syuの日記・気まま旅

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菊川 黒田代官屋敷から

2011-02-13 | 気まま旅
今回浜松方面に旅をした。10回くらいに分けて取り上げたいとおもう。

静岡県の遠州東部に位置し温暖な「菊川」からスタート。江戸時代の東海道菊川宿は、大井川の宿としてにぎわい、遠州を代表する武士団の発祥地でもある。

東名ICの菊川を出て20分ほど、「黒田代官屋敷」に到着。当日は屋台など出て、地元の梅祭りがおこなわれていた。

黒田家は源氏の血筋を引き、足利下野守義次のとき、越前黒田荘に居住したことから、黒田姓を用いた。
天正2年(1574)、武田勝頼が高天神城を攻めた際、黒田義則は高天神を守る一将であったが、落城後は武田・徳川方のいずれにも組みさず下平川に帰農した。
江戸時代後期、旗本本多助久が不平川村周辺4500石を領すると、黒田氏はその代官に任じられ、明治維新まで領地支配に努めた。
 
明治維新以降は、旧小笠郡の発展に貢献した。平田村長、小笠町長を歴任して、当地方の指導者として大きな功績を残している。
また、黒田家は芸術にも理解深く、多くの芸術家が家を訪れ、いまなお残るそれらの作品群を、代官屋敷資料館で展示公開している。

東名高速道よりの富士山
  

                                  寒い日だったが梅も咲き始めている。
         


  


お茶席                                   つるし雛
  

                                      歴史資料が展示されている。
  

黒田家代官屋敷は、牧之原台地から流れ出した菊川・牛渕川とその支流が作った沖積地の自然堤防上に立地している。
屋敷の周囲に巡らされた濠と、周囲の水路を利用して、小舟で物資を選んだ。また水害に際しては、米蔵をひらき、小舟で被災民の救済にあたったという記録も残っている。

江戸時代に旗本本多氏の代官を努め、その家柄にふさわしい長屋門を構えた造りとなっている。
母屋は寄棟造り、桟瓦葺きの建物で玄関は格式の高い式台を有し、江戸時代の代官屋敷らしい念入りな造りが随所に施されている。
長屋門は寄棟造り、茅葺きの建物で2000石の格式を有する門であるといわれています。

黒田家代官屋敷は、江戸時代末の代官屋敷の建築様式を伝え、この地方を支配し中心地としての役割をになった貴重な文化遺産である。
昭和48年には母屋・長屋門・家相図が、平成5年には敷地と土蔵・米蔵を加え、一括して国の重要文化財に指定された。


濠がそのまま残され、子舟も繋がれている。



代官屋敷から掛川方面に向かい「吉岡弥生記念館」に立ち寄る。
吉岡弥生は、東京女子医科大学を創立し、我が国の近代医学史に大きな足跡を残した、掛川市出身の医師。

立派な建物の中には、吉岡弥生の医師を目指した経過と功績、結婚、女子に医師の道を閉ざさない、女子医科大学の開校など詳細が展示。(1871-1959)
隣接して「看護学部大東キャンパス」がある。

  

吉岡弥生 生家と長屋門
  

次回は掛川城へ。
   

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