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北陸の旅 松本から糸魚川

2012-07-22 | 気まま旅
夏の前に北陸3県を回る旅に出ました。しばらくお付き合いください。
長野県松本からスタート、新潟県糸魚川、富山県、石川県、福井県と回ります。

長野県松本市塩尻から新潟県糸魚川市を結んでいるのが、「塩の道」千国街道、国道148号線、JR小糸線の山岳地帯。飛騨山脈、筑摩山脈、乗鞍、
白馬岳に後立山連峰と、梓川、犀川、高瀬川が合流して信濃川。その後、水力発電地帯となりダムの銀座と云われている山、山である。

長野県大町は、電源開発建設基地となった、黒部ダム、高瀬ダムなど。この街道は、北陸と信州の水産輸送路で、古事記、万葉集に、ヒスイ峡で詠われている。
現在は、大糸線と並行して全舗装の国道148号線で松本ー糸井川間2時間足らずで走れ便利になっている。

国道148号線
 

安曇野は、常念山脈を水源とする犀川、穂高川、高瀬川が形成する扇状地が重なり合った複合扇状地の扇末部に位置。
安曇野の至るところから地下水が湧き出しており、その水量は日量70万tと言われ、安曇野の名産であるワサビやニジマスを育てている。
名水百選に選定され、平成7年には、水とロマンあふれる安曇野として水の郷百選に。

「穂高連峰」は、奥穂高岳、涸沢岳、北穂高岳、前穂高岳、西穂高岳などの峰々からなる。
主に長野県松本市と岐阜県高山市の境界に位置し、主峰は奥穂高岳であり、長野県 (信州) と岐阜県 (飛騨) の最高峰。
北は大キレットの峻険な登降を経て、南岳、大喰岳の先の槍ヶ岳に連なっている。

「穂高神社」は、仁科濫觴記によれば、653年に、「皇極ノ太子」(天武天皇に比定される)によって建立されたとある。
それによると、この地が「安曇郡」の名の起こりとなった保高見ノ熱躬の舎跡であったことから、「保高(穂高)神社」と呼ばれるようになった。
祭神は、本宮中殿に穂高見神、別名「宇都志日金析命、左殿に綿津見神、右殿に瓊瓊杵神、別宮に天照大御神、若宮に安曇連比羅夫命、
相殿に信濃中将(御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる)を祀る。
 
穂高神社
    

「安曇族」は、古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。
古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州の志賀島一帯から離れて全国に移住した。 
  


安曇族は九州に進出後、海流にのって太平洋岸、または日本海側を移動しこの地に移動したといわれている。
太平洋岸または一部紀ノ川などをさかのぼって伊勢湾にで、渥美半島をとおり、大鹿村、高遠、諏訪をとおり安曇野に進出した人たちもいたと云う説もある。


  

千国街道、塩の道は、 松本宿、 成相新田宿・安曇野、 保高宿、 池田宿、 大町宿、 海ノ口宿、 沢渡・佐野宿、 飯田・飯森宿、白馬村、 塩島新田宿・白馬村、
千国宿・小谷村、 来馬宿小谷村、 大網宿(小谷村に塩庫が現存)、 山口宿・新潟県糸魚川、 糸魚川宿。
信濃側では糸魚川街道、越後側では松本街道と呼称され、沢渡宿と佐野宿、飯田宿と飯森宿は併せてひとつの宿として機能した。
千国街道は積雪3~5mに及び道が険しく、牛を引く業者の牛方が、7頭の牛を引いて運んだという。

三州街道は、長野県塩尻ー愛知県までを云う。

  

越後の上杉謙信は、「争うべきは弓箭にあり、米・塩にあらず」として、糸魚川の浜塩(北塩)を取りにくるように命じた、という。
この話しが「敵に塩を贈る」美談のもとになったが、これは逸話。
糸魚川の北塩は、それ以前から松本地方の市場に運ばれていた、上杉鎌信がことさら塩の流通を停止させないかぎりは、自然に品物が流れていっただけのことらしい。
小谷村の番所、山口にあった関所は自由開放で、「塩どめ」の記録はみあたらないと云う。

                                      青木湖
  

大町市仁科三湖、青木湖、中綱湖、木崎湖は、148号線で、北アルプスを望み、三湖は繋がっており、農具川、稲尾沢川から高瀬川に至る。
湖の大きさは、周囲約6.5kmと小型であるが、水深で青木湖は58m、湧水量も多く、透明度が高い。

中綱湖                                    木崎湖
  

新潟県南西部姫川の西頸城地方の中心都市糸魚川に入る、信州への塩と水産物輸送路「千国街道」の起点である。糸魚川は、日本唯一の「ひすい」の産地でも
知られている。
意外に知られていないのが、象の話、象と云えば熱帯動物であるが、しかし一万年前滅亡した、「ナウマン象」が、30万年前にわが日本に渡っていたという。
旧石器人に全て食べつくされてしまった。それが、フオッサ・マグナの西の線。糸魚川ー静岡構造線で、糸魚川市は、その北の起点である。

JR糸魚川駅
  

街中央に「加賀の井酒造」がある。ここは、現存する江戸期から酒造りをしていた蔵。
1650年 小林家二代目の九郎左ェ門が古賀坂家から酒屋を譲り受け、酒造りを始める、 1652年 小林家敷地内に加賀藩糸魚川本陣が置かれ、
前田利常が献上された酒をいたく気にいり、加賀国でないのに加賀の字の使用を許された。
酒銘を「加賀の井」とし、小林家は本陣の役と糸魚川の町年寄を兼ねて、幕末まで踏襲した。酒造りは現存する敷地内の蔵(現在は出荷蔵として使用)でおこなわれていた。
1782年以降、加賀藩、大聖寺藩、富山藩の宿泊記録とともにたびたび酒が献上され、藩主や家老の献立にも用いられたことが記録に残っている、
明治以降も前田家に献上されていた。

前田利常 1593-1658 利家の四男 農政改革推進 藩政基礎確立、幕府・幕閣には奇行を繰り返し油断させている、名君であった。

並びの寺「経王寺」境内に牛を繋ぐ石があった。

  


「経王寺」
寺の創建年は不詳、1596年に日言上人が中興開山した日蓮宗の寺院。
経王寺の梵鐘は天津神社の別当だった宮神宮寺が所有していた、天津神社は江戸時代以前は神仏混合の形態を持っていたが明治時代初頭に発令された
神仏分離令により宮神宮寺が廃寺となり梵鐘は経王寺に移された。
鐘楼の銘文には永享4年と刻まれていて製造年代が明確のものとしては新潟県最古の梵鐘と言われている。中世の文化を今に伝える貴重なものとして、
新潟県指定文化財に指定。


  

                        本殿
  

加賀の井酒造 
    

糸魚川駅前通りを背に進むと、海岸に出た。ここが国道8号線である。右に行くと新潟県上越高田方面、左が富山県魚津方面でハンドルを左に切り、姫川橋を渡る。

国道8号線
    

1200年前の玄武岩の地層、大断層の露頭が海岸に飛び出す、「親不知・子不知」富山県に向かう。

糸魚川から富山県「親不知」へ向かう
  

次回は魚津方面へ。

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