syuの日記・気まま旅

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富士山の伏流水柿田川と三島と文学

2018-11-28 | 気まま旅
柿田川といえば狩野川水系の一級河川である清流として有名。
柿田川はこの柿田川公園の『わき間』から始まっている。
柿田川、名水百選にも選ばれる全長約1.2kmの清流、 多くの自然を保っている柿田川公園は地域住民の憩い・癒しの場所として、また観光地として親しまれている。
自然がいっぱいの柿田川ー水温は一年を通して約15度前後で安定し、またミシマバイカモなどが有名。
柿田川湧水郡は名水百選にも選ばれる名水で、湧水量は日に70万トンから100万トン程度で東洋一を誇っている。
三島は、北東部に箱根連山西斜面と西部に愛鷹山東斜面と東に境川・西に黄瀬川が流れ両河川の扇状地上に市街地が広がり、地方行政の中心地。
江戸時代下田街道の分岐点「東海道宿場」と箱根越えの拠点と代官所として栄た。

                富士山の伏流水の湧水地が多いところ「三島は水の都」


三島駅南口広場「白滝公園」を過ぎると左手にゆったりと流れる「桜川」。右手には柳の木と大岡信から始まった文学碑が、
宗祇(1421年~1502年)、正岡子規(1867年~1902年)、十返舎一九(1765年~1831年)と続く。

室町時代の連歌師、宗祇は、古今和歌集の解釈を秘伝として継承する“古今伝授”を三島の地で、
その時に詠んだ句の「すむ水の 清きをうつす 我が心」が文学碑が、

       桜川の「水上通り」を三島神社に向かって行くと三島を題材にした文学碑が並んでいる。


「白瀧観音堂」
お堂は、平安時代末からここ水上の地に在って、観世音菩薩が祀られ、白いしぶきを上げながら瀧が落ちていたところから白瀧観音と尊称されたと伝えられる。
江戸時代現在地に移り、一時荒廃したものを常林寺17世達玄大和尚これを見出し寺内に拝し奉祠されたとある。



「正岡子規」
三島の町に入れば 小川に菜を洗ふ女のさまも やや なまめきて見ゆ
面白や どの橋からも 秋の不二
  
               「旅の旅の旅」(明治25年(1892)作)より


「十返舎一九」 1765-1831 滑稽本戯作者 駿府同人の子 38歳で代表作「東海道中膝栗毛」弥次喜多道中記20年間続編刊行された。
「この世をばどりゃおいともせん香とともにつひには灰さようなら」辞世の句

日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、布袋腹の淋しくなりたる故にやあらん。
 このとき、ようやく三島の宿へとつくと、両側よりよびたつる女の声々・・・
女「お泊まりなさいませ、お泊まりなさいませ」弥次「エエ、ひっぱるな、ここを放したら泊まるべい」女「すんなら、サア、お泊まり」弥次「あかんべい」
・・・喜多「いい加減に、此所へ泊まるか」女「サア、お入りなさいませ、お湯をお召しなさいませ」弥次「ドレ、お先に参ろう」・・・と、はだかになりてかけ出す。
女「モシ、そこは雪隠(せっちん)でございます。こっちへ・・・」
弥次「ホイ、それは」と湯殿へゆく・

            東海道道中膝栗毛(享和2年(1802)初刊


カモ・コイ・淡水魚ハヤ、水草と整備された柳並木の遊歩道。
文学碑は、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉(1644年~1694年)、旅を愛した歌人・若山牧水(1885年~1928年)、坂の上の雲などの歴史小説を手掛け、随筆・評論の司馬遼太郎(1923年~1996年)へと碑が続いている。

作品だけではなく三島との関係が深い文学者たちの碑も


 
「若山牧水」
宿はづれを清らかな川が流れ
其処の橋から富士がよく見えた。
沼津の自分の家からだと
その前山の半ばを隠しているが、
三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、
富士のみがおほらかに仰がるるのであった。
克明に晴れた朝空に、
まったく眩いほどに その山の雪が輝いていた。
  
