 )の伽藍配置は
中軸線上に中門・塔・金堂・講堂を南から北へ一直線に並べるもので、 回廊は中門左右から出て講堂までの間を結び、塔と金堂を囲んでいる。
広徳寺は、18世紀頃で禅宗伽藍で総門を全面と北に土塁・池等が、

「正眼閣」の額が           山門を潜ると一対の銀杏巨樹(天然記念物指定)
    

「北条氏康」 1515-1571 小田原北条3代目・氏綱の長男
山内上杉氏と武蔵国河越、破り古河公方を傀儡とし、関東南半を支配した。武田信玄・上杉謙信と抗争し、同盟を繰り返す。
領地拡大で「税制改革・検地」を推進した。遺言で、上杉謙信は頼りにならず、武田と同盟を、、。

大銀杏・カヤ(24.8m)・タラヨウ(19.1m)-都天然記念物指定。
禅寺の伽藍の境内        鐘楼           名刹の堂々たる風格が
    

「タラヨウ」は、モチノキ科樹木中国大陸暖帯に分布する高木常緑樹、インドは、ヤシ科で経文を書く貝多羅樹。
「カヤ」は、イチイ科、暖地森林散在する、香気がある。

本堂も茅葺                                山里の石仏
    

次回は、武蔵増戸方面へ。

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