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伊勢・田辺城 発掘調査現地説明会。北端の横矢掛りの土塁、虎口、堀のスケールに感動

2020-11-05 | 歴史

田辺城は三重県いなべ市北勢町田辺にあります。
 田辺城は天正十四年(1586)に織田信雄配下の木造氏によって築かれたとされます。主郭周辺部の遺構の残りがよく、何度も訪れた城趾ですが今回は発掘調査現地説明会で訪れました。
 新型コロナの影響で、検温と連絡先の記入をしてから今回の調査区に入りました。密集を防ぐため、まとまっての説明はごく短時間で、現場の係の方に質問して説明していただく形式でした。
 今回の調査区は主郭の北側の、屋敷地とされる部分で、地形的に城域の北限と考えられていた場所でした。

現地周辺の地図に旧道を重ね合わせた図
 田辺城周辺の現在の道路は明治以降に開通したようで、明治の地図を見ると、図1の赤線で書き加えた道Bになっていました。往時は、今回発掘調査で確認された北辺土塁の北虎口を通って往還Cに入る道Aだったようです(図1、2参照)。
 調査区周辺は近世以降の開墾によって耕作地化され表面が削られた可能性が考えられるようで、城郭遺構と耕作地化の遺構が重なっている部分がありました。


田辺城 発掘調査現地説明会資料 国土地図と重ね合わせて一部加筆
 田辺城が稼働していた時期の遺構と近世以降の開墾、現代の道路などで、いわゆる「攪乱」がありますので、見分けが難しい部分については「○○か?」と資料がなっていました。
 北虎口と左右の土塁、横矢掛り、城道など残されている部分は明確で見ごたえがあり、係の方の説明にも力が入っていました。
 今回の調査区の現在の道路を挟んだ西側ア周辺も気になりましたのでお聞きしたところ、試掘で今回の遺構が連続しているとみられるとのことでした。


田辺城 屋敷地の往還Cは幅が12~16mあった?  
 図1の城道Aは北虎口を入ると往還Cに出ます。左右の屋敷地には虎口または土橋で屋敷に入る構造だったようにみえました。屋敷地は四囲を土塁で囲まれていたようですが、往時の土塁の高さは明確ではないようでした。往還の中には後世の道が2本通っていたようです。往還の東側には溝がありますが堀なのか雨水の水路なのか判断が難しそうでした。この溝を渡るための土橋がありますが、雨水の水路だったとすれば往時は橋があったのかもしれないと思いましたが、どうでしょう。


田辺城 土橋   往還から土橋を渡って屋敷地へ入る 黒い点線は轍のように見える
 往還の東側には溝があり土橋で屋敷地へ入るようになっていました。轍のように見える並行の溝がありましたが、耕作地のときの荷車の轍かもしれないと思いました。溝の間隔は、ほぼ軽トラの車輪幅だそうですが、さすがに軽トラは無理がありそうですね。写真奥の円で囲んだ部分は土塁の端にある土坑です。南側にも同様な土坑がありますが、その目的は不明だそうです。


田辺城 北辺の堀2 奥に北虎口からの傾斜のある土橋が見える
 北虎口を出ると、傾斜のある土橋がありました。図2の堀2の東端部が写真で見えますが、堀2はここまでで掘止めだそうです。北側の防御は地形的にここまでで良かったのではないかと説明がありました。土橋は地山の削り残しだと思われますが、左手の切岸と同様に礫だらけでした。


田辺城 北辺の大規模な遺構 土塁を伴った切岸の高さは6m以上 横矢掛りの遺構が見応えあり!  土橋(東)から
 北虎口を出ると傾斜のきつい土橋があり城道は左(西)に折れて広い土塁上を進みます。堀1と左手の切岸の高低差は6mを超える壁になっていて圧巻でした。土橋から見ると⑥横矢掛りの遺構がバッチリでした。
 城道は土塁④の上を西に進みますが⑦の部分では土塁が切り欠かれ、土塁の食違いも見えました。切り欠き部には木橋がかけられ戦時には取り外されて敵の侵入を阻止する仕組みだったと考えられるとの説明がありました。
 堀⑧の部分は横矢掛りに伴って折れと段差があり、侵攻速度を落として上からの攻撃を容易にする仕掛けとなっていました。


田辺城 北辺土塁⑩ 西から   塹壕状の窪みがある      右手下に新しい溝(道路跡)か?
 北辺の守りはこの土塁によって作り出される高くて急角度の切岸が要になっていました。土塁上に見える塹壕状の窪みは土橋から虎口へ侵入する敵を上から攻撃する設備だったのかもしれませんね。
 耕作地として利用された後、植林が行われたらしく樹木の根がすごいです。


田辺城 北端部の外側は緩斜面②で緩やか 場内側からの見通しを良くするため?   東から
 北辺の堀と城道となっている土塁の北側の斜面は緩やかでした。場内側の土塁上から堀1、堀2越しに見下ろすと、斜面を北から侵入する敵は隠れることができないので場内から攻撃しやすかったと考えられるとの説明でした。土塁⑩から見下ろすと、説明に納得でした。


田辺城 調査区の表土は薄く、地山は礫だらけ 耕作地として利用に苦労した?
 以前からある田辺城の縄張り図には、今回の調査区のおおよその遺構地形が描かれていました。発掘調査でその理由が薄い表土だからと確認できました。付近の地山は洪積台地が隆起した土地だそうですので、多くの礫を含んだ土地でした。ここを開拓した人たちは佐目(滋賀県多賀町)方面から来た人たちだそうですが、随分苦労して開拓したのではないかと想像しました。


田辺城 焼土坑 土坑の壁面に焼け跡が残る 土が乾燥して見にくくなっている
 発掘調査の対象となった面積は広いのですが、遺物は少ししか出てこなかったそうです。開墾したときに城郭遺構を削って平坦にした可能性があり、その時遺物も取り払われた可能性があるとの説明でした。発掘調査でよく見かける土坑がいくつかあり、なかには焼土坑もあり土坑の壁面が変色しているのを確認することができました。

今回の調査区では広い往還と土塁囲み屋敷地と思われるいくつかの区画と入口部分を確認することができました。更に北辺の分厚い防御態勢の土塁、横矢掛り、屈曲し切り欠きを設けた城道なども見学することができて大満足の発掘調査説明会でした。

※今回は東海環状自動車道建設に伴う発掘調査ですので、もうしばらくすると遺構は消滅します。