城と歴史歩きを楽しむ

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美濃・城ヶ平城 2019年に確認された山城。ここも明智光秀生誕の多羅城の候補地

2020-11-09 | 歴史

城ヶ平城は岐阜県大垣市上石津町にあります。以前から城跡があると伝承されていた場所ですが2019年に中井 均さんの調査が行われ山城だと確認されました。 
 明智光秀の生誕地はあちこちが名乗りを上げていますが、ここ上石津の多羅城もその一つです。これまで多羅城は西高木家陣屋の場所が考えられてきましたが、城ヶ平城が確認され、樫原城が新発見されたために多羅城の候補地が3ヶ所になりました。  ※新発見の樫原城は→こちら


城ヶ平城 羽ヶ原からの見学路が整備されている Aの平場は屋敷地か Bの平場は遺構か
 羽ヶ原の駐車スペースに駐車して、多良歴史同好会などにより整備された歩きやすい見学路をたどります。
馬瀬側からの道もあるようですが、羽ヶ原側からの見学路がわかりやすいようです。城ヶ平城の東下、Aの大きな平場、西側の平場Bも城郭関連かどうか気になるところです。


城ヶ平城 羽ヶ原の駐車スペースからの見学路入口の門 害獣対策も兼ねている
 明智光秀ゆかりの多羅城の候補地の一つとして、まちづくり協議会などにより整備されているようです。付近に駐車スペースがありました。


城ヶ平城 城址入口に立つ案内板の縄張り図 (作図:中井 均さん)
 方形単郭の土の山城で、主郭東辺中央に櫓台を備えた虎口が一か所ありました。往時は南側にも土塁があって四囲を土塁がめぐっていたのではないかと思いました。Aの平場は現在は植林された林ですが、それ以前は耕作地だったかも知れません。城が稼働していた時期には居館があったかもしれないと思わせる地形でした。


城ヶ平城 城址への見学路の入口、奥上に主郭 案内板やベンチなどが設けられている      南のA方向から
 見学路はここから直接城址へ進むようになっていますが、往時の入口は南側にあったように見えました。


城ヶ平城 図2の2.横堀  北から 横堀跡の表示板が設置されている
 主郭東辺下部の2.横堀は一部に風化はあるものの、ほぼ完存状態で見どころの一つでした。この土塁は北側の川まで延び、北側下壇の平場も区切っていました。


城ヶ平城 主郭内部から櫓台のある虎口を見る 右手の高まりが 4.櫓台
 2.横堀からの城道は3度折れて虎口にはいります。虎口には枡形があったと思われる段差が認められました。4.櫓台は風化でこんもりと丸まって見えますが、往時は平らで何らかの設備があったのではないかと想像しました。主郭内部には井戸跡とされる土坑を含め5ヶ所ほどの窪みがありました。


城ヶ平城 主郭と2.横堀の間にある横堀・土塁遺構①  南から
 ①は塹壕状の地形をした遺構で、東側から2.横堀を突破した侵入してくる敵を上から攻撃する施設のように見えました。ほぼ同じ高さにある、南側の横堀と土塁の備えも同じ役割かも知れませんね。


城ヶ平城 3.竪堀 上から   南側からの堀がこの地点で竪堀となって落ちている
 城ヶ平城はコンパクトながら多くの城パーツが揃っていて、楽しめます。この竪堀も残りが良くて明確でした。


城ヶ平城 南西下の溝地形②は堀跡か?道跡か?       白っぽいのが見学路
 図2の②には溝地形が西側へ延びていました。東側は途中から見学路の新設によって失われていましたが、堀跡のようにも見える地形でした。西側へたどってみると途中であいまいな地形となり、明確な判断はできませんでした。ひょっとすると古い道なのかもしれなとも思いました。


城ヶ平城 Aの南辺 西から 土塁状地形の幅は約2mある
 図1で見るようにAの平場は平坦面になっており植林されていました。Aの南辺には幅約2mの土塁状の地形が続いていました。自然地形ではないようですが、植林される以前、Aは山畑だったかもしれません。さらに想像をたくましくして、往時には居館の建つ屋敷地だったというのは、どうでしょう。

主郭西側のの平場は、堀と土塁で主郭と切り離されていました。今は放棄された茶畑跡でしたが、城郭関連かどうかは茶畑造成で改変されたようで確認できませんでした。

城ヶ平城はコンパクトながら紹介しきれないほどの遺構がギュッと詰まった、見どころの多い城址で、程よく整備されていてとても楽しめて大満足でした。 整備に関わった地元の歴史同好会、まちづくり協議会の方々に感謝!

※見学路入り口の門にあった注意書きの写真を帰宅してから見返すと、ヤマビルの発生が書かれていました。この日ヤマビル初体験で血だらけになったのは、ここだったかもしれません。みなさんもご注意を!


 


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