医王寺、1575年長篠の戦いが勃発、武田勝頼の本陣が布かれた。医王寺山の頂上からは設楽原が一望、長篠城も良く見える。
長篠城の後詰に織田信長と徳川家康の連合軍が現れたとの報を受けると、山県昌景や馬場信春などの諸将と軍議が開かれ、連合軍との決戦が採択された。

この日池の水は凍っていた。

山門前の弥陀が池には、勝頼の設楽が原出撃を諌めたアシが、勝頼の勘気ににあって切りつけられ、
片葉になったという「片葉のアシ」が生えている。


天神山陣地は、医王寺山の武田勝頼の本陣より南側の山で、長篠城攻略の際には一条信龍、真田信綱、昌輝兄弟、土屋昌次ら二千の軍が陣地を置いたところ。
東方に長篠城を望み、西方に設楽原方面を監視できる要衝です。
元禄11(1698)年、旗本一色氏が旧領から荏柄天神社をこの所に移した。それより天神山と言うようになったそうです。



大通寺山の盃井戸
長篠城跡の北端に接した大通寺山には、盃井と呼ばれる泉があり、長篠の戦いの時、武田方の馬場信房・山県昌景・土屋昌次がこの泉を汲み、
別れの水杯を交わしたと言われている。


信玄塚
設楽原の激戦により村から非難していた村民たちが帰村後散乱していた名前もわからない武者のなきがらを埋葬し塚を築き弔ったところ。
当時すでに信玄は没しており戦いには参加していないが、信玄の威名が武田氏の代名詞だったことがうかがわれる。

医王寺、大通寺、絵柄天神社などを見て歩くと、ここで武田軍が軍議をして、盃を酌み交わし敗戦となったところ・・・。と歴史を考えると、感無量。
次回は家康陣地。
長篠城の後詰に織田信長と徳川家康の連合軍が現れたとの報を受けると、山県昌景や馬場信春などの諸将と軍議が開かれ、連合軍との決戦が採択された。

この日池の水は凍っていた。


山門前の弥陀が池には、勝頼の設楽が原出撃を諌めたアシが、勝頼の勘気ににあって切りつけられ、
片葉になったという「片葉のアシ」が生えている。


天神山陣地は、医王寺山の武田勝頼の本陣より南側の山で、長篠城攻略の際には一条信龍、真田信綱、昌輝兄弟、土屋昌次ら二千の軍が陣地を置いたところ。
東方に長篠城を望み、西方に設楽原方面を監視できる要衝です。
元禄11(1698)年、旗本一色氏が旧領から荏柄天神社をこの所に移した。それより天神山と言うようになったそうです。




大通寺山の盃井戸
長篠城跡の北端に接した大通寺山には、盃井と呼ばれる泉があり、長篠の戦いの時、武田方の馬場信房・山県昌景・土屋昌次がこの泉を汲み、
別れの水杯を交わしたと言われている。




信玄塚
設楽原の激戦により村から非難していた村民たちが帰村後散乱していた名前もわからない武者のなきがらを埋葬し塚を築き弔ったところ。
当時すでに信玄は没しており戦いには参加していないが、信玄の威名が武田氏の代名詞だったことがうかがわれる。


医王寺、大通寺、絵柄天神社などを見て歩くと、ここで武田軍が軍議をして、盃を酌み交わし敗戦となったところ・・・。と歴史を考えると、感無量。
次回は家康陣地。