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齢松山城 信濃 城郭遺構の残りが良好 城域を取り巻く鬼場新汐も興味深い

2024-09-05 | 歴史
齢松山城は長野県茅野市本町にあります。上原城の東の備えとして築かれ、諏訪氏の支族 矢ヶ崎氏が居城したとされます。城域を取り巻くように残る鬼場新汐(堰)の跡は江戸期に設けられた農業用水路ですが、その歴史も興味深いものがあります。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館 6」宮坂武男著2013 (2)ひなたGIS長野県立体図 (3)Ⅰ郭に立つ案内板 などです。
齢松山城 齢松山は南下の福寿院の山号にちなんで名付けられた
 齢松山城は上原城の諏訪氏の支城として東に隣接する鬼場城よりも古く、鬼場城が築かれると重点は鬼場城に移ったと考えられています。
齢松山城 Ⅰ郭 Ⅱ郭 堀切 三五郎(さぐろ)   鬼場新汐 などが読み取れる
 鬼場新汐跡が帯曲輪のように城域を巻いていますが、江戸期に作られたもので、城郭遺構とは関係がないようです。
齢松山城 城道不明でaからエィヤッ!で登りbで帰りました
 城道が分かりませんでしたのでaからエィヤッ!で登り鬼場新汐跡を通り越してⅠ郭を目指して斜面を登りました。ヒョットするとb→三五郎→竪堀アの堀底道を登るのが城道だったのかもしれません。

齢松山城 三五郎の平場 南西から
 資料(1)では三五郎は城域外の可能性が記されていました。後世の造成による平場で耕作地ということかもしれませんが、城道は通っていたかもしれないと想像しました。

齢松山城 堀切ア 右上にⅠ郭(主郭)北西から 見どころです
 堀切アの北側部分は斜面に沿って傾斜の緩い竪堀城の地形でした。他に城道を見つけられませんでしたので、城道はこの堀底を登ったのかもしれないと思いましたがどうでしょう。登り切った部分は写真のように幅広の堀でした。資料(1)では、堀切ウとの二重堀の可能性を記していました。

齢松山城 堀切ウ 北西上から
 現況では堀切アから派生して切れ落ちる竪堀のように見えますが、アとは別の二重堀切だったかもしれません。

齢松山城 Ⅰ郭の土塁4の北東辺 北西から 左下に堀切ア
 最高所のⅠ郭{主郭}は方形の郭で三方に土塁が在りブッシュが繁茂していました。資料(1)では北西辺にも土塁が在った可能性が記されていました。、

齢松山城 Ⅰ郭に立つ案内板
 案内板の内容は、資料(1)に基づいているようでした。

齢松山城 腰曲輪Ⅲと溝地形エ 東から 左上にⅠ郭
 資料(1)の図にはⅠ郭の切岸下部のⅢ郭に溝状の地形エが描かれていましたが現況は明確ではありませんでした。この溝状地形は南西に切落ちて竪堀となっていました。

齢松山城 Ⅲ郭の地形エの土坑5 北から 奥上にⅠ郭
 溝状地形エの途中に、土坑がありました。沢水は西側の谷間で降りないと得られませんので、城内の井戸だったかもしれません。

齢松山城 地形エ 竪堀部分 南西下から
 地形エは南西下に竪堀となって切れ落ちていました。

齢松山城 Ⅱ郭 南東から
 Ⅱ郭は面積の広い、削平が甘い郭で、写真のように樹木とブッシュが繁茂して見通せない状態でした。

齢松山城 Ⅱ郭 北東辺の堀切オ 北西から 右にⅡ郭 左に土塁6
 堀切オは北東の尾根を断ち切りⅡ郭の切岸を造り出していました。土塁6は堀切オの土を掘り上げただけのようで、低い土塁でした。

齢松山城 城域を取り巻く鬼場新汐(堰)
 鬼場新汐は江戸時代に坂本養川の尽力により開削された新汐(堰)の一つです。新田開発が盛んに行われ水田が増え、干ばつの際に水不足で凶作が広がるのを恐れた高島藩はせっかく作った新田を潰しにかかりました。坂本養川は合理的な多数の堰と水路の建設により水の再配分をすることで新田の水の確保ができることを長年にわたって藩に訴えついには実現し、多くの新田を守ったと伝わります。

齢松山城はコンパクトな山城ですが、遺構の残りが良好で、鬼場新汐も同時にに楽しく見学することが出来てよかったです。