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syuの日記・気まま旅

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哲学の江戸川 江戸時代から今に伝わる土木工事 

2018-07-23 | 気まま旅

「江戸川」
徳川家康が江戸に入府する前には渡良瀬川の下流の「太井川」と呼ばれる川で、入府後、江戸に流れる当時の利根川を太井川に流れるようにつけかえる
治水工事が行われ、太井川は利根川と呼ばれるようになり、さらにその後の治水工事で利根川が銚子の方を流れるようになり、利根川の支流となって江戸川とよばれるようになった。
今上落を介しての水田へ水の供給、そして水運に利用され、流山橋の少し上流の川の中に旧流山橋の橋脚基礎を見ることができる。
旧流山橋ができる以前は松戸と金町を結ぶ「矢切の渡し」と同様な「丹後の渡し」といわれる渡し船が運行されていた。
川の水位が低くなると昔の船着き場の杭と思われるものが顔をのぞかせ、江戸川による水害を防ぐために現在の江戸川の堤防が建設され、流山広小路の
今上落沿いにあった水運によってできあがった街並みは大きくかわったと云う。
現在の南流山も区画整備事業が行われる前は新川耕地と同様に一面、水田地帯に。

                兵舎の跡地の「千葉商科大学」が。桜並木が見事な校庭


陸軍教導団と野砲兵部隊がおかれた国府台・市川市の国府台には、明治時代に大学をつくろうという構想があった。
用地買収など、ある程度具体的な動きになっていたのだが、それは、通勤、通学の便などの理由から中止となったと云う。
国は、その用地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設した。
1885年の明治18年、のことで、明治18年、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。
教導団病室も真間山弘法寺内に仮設され、同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、その教導団病院は現在の国立精神・神経センター
国府台病院である。

明治5年・ 東京教導団兵学寮病室として創設。明治32年、国府台衛戊病院と改称。昭和11年、 国府台陸軍病院が。昭和20年、厚生省に移管して、
国立国府台病院発足。昭和28年、 附属高等看護学院を設置され、 昭和34年に、市川市立伝染病棟を併設。
一時教導団病院のあった「里見公園」
                 千葉商大90周年の旗が        


教導団が廃止になった後、跡地に野砲兵第十六連隊が開設され、この連隊は、1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争に出陣し、旅順の要塞攻撃や奉天大会戦に参加して目覚ましい活躍を行ったとある。
1908年の明治41年、野砲兵第十五連隊が国府台に置かれ、大正8年、野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。
野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となったと云う。
砲兵隊の機械化に伴い、野砲兵から野戦重砲兵と改編される部隊が出てくるが、日露戦争時の独立野戦重砲兵連隊が、旅順、奉天会戦に参加後改編され、大正7年、初めて野戦重砲兵第一連隊と称し、大正11年、国府台に駐営するなど、大正期の終わりから昭和にかけて国府台には野戦重砲兵第一・第七連隊、高射砲第二連隊が配備、これだけ、多くの陸軍部隊が配備されながら、実際に残っている遺構はわずかである。
松戸街道から里見公園方面へ向う道路は、通称「裏門通り」と呼ばれ、野砲兵第十六連隊(後に野戦重砲兵第七連隊が同じ場所に入った)の裏門があった。その裏門跡に、わずかに裏門関連の遺構と考えられるレンガ塀の一部が残っていると云う。
旧軍関係の施設、設備の残欠で残っているのは、旧千葉県血清研究所となった武器庫の建物を除けば、それくらいか。
日清、日露両戦役とその後の権益獲得は、日本帝国主義のアジア侵略の大きな布石となったが、その武力発動の一つの基地に、国府台はなっている。
真間山弘法寺には伏姫桜という大きな枝垂れ桜の木があるが、その根元に近い場所に、小さな「国府台砲兵之碑」が建っている。
一方、国府台にあった国府や古墳群、国府台城などの遺跡は、戦後の学校建設や住宅開発などによる影響もあるが、明治期から陸軍が駐留してきて、兵舎などの施設の建設、錬兵場の整備などで、土地が掘り返されたために、かなり破壊されと云う。
特に国府台城の土塁、空堀といった地表面にある遺構は、明治期からの陸軍教導団、野砲兵連隊の駐留、戦時中の高射砲陣地敷設等による改変を受け、江戸期に書かれた絵図と比較しても、原形を留めていない部分が多々ある。
明治期以来、陸軍の下士官養成を行ってきた教導団の廃止とそのあとを受けた陸軍野砲兵連隊の開設、大正8年以降も変遷があったが、昭和20年、の敗戦になるまで、国府台界隈の松戸街道沿いは「軍隊の町」として栄えていたのだ。

