東麻布から芝公園(桜田通り)に出た。「赤羽橋」駅である。赤羽の名は、土器を作る家が多く、土が赤かったことから赤埴と呼ばれていたが、いつの頃からか赤羽となったという。
近くには、芝公園、増上寺、、東京タワーがある。
芝公園「赤羽橋」駅に
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「港区登録有形民俗文化財のお竹流し板・お竹如来の縁起」
寛永年間、江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由家のところの下女お竹は荘内(山形県)出身にして生れつきいつくしみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜ったものを食料としたという。
信仰厚く常に念仏を怠らず、大往生をとげたというこの噺を聞いた5代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金欄の布に包まれた立派な箱にお竹さんが当時使った流し板をおさめて「増上寺別院」であった「心光院」に寄進され、その徳光を顕彰された。
(江戸名所図絵)、三緑山志等に出つ。桂昌院御詠歌に ありがたや光と共に行く末は
花のうてなにお竹大日
一茶の俳句に
雀子やお竹如来の流し元
雲の日やお竹如来の縄だすき
浄土宗 心光院
この交差点、五差路交差点で、交通量は多いが、比較的スムーズに流れている。
東京タワーが
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「妙定院の 災除地蔵尊」は、江戸南方四十八所地蔵尊参 第二十七番。
開創から境内に地蔵堂があり、木造寄木造丈六金箔置の大地蔵尊坐像が安置。延命子育・利益広大と言い伝えられている。
「江戸南方四十八所地蔵尊参」(寛政六年(1794)撰)の第二十七番に列せられ、多くの参拝者でにぎわいました。
妙定寺は、赤羽橋すぐ 地蔵尊 幹線道路
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「妙定院」は、1763年、徳川九代将軍家重公を開基と仰ぎ、三縁山増上寺四十六世妙誉定月大僧正によって開山。寺号は増上寺、
増上寺の別開蓮社また別院として位置付けられて、六時勤行・念仏不断の道場であり、また当時山内五十一ヵ寺中、明蔵(一切経)を有し仏典研究の中心的存在、浄土宗の准檀林の寺格を持った、念仏道場・学問研究の名刹として知られ、
東京名所四十八景の一として人々に親しまれ、近くには東京タワーはじめ近代的な高層建築や高速道路がある一方、芝公園内にあって濃い緑に囲まれた環境の中、境内にも、多くの保護樹木などでおおわれた庭園も持ち、都心の安らぎの地となっている。
本尊は、安阿弥(快慶)の作と寺伝の伝える、稀少な「裳かけ阿弥陀如来像」。
山門 本殿
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「大門」は、港区の北東部、芝公園付近の通称であったが、現在は、芝大門地区を言っている。増上寺の表門である「大門」、江戸の中心
市街の南端に位置し、芝大神宮(神明宮)の門前町として賑わっている。
都営浅草線・大江戸線とビジネスの街として発展。
赤羽橋から「大門」へ
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この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭和12年に作られた、コンクリート造のものである。
増上寺の 三解脱門は、重要文化財 - 戦災をまぬがれた建物の1つで、1622年建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。
この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。
内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。
大殿は、 昭和49年(1974年)の再建。徳川家霊廟で、増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。
増上寺の 大門
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寺には、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭。
1680年に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。
また元禄14年(1701年)に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品「忠臣蔵」で有名。
畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥。
江戸時代の増上寺冬景色
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「芝大神宮」は、港区芝大門一丁目に鎮座する神社。一時期准勅祭社とされた東京十社の1社で、旧社格は府社であった。
祭神は、天照皇大御神、 豊受大御神。創建は、古く1005年、本殿の様式は、神明造。別名に芝神明宮・飯倉神明宮・関東のお伊勢様
例祭ー9月16日、神事ー半鐘祭(2月3日)、 だらだら祭り(9月11-21日)、 貯金祭など。
芝大神宮 狛犬 拝殿
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光が丘から20番目の汐留駅は、高層ビル街の地下
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「汐留」は、港区北東部浜離宮庭園(中央区)と国道15号線に挟まれた地域で、東新橋にあたる。
江戸時代は、潮の寄せる葦の沼地、汐留川隔て武家屋敷が、汐留川は赤坂見附が源で物資輸送で活躍した川。
1872年日本初の鉄道が開通し大きく発展(烏森駅)し、JRの敷地で占められていた。
大門ー汐留駅
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汐留ビルディングが、東急不動産、三菱地所、三井物産、平和不動産から開発資金を集め、東急不動産と 三菱地所が共同して開発したビル、巨大再開発地区「汐留シオサイト」として再開発が
変貌した汐留ビル街
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「築地市場駅」
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築地市場マグロ卸売場の見学は、見学者の安全等を考慮し、見学方法を定めている。
見学者数(定数)120名(先着順)、 見学者数が定数に達し次第受付を終了。見学者受付は、「おさかな普及センター」1階 (勝どき門入り口横)。)受付時間 午前5時より、見学者受付は、当日、受付時間に「おさかな普及センター」1階に来られた方のみ。
外人客が増え人気。
築地市場
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「浴恩園跡」は、築地中央卸売市場の地に、天下の名園といわれた浴恩園があった。
園は、1792年 白河楽翁公(松平定信)が1万7千余坪の土地を得て隠居した地で、園内には春風池、秋風池、池を囲む築山などがあり、まさに塵外の別天地といわれている。
旧園の跡は、関東大震災で消滅し、その面影を刻んだ銅版画のみが市場内に保存されている。
オフイスビル街に 浴恩園跡地、、、、、、、、江戸時代松平定信
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次回は、勝どき方面へ。
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