syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

魚津城跡と蜃気楼ロード 

2012-07-28 | 気まま旅
魚津の歴史ある「たてもん祭り」じゃんとこい魚津まつりのメインイベントでもある「たてもん」は、諏訪神社周辺の7町内から7基のたてもんを曳き回し、
航海の安全と大漁を祈願する行事で昔は10基が曳かれていたという。たてもんの名称は、「神前に贄(にえ)を供え捧げたてまつる物」という意味。
これは300年以上も前から続いている、県有形民俗文化財に、1997年には、国の重要無形民俗文化財に指定された。

 
富山県酒は、蔵元 29、名柄 59種あるが、その中でもよく知られているのが「立山酒造」の銀嶺立山であろう。倉庫、事務所が、魚津港、
蜃気楼見晴らし台の海岸沿いにあった。

立山酒造が蔵を構えた、山県西部の砺波平野に開けた扇状地、庄川河畔の最も上流は、豊かな名水が潤す豊穣の大地と聞く。
創業は1830年、井波町新明屋仙助が幕府より酒造株の所持を許可されたことに始まり、明治には酒造石高が県内一位となる約二千石を記録、今では約三万五千石を
有する北陸屈指の蔵元として知られている。
日本三名山の一つ「立山」にちなんで名付けられたその酒は、品質追求の信条を基に、白山に源を発する花崗岩に濾過された清流庄川の伏流水を仕込み水に使用し、
原料米には酒造好適米の最高峰とされる兵庫の山田錦を主とし、北陸地方の代表的な酒造好適米「五百万石」といった良質の酒造好適米を用いて仕込まれている。


蜃気楼ロード展望台にて
    

蜃気楼ロードの「蜃気楼見晴らし台」の小さな公園に、万葉の大伴家持の歌碑があった。
ロードは、早月川河口付近から片貝川河口までの海岸線を走る蜃気楼ロード、ロードのほぼ中央に「懐かしの灯台塚」という展望台がある、
敷地内に越中万葉歌碑「信濃の浜」が建立され、家持がここを訪れた1260年前は、長浜が続く海岸線だったと思われる。


見晴らし台に万葉集家持の碑文   石碑
  

魚津の海は、急傾斜して、一大深層をつくっている。自然が生む三大奇観、幻想的な「蜃気楼」と「ホタルイカ」、太古の歴史をを今に伝える「埋没林」がある。
ホタルイカの群遊海と、埋没林は国の特別天然記念物に指定。
4月〜6月の暖かな日中には蜃気楼、夜にはホタルイカの「身投げ」と呼ばれる現象を見ることができ、魚津漁港に水揚げされる魚は種類も豊富な漁場として広く知られている。

展望台                  富山湾は少々ガスが
    

魚津市、滑川市沖に見られる「蜃気楼」。対岸の風景や海上の船が浮かびあがたり、伸びたりした幻想的な姿が見る事が出来る。
今日は曇空であった。


富山港の漁業市場 港オアシス魚津           ホタルイカの漁獲は      
  

特別天然記念物「魚津埋没林博物館」では、水中保存されている。「水族館」は、ロードを挟んで海より、独特の建物で,240tの
大海洋トンネルがある。有料

  

4-5月上旬観光船で「ホタルイカ」漁を見学できる。滑川観光。


蜃気楼ロードを挟んで「水族館」
  

「魚津城」跡、山城松倉城の出城、上杉謙信築城。

「魚津城の戦い」は、魚津城を早くも包囲された上杉方指揮官の「中条景泰」はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には
甲州征伐を終えた織田軍が駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとった為、兵を出せず救援を断った。
その代わり能登国の諸将、および松倉城主「上条政繁や斎藤朝信」を派遣した。
景勝は、1582年に魚津城救援のため、自ら軍勢を率い春日山城を出発、魚津城東側の天神山城に入り陣を張った。
一方織田軍は二の丸を占拠したため、景勝は魚津城に戦を仕掛けられず、信濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が景勝の本拠、春日山城を
総攻撃する態勢に入ったため、退陣を決断した。
その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から3ヶ月後の6月に落城を悟った
「山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱」ら
上杉方の守将13人が自刃して果て、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。


小学校の中に
  

1537年、前田利家が生れる,幼名:犬千代。 1551年、元服(男子が成人したことを示す儀式)して前田孫四朗利家と名を改める。
1560年桶狭間の戦いに参戦。 1562年、長男利長が1月に誕生する。 1567年、稲葉山城攻めに従軍する。 1569年、織田信長の命で家督を相続する。
1570年、姉川の戦いに。 1575年、長篠の戦いで鉄砲足軽大将として鉄砲隊を指揮する。8月、越前一向一揆の討伐に従軍。
1577年、手取川の戦いにて柴田勝家に従い加賀に出陣するが、上杉謙信に敗北する。 1582年、小丸城を築城する。

1582年、魚津城包囲戦が始まるが、翌日本能寺の変を知って魚津を撤収する。荒山・石動山合戦が始まる、賤ヶ岳の戦いにて、豊臣側につく。

魚津城跡の碑が
    

名将言行禄「上杉謙信」1530-78  武士の鎧の袖を かたしきて 枕に近き 初雁の声

戦陣だは、野営して、武装したまま寝入ったようだ、枕元にありありと聞える、初雁の声、、、、。


歴史が書かれていた             上杉謙信の歌碑とときわの松
    

本願寺は浄土真宗、興山「照顕寺」、魚津城青山家菩提寺。

魚津城の裏にある寺で、「魚津城の戦い」に何等かの関係がありそうである。

織田軍の包囲は80余日におよび、食糧も尽き、救援も得られないまま、守将たちはことごとく玉砕して果てたちである。
魚津城落城の前日、織田信長は本能寺で家臣明智光秀に討たれている。

城の敷地内と思われる古寺
    

 
境内
  


「米騒動発祥の地」の石碑と修復中の旧十二銀行倉庫。旧十二銀行と倉庫(修復後)。(魚津)大町通り正面から
1918年(大正7年)の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うため「伊吹丸」が寄航していたという。
荷積みを行っていたのは十二銀行(北陸銀行の前身)で、その倉庫前へ魚津町の女性労働者ら十数人が集まり、米の船積みを中止し、
住民に販売するよう求め、嘆願した。
この時は巡回中の警官の説諭によって解散させられたが、住民らは集会を始めるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月には
当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。
運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。
住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。これが地方新聞(8月9日高岡新報)の記事から始まり、
全国の新聞に「越中女一揆」として報道されることとなった「米騒動」の始まりといわれている。魚津では阻止する動きはあったものの、暴動は一切起こっていない。

説明板が                蜃気楼ロード沿いの公園内に
  

碑                   黒塗りの米蔵 
      


次回は鹿熊山、松倉城跡方面と向かいます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