syuの日記・気まま旅

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天下の剣「親不知・子知らず」

2012-07-24 | 気まま旅
新潟市万代橋―長岡ー糸魚川ー北陸三県―京都まで結ぶ「国道8号線」、高速北陸道の最大難所で、我が国初の海上インターチェンジでも知られている
「親不知・子不知」に入った。JR北陸本線「親不知駅」を挟んで西側を親不知、東側を子不知と云う。
この地域、断崖と日本海の波打ち際を、波間を縫って、親子がお互いに顧みる間も無く走り抜けなければならない険しい所であった。

大納言 平頼盛の妻が、「親不知 子は この浦の 波枕 越路の磯の泡と消えゆく」と詠んでいる。
海食崖下には、大ふところ、小ふところ・大穴、小穴がある。昔から現在も避難所としている。

平清盛の弟「頼盛」の夫人が二歳の愛児を波に、、           JR北陸本線・親不知駅       
  

朝日岳は、新潟県、富山県に跨り北アルプスの最北端で、日本海に展望が開け、遠く佐渡島が望める。朝日の名は、朝日が最初に当たる山で、新潟で呼んでいた、
富山県では、エフリガ岳と呼んでいた。標高2418m 黒薙温泉がある。

日本海                 駐車場                       急な崖
    

「歌が浜」聖徳太子が馬と馬子の跡見市兵衛を都へ返し、海岸の大岩に「萬代と波ははたち来て洗えども変はらぬものは水茎のあと」と書き付けた。
馬子の市兵衛はついに都へ帰れず、真宗運晴寺を開いてこの地に永住しました。
その後、太子の歌の横に親鸞聖人が「水茎のあとも遠かれ歌が浜洗ひ流すな八重の白浜」と書き付けた。歌のちねいはこのでんせつからきている。

「水上勉文学碑」小説「越後つついし親不知」の舞台となった地として小説の一節が刻み込まれている。

北陸高速道と国道8号線                    水上勉文学碑
  

次回は

「駒返し」この道は石が崩れ往来が難しく、聖徳太子、木曽義仲など、愛馬を返しと伝わる、駒返しの名は今にとどめている。

「タブの木」枝葉には粘液が多く、乾かして粉にするとタブ粉が得られる。タブ粉は線香や蚊取線香の材料の1つ(粘結材)として用いる、
樹皮や葉は染料に用いられた。


駒返しとタブの木                                   碑                    
    


「大雲寺」の話・・・・親鸞は外波村の神主、大文字屋右近の戸をたたいて「旅の僧ですが、一晩泊めて下さらんか」と頼むと、家の中から
「せっかくですが、お断りします」とすげなくいわれたとさ。親鸞は野宿の覚悟を決め、軒下の石を枕に横になったが、風が冷たく体が冷えきって寝つかれんでおった。
家の中では右近夫婦が、昼間、浜辺で旅の僧を背負って親不知の難所を渡った漁師の話をしておったとさ。右近がなにげなく仏壇をみると、妻の佐野が信仰している
如来様の腰から下がぬれ、足に砂がついて後ろ向きになっておられたとさ。
「もしや、旅の僧を背負って、あの難所を渡ったのは、この如来様だったのでは…」右近は慌てて外へ出、石を枕にして横になっていた親鸞と弟子に
「申し訳ないことを…」と謝り、家の中に招き入れたとさ。 そして夫婦は親鸞のありがたい教えに感服して弟子となり、如来様を本尊として「大雲寺」を開いたそうな。
この如来様は〝立ちすくみ如来″といわれ大雲寺の本尊として大切にまつられているそうな。親不知・外彼の大雲寺に伝わるお話です。、


大雲寺                            境内にたつ親鸞と蓮如像
     

「立すく如来」が漁師の姿に変え親鸞聖人を背負って親不知の難所を渡したと伝わる。

親鸞 1173-1262 浄土真宗の開祖 教行信証・歎異抄 越後に流され、その地で結婚
蓮如 1415-99  浄土真宗本願寺8世 越前に吉崎御坊を建てる、加賀守護より圧迫を受け、京都山科本願寺を建てる。