                         校舎


昭和2、文学博士「遠藤隆吉」が、金45万余円を出資して財団法人巣鴨学園を創設するとともに、巣鴨高等商業学校設立の認可を申請。昭和3、文部省告示第51・52号をもって巣鴨高等商業学校を東京府下西巣鴨町に設立する。
昭和5、高等学校高等科若しくは大学予科と同等以上と指定される。昭和19年、認可され巣鴨経済専門学校と改称する。
昭和20年、戦災により、校舎及び全施設焼失のため、千葉県津田沼町鷺沼 に位置変更。
昭和21年、市川市国府台、現在地に移転 。昭和25年、商学部商学科を開設。・・・・。単科大学として伸びている。

                          校舎 


                         球技場 

 
                        中央並木通り


                 全国大学対抗簿記大会で団体戦トップ4位独占・5連覇。 


「国府台神社」
下総台地の最西端、江戸川を隔てて都に向かい合うこの地域は、市川市でも古い歴史をもつ。
国府台には法皇塚古墳が現存し、国府台の地名は、下総国府が置かれたところから付けられた。
国府台と並んだ国分の台地には、聖武天皇の国分建立の詔によって国分僧寺と尼寺が建立し、市川市の西部地域は、下総国における政治と文化の中心地。
平安時代の中ごろには、平将門の乱をはじめ、平忠常の乱などによって国守の力が衰退していき、「源頼朝」は、治承4年源氏の再興を願って下総国府に入り千葉常胤、平広常などの援助のもと兵を集めて鎌倉に向かいます。国府台は、源氏再興の出発点となったところ。
戦国時代、太田道灌が国府台に城を築き、その後、この城は里見、北条両氏の古戦場として知られる所「里見公園」。

                      歴史を感じる「国府台神社」




                           拝殿


「江戸川」は、
茨城県五霞町・千葉県野田市で利根川から分かれ、茨城県・千葉県・埼玉県・東京都の境を南下して東京湾に注ぐ、流路延長約60kmの川。
流域面積約200km2の一級河川ー左岸、千葉県市川市、松戸市、流山市、野田市、右岸には、都江戸川区、葛飾区、埼玉県三郷市、吉川市、松伏町、春日部市(旧庄和町)、杉戸町、幸手市、茨城県五霞町をかかえ、首都圏の洪水防御、生活用水の水源の安定的な確保、都市に残された貴重なオープンスペースとしての河川空間など重大な使命を担っている。
現在の江戸川の流れは、利根川水系の河川改修工事に伴い江戸時代初期に誕生したもので、当時から「江戸の運河」として舟運に盛んに利用され、主要な水上交通ルートとして栄えてきた。
                    私は、江戸川を「哲学の川」と呼んでいる。


         なぜが、塩・万葉集・食料・文人・画家・人生・野菊・渡し・関所・鎌倉幕府・・・・・・。










                    途切れることなく江戸川は、東京湾に向かって。


「水神宮」




「胡録神社」
行徳の街の鎮守様である「胡録神社」。行徳は製塩が盛んな地域であったため、天候に恵まれ塩が多くとれたことを神に感謝するため江戸時代より祭礼が盛大に行われていたようだ。今でもその伝統が残り、3年に一度の盛大な祭礼が行われている。雄と雌の獅子頭が町内を練り歩き、樽神輿・大人神輿・子供神輿の渡御も行われるなど、盛大なものだ。





「極楽寺」-真言宗豊山派の寺。
                        神社と隣り合わせている。




これで千葉県は終わります。