syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

日光例弊使街道と栃木新聞

2012-05-01 | 気まま旅


ここ栃木市は1884年まで、栃木県庁所在地であった。1591年小山氏の流れの皆川広照城主「栃木城」城下町から商人町転換した。
それは巴波川の内陸水路化が進み、「日光例幣便街道」の宿駅おかれた(1647年)、工業化粘土瓦、石灰、懐炉灰、味噌、酒など、その為蔵造りの
民家が今でも残っている。
市街地中心部に、見世蔵、収納蔵、江戸時代の例弊使街道の宿場街、問屋街の名残りで現在は蔵の街遊歩コースも出来、観光地になっている。

「日光例弊使街道」徳川家康の死後1617年、日光に改葬されたことにより、京都の朝廷は、日光東照宮へ例弊使が遺われ、その街道を云う。
日光街道(国道4号線)とほぼ平行に作られている。

「巴波川」舟運の川で街の中央を流れ、川沿いに問屋、麻問屋、銀行、木材問屋等が建ち並んでいる。

5年に一度の「栃木秋祭り」、江戸、明治の素晴らしい職人の技術を目にする事が出来る人形山車が街を三台練り歩く伝統ある祭りである。
山車会館には、常時展示されている。

    

下野新聞「杤木新聞」は、1878年、栃木市で創刊。「杤木新聞」の編集人であった中田良夫、足尾鉱毒事件で奮闘することになる田中正造(1841-1913年)らが、
自由民権運動を盛り上げようと、第2次「栃木新聞」を再興した。田中正造は「栃木新聞」の編集長を務めた。
1882年には第2次「栃木新聞」と「足利新報」が合併し、第3次「杤木新聞」が誕生。

「杤木新聞」が1884年、県庁とともに栃木から宇都宮に移り、宇都宮の「下野旭新聞」を合併、題字を「下野新聞」と成る。
2008年で創刊130周年を迎え、全国の地方紙の中でも古い歴史を持つ新聞である。

  

「蔵・土蔵」は、日本の伝統的な建築様式のひとつで、外壁を土壁として漆喰などで仕上げられるもの。日常では単に蔵とよばれることが多く、
この様式で作られた建物は土蔵造り・蔵造りなどといわれる。
倉庫や保管庫として建てられるもののほか、保管庫と店舗を兼ねて建てられるものもある。
店舗・住居を兼ねるものは「見世蔵(店蔵)」と呼ばれることもあり、倉庫・保管庫として建てられるものとは分化して発展してきた。

  

  

「あだち好古館」蔵の中には、江戸時代の歌舞伎役者錦絵、喜多川歌磨、安藤広重浮世絵など展示されている。入館料¥400、

  

「山本有三」劇作、小説家。1887年、栃木生まれ。現・日比谷高校から、東京帝国大学独文科卒。
作品、「嬰児殺し」「坂崎出羽守」「同志の人々」「波」「女の一生」「路傍の石」「真実一路」「米百俵」など。

記念館には、有三が愛用した机、いす、原稿などが展示されている。入館料¥200

  

「近龍寺」は、山本有三が眠る歴史あるお寺で、1421年、良懐上人が、城内宿河原に創建したと言われる浄土宗の寺、1588年に現在地に移る。
中国の故事の「鯉が三級の位になると龍になる」ということから「三級山天光院近龍寺」と名付けられたと云う。
明治初期には、県最初の小学校(日惜舎)と師範学校が開設され、境内には子育安産、学業成就の呑龍堂や文豪山本有三の墓があり、参拝者が絶えない。

    

有三は、三鷹、鎌倉住み替えている、文化勲章受章、日本藝術院会員、貴族院勅選議員参議院議員、歴任し、1974年没。



次回も市内に続く。   

最新の画像もっと見る

コメントを投稿