               「箱根と富士」(大正9年(1920)作)より


                            桜川


「一遍」 1239-89 時宗の僧 伊予豪族 河野通広の子 証空の弟子 念仏札を配り全国を巡り教えを説いた。「南無阿弥陀仏」

「西福寺」 時宗の寺
1282年、教えを広めていった一遍上人が三嶋大社を訪れた際に、7,8人の従者が同時になくなりこの地の高台に葬られたと云う。
当時は、お念仏の道場水上道場と呼ばれ、1309年一遍上人の弟子の通年によって「西福寺」が開かれた。
三島市のお寺の中でも古い、山門を入ると右手の地蔵堂に祀られている成就地蔵尊・南北朝時代南朝側の天皇家の方(尊観親王)が西福寺の第6世になり、南朝の復興を願って地蔵に祈りを捧げたといわれている。
地蔵尊には菊の御紋があり、お勤めをする畳の台は二畳台(武将や高貴の方が座られる畳・普通より高い)が今でも使われている。
本尊の阿弥陀如来立像は慶派の作「県文化財」。



                       桜川に沿って 寺正面 


「司馬遼太郎」
この湧水というのが、
なんともいえずおかしみがある。
むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、
溶岩流が奔(はし)って、いまの三島の市域にまできて
止まり、冷えて岩盤になった。
その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のように
そのすきまに多くの水脈をつくった。
融けた雪は山体に滲(し)み入り、水脈に入り、
はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の縁辺(はし)
である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。

小説新潮昭和61年(1986)2月号掲載  「裾野の水、三島一泊二日の記」より


                     歌集の 卓上の灯 


町中を水量たっぷりの澄んだ小川が
それこそ蜘蛛の巣のやうに
縦横無尽に残る隅なく駆けめぐり、
清冽の流れの底には
水藻が青々と生えて居て、
家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、
台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて、
三島の人は台所に座ったままで
清潔なお洗濯が出来るのでした。
  「老(アルト) ハイデルベルヒ」(昭和15年(1940発表)より 

太宰 治 1909-48 青森津軽の大地主で封建的家庭で育つ、 弘前高から東京帝大仏学科 人間失格など


                  ジンタの音 小出正義の碑                    


                   大小の瓢箪が軒下に

 
穂積忠 歌集より  町中に 富士の地下水 湧きわき 冬あたにかに こむる水もや。 昭和30年


「桜川」
菰池や白滝公園を水源とする桜川は、三ケ所用水とも呼ばれ、旧三島宿・錦田村字中・旧中郷村字中島の三カ所の農業用水。
農業用水としての利用が主であるため、横浜ゴム付近で複雑に分水されている。
それぞれ中、藤代町、森永製菓南の耕地などへ導水され、流末は、大場橋付近で暗渠になっており、梅名橋付近から御殿川に流れている。
白滝公園付近には”はや”が生息しており、川沿いを歩く人が、白滝公園は昔から「水泉園」と呼ばれ、富士の湧水にふさわしい地名。



               三島水辺の道「碑」 三島駅前の楽寿園・白滝公園~三嶋大社まで。


源頼朝は、流された蛙ガ小島からここ三島神社で「百日祈願」しいる。

                             頼朝の井戸                         



「三嶋大社」

伊豆国一宮。三島明神とも称した。
祭神は、大山祇命と事代主命、創建ははっきりしていないが平安初期には文献に。                      
江戸時代は、朱印地530石を領有した神社。
境内には、天然記念物金木犀が、資料館に頼朝らの歴史資料が展示されている。北条政子奉納の「梅蒔絵手箱」・頼家筆の般若心経など。

源頼朝・北条政子腰掛石がある。 治承4年に源頼朝が平家追討の心願をこめて百日の日参をした時に、腰をかけて休憩したと伝えられている。
向って左側の石が源頼朝、右側の石が北条政子が腰掛けたと云うが。?
                         


                        参道入口


                          中門


                          社殿

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