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加賀・和田山城 古墳を取り込んだ見どころの多い城郭。加賀一向一揆関連の城

2020-09-08 | 歴史

和田山城は石川県能美市和田町にあります。
 和田山城は「和田山・末寺山古墳群」の所在する「くの字型」に曲がった尾根の南部に築かれていました。伝承では永正三年(1506)に和田坊超勝寺によって築かれたとされます。その後、織田信長の加賀侵入により和田山城も織田軍の支配下となり、柴田勝家は家臣の安井左近に守らせたと伝わります。天正十年には、加賀一向一揆の最後の拠点となった鳥越城が陥落し、加賀一向一揆が壊滅すると和田山城も役割を終え、その頃廃城となったと考えられ、今見る和田山城の遺構はその頃のものとされています。
 過日の東海古城研究会の日帰りバス見学会で訪れました。資料は(1)見学会当日の資料 と (2)加賀中世城郭図面集 佐伯哲也 2017です。  ※鳥越城の記事は→こちら


和田山城 現地案内看板 古墳を三ヵ所取り込んで東側と北側の防御が厚い
 和田山城は南側の9号墳と14号墳を取り込んで築かれた部分が本丸(主郭)で、8号墳を取り込んだ櫓台、中央部には二ノ丸がありました。二の丸と本丸の間には、この城の特徴となっている茀土居と名づけられた土塁が築かれています。
 虎口はA方面(東)が大手でB方面(西)が搦手とされ、東は金沢御坊や鳥越城からの攻撃を想定した構になっていると説明がありました。また北側に伸びる尾根からの侵入にも厳重に備えていました。


和田山城 主郭  櫓台から南に伸びる土塁状地形 櫓台(9号墳)を中心に平坦面が取り巻く 見どころです
 現地案内板の城絵図の「断面図」で示されているように、本丸の櫓台から東側に向けての守りの備えはとても厳重になっています。土塁状地形も東側に向けての守りの備えだった可能性があります。
 資料(2)ではA側の虎口ら侵入した敵は犬走を進む間じゅう、茀土居、櫓台、本丸土居からの攻撃を受け続けて攻撃側に多大の被害をもたらす構造と解説されています。
 一方、本丸の西側は腰曲輪があるだけで、東側と比べると格段に防御態勢が手薄だとわかります。金沢御坊や鳥越城からの攻撃を想定した結果がここに出ているのではないでしょうか。


和田山城 本丸東側の構造 帯曲輪、空堀、犬走が設けられ その上に本丸がある 南から
 ブッシュでよく見えない部分もありますが、城絵図の断面図通りの遺構が残っていました。ここでの守りの要は山下から腰曲輪に至るまでの急な斜面と、空堀から犬走に至る切岸だと思われます。ここも見どころの一つでした。


和田山城 本丸 櫓台と本丸土居。間に平坦面がある。  北から
 櫓台(9号墳)東側の土居は低いものでした。古墳は方墳で平坦面は周溝に手を加えたものかもしれないと思いました。周囲の土居は風化によって低くなった、往時もこの高さで土居上に柵が設けられていたなどが考えられますが確認はできませんでした。


和田山城 本丸北側の櫓台下の大きな窪み (堀)a   西から
 本丸北側の櫓台下には堀aがありました。水を溜める場所ではなさそうでしたので、本丸を守る空堀ではないかと思いました。


和田山城 茀土居 本丸北側の櫓台から土橋を通って茀土居に至る  土橋左手に堀a 南(本丸側)から
 本丸北側の櫓台側面から、土橋経由で茀(かざし)土居ヘ通じています。この茀土居はA方面から侵入する敵に備えたものだと思われます。現地城絵図の「茀土居」は他では見かけることが殆どない表記で珍しいと思いましたが、ここでは現地案内板の表記に従った記述としました。
※ネット情報などによると「茀土居」は「翳し土塁」とも呼ばれ、虎口を隠すため、虎口の外側に設けるとされるようです。


和田山城 8号墳を利用した櫓台の北側には、幅広の空堀が設けられている 北から
 和田山城の守りの弱点は、北側の尾根続きからの敵の侵入です。対策として古墳を利用した櫓台と北側尾根を断ち切る幅広空堀を設けていました。幅の割に深さが浅いのが気になりますが、ヒョットすると風化で埋まっていて、往時はもっと深い堀で、切岸も急だったかもしれないと想像しました。ここも見どころ!


和田山城 8号墳を利用した櫓台の東側の空堀 南から
 櫓台の東側の空堀の対岸の土塁は通路になっていました。北側程は幅が広くありませんが表面はとても滑らかでした。この櫓台の空堀は8号墳の周溝を利用し、手を加えたもののようにも見えました。

和田山城は古墳を見事に利用した城郭で、遺構の残りも良好でした。当日資料と担当役員さんの的確な解説もあり大満足の見学が出来ました。