親不知難所
    


「海亀像ミリオン、パブリックアート」は、北陸自動車道全線開通記念として、全長6m、重さ5t、ブロンズ製海亀像が海を背に親子でパーク広場中央で出迎えてくれた。

パーク広場 休憩所
  

親不知展望台は、国道8号線に、母子像のある展望台が眺望一と云う。明治に絶壁を削り一枚岩に「如砥如矢」掘られて、矢のように通れる所、
明治の英国登山家ウエスットンが訪れ、記念としてブロンズ像のある展望台。名勝・天下の剣、昔も今も変わらない険しい親不知を見るこたが出来た。


国道8号線にある展望台
    


「護国寺」は、県境の静かな山手にたたずむ寺、壇信徒や地元の人々から「石楠花寺」として親しまれ、深い信仰を集めている。
庭園は、住職の高島清祐氏が20年の歳月をかけて、山地の地形を生かした池泉回遊式風に仕上げた名園。
シャクナゲが咲き誇るゴールデンウィークの頃は、県内外から多くの人が訪れ、シャクナゲの後も、ツツジ、サツキ、アジサイと四季の花が庭園のしっとりとした
緑の中に彩りを添える。


護国寺                                            本殿
    

護国寺は、弘法大師によって創建されたと伝えられている。

境内            寺の庭園                     お笑い地蔵
    


「境関所跡」

町の中央の境小学校前にある関所跡の辺をコの字状に海に向かって囲む形で進んで、朝日町立境公民館の北側「境関所跡」と記した大きい板状の石碑が立っている。
資料館、石碑、境関跡、関所の池等があった。1614年に開設。
加賀藩最大の、また日本随一の厳重な警備体制で、役人・武器などは、小さな城に匹敵する武力を持っていた。
街道筋には「岡番所」浜には「浜番所」を置き、陸と海と山から旅人の出入りを監視していた。
徳川幕府は各藩が私関を置くことを禁じ、藩の関所は「口留番所」と称したが、加賀藩では境については幕府と同様に「関所」と呼び領内に6ケ所ある中、区別をしていた。
加賀藩最大の関所で、箱根の関所より大きかったといわれる。加賀藩領に6ケ所、富山藩領に2ケ所の計8ケ所に関が設けられていた。
街道は町はずれに進み、越後の市振の関へとなる。越後の市振の関は、松尾芭蕉が宿に選んだ所で知られている。

境関の館                                             関所跡
    

境小学校跡に関所の池が
    

「境神社」
境の関跡、公民館の小山に鎮座。創建等の由緒不明、町の中心部に鎮座。町役場はすぐそこだ。家一軒分位の社地に本社と末社が鎮座。
若干の木々があるけれど、さほど多くは無い。現在でこそ町の中心地だが、関所のあった昔は、その敷地内であったであろう。

小山の神社からの見晴らしは良かった。

境神社鳥居                            境内から見た日本海
    

参道から階段                                              本殿
   


「境一里塚跡」(越後国境)
旧北陸道の整備・宿駅・1里塚について、街道の整備は江戸幕府がその幕藩体制を保持するために、江戸を中心とする交通体系に改編することによって進行した。
特に1635年の参勤交代制の確立以後、宿駅制度も完備、越中国内での北陸道は、1601年に加賀藩の指令によって並木が植えられ、一里塚も築かれるなど、
着々と整備が進み、1609年に前田利長が高岡に築城し、ここを居所としたために高岡を通る迂回路を開き、1640年に富山藩が分封されてから、
加賀藩は富山城下を
通過しない下街道を「官道」に指定、黒部川流域では渓口部の愛本刎橋を迂回する上街道が開かれるなど、1658から62年にかけての、街道の変遷や新駅の設置された。
当時は、河川を渡るための大きな苦労があった。「往還の松」2間に1株の割合で1里の間の片側830株の割合によって植えられ、道路の清掃や修理などの、
道の管理のため道番人がおかれた。


境国境一里塚跡                                    お亭の看板
    

次回は富山魚津方面へ

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