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三河・山中城 地元伝承の遺構が入り混じり興味深い見学が出来る山城

2020-02-04 | 歴史

山中城(大給)は愛知県豊田市九久平町の山中地区にあります。山中城という城址は各地にありますので、区別するために大給山中城と呼ぶ情報も見られますが、地元では山中城と呼んでいますのでここでは山中城としました。
 今回は「愛城研報告 第14号」愛知中世城郭研究会編2010.8 を参考資料として、数年ぶりに再度見学に出かけました。
 

山中城 大給城の南に位置し、大給より先に存在したかもしれない位置にある(仮説) 
 大給城は有名ですが山中城はあまり知られていません。資料によれば、仮説として大給よりも先に山中に城が構えられた可能性が述べられています。現在は国道301号線が谷合の岩盤を削って通り大給城の北側がメイン道路ですが、往時は巴川の九牛土場→九久平城→山中→林添(はやしぞれ)と進み、松平に至る道が往還だったかもしれないという仮説も成り立ちそうに思います。

 以前訪れた時に、帰り際に地元の熱心な方に山中城の手作り図(地元絵図)をいただいたので、今回はこの図も参考にしながら見学しました。


山中城 地元伝承に基ずく山中城の曲輪・櫓と山中古戦場址の図(地元絵図)   図1と対比しながらご覧ください
 資料によると、この時期松平権兵衛重弘が山中城には居なかったので(山中宿古城に居た)、伝承に混同と誤りがあると考えられるとされています。


     
山中城 周辺地図に地元絵図の概略位置を書き込んだ図(図1)
 案内板によると山中古戦場は弘治元年(1555)今川方の犬居城主天野景泰が攻撃し織田方の松平軍が反撃して打撃を与えたとされています。
 
山中城 山中城の両翼の尾根に囲まれた谷地形に民家があるが、往時は城主屋敷地もここにあったかも
 北・東・西を尾根で囲まれ内部の谷地形に平坦面を造成して住宅が建っていました。往時もこれに近い地形だった可能性がありそうに思いました。


山中城 絵図で東側尾根に描かれた曲輪 図1①②③ 東から見る
 絵図では2段の曲輪が描かれていますが、現地で見ると3段の削平地がありました。後世の耕作地の可能性もあるので、曲輪と断定するのは難しそうですが、曲輪であってもおかしくない地形でした。


山中城 山中古戦場 絵図ではこの辺り? 山道は残るが遺構は見当たらず
 図1の「案内板」では大給山中古戦場の説明がされていましたが、具体的な場所は示されていませんでした。地元絵図では山中古戦場址として描きこまれていましたので、山道をたどって付近を探索してみましたが、自然地形でした。ここで戦いがあったとしても遺構として残る施設はもともとなかった可能性が高そうですね。


山中城 Ⅰ郭(主郭)円内に城主墓碑 土塁はなく防御は切岸のみ  東から
 Ⅰ郭は土塁などの遺構は見当たりませんでした。資料によると、廃城となった時代から見て、やや古いタイプの城だったようで、防御は切岸のみだった可能性がありそうです。
 写真の主郭下の円内には宗教施設跡と見える遺構と城主・松平権兵衛重弘墓碑と書かれた標柱と石造物がありました。


山中城 Ⅰ郭下の宗教施設跡   左側の石造物が城主松平権兵衛重弘墓碑とされる
 墓碑とされる石造物の墓碑銘は全く読めない。写真左端の標柱は以前訪れた時に写したもので、今回見ると朽ちて付近に転がっていました。文字もほとんど読めませんでした。
 否定的に見ると、かつて祀られていた宗教施設の左右に灯篭があり左側の灯篭はひどく傷んだ状態になっているように見えます。右側は火袋と傘が欠落したように煮えますが、どうでしょう。


山中城 伝承だけでなく城郭遺構もしっかり残っていました。図1 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ郭
 地元絵図による伝承地だけでなく城郭遺構もしっかり残されていました。資料の縄張図には記号が振ってありませんでしたので、適当に付けた記号になっています。記号の位置は図1 に対応しています。
 Ⅰ郭以外も土塁はなく切岸のみの防御施設の様でした。Ⅲ郭には竪堀状の地形がありましたので堀・堀切は用いられていたようですね。


山中城 南尾根のⅡ郭虎口 南から 今はAに見えるがBだった可能性も
 南尾根には主郭からⅡ郭、Ⅳ郭と曲輪がありました。写真はⅡ郭を下段のⅣ郭から見たところですが、Ⅱ郭には切岸しかありません。虎口はAのように見えますが、後世の山道かもしれないと思いました。ひょっとすると往時の虎口はBのように回り込んでいたかもしれないと思いました。そのつもりで見るとそれらしい地形に見えました。


山中城 図1のア地点 北尾根先端部の最高所 地元絵図の砦やぐらに該当?
 地元絵図の本丸(Ⅰ郭)から北に伸びる尾根上には所々に平坦地イなどがありました。図で「大給城へ至ル」とされる道もこれだろうという山道がありました。その先にある「砦やぐら」とされる地形が位置などから写真の地形アではないかと推定しました。番所とされる場所は不明でした。


山中城 南尾根の曲輪④ 下から
 Ⅰ郭から南に伸びる尾根のⅣ郭の南下には「表門」の表示板がありました。Ⅳ郭は自然地形に近く、明確な遺構と断定することが難しいので、資料でも伝承の範囲として扱われています。
 さらに尾根を下ると地元絵図で曲輪の見張岩とされる大岩が見られました。曲輪は明確でなく、自然地形にも見える状態でした。
 さらに下ると、地元絵図で山中観音堂の上に描かれている曲輪と大岩付近に出ますが「この大岩は石材として戦後運び出されたので今は無い」と以前お目にかかった地元の方にお聞きしました。この付近は後世の道などで大きく改変されているので曲輪などの確認もできませんでした。
 ※山中観音堂は今は無くなったようで、跡地が残されていました。

地元絵図を見ながら想像を膨らませながらの見学で、主郭付近だけでなく周辺部の探索も出来、楽しい城巡りとなりました。 駐車は路幅の広いスペースを利用しました。

 

 

 

 

 

 

 


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