岡崎城は愛知県岡崎市にあります。徳川家康の生誕地として知られ、若き日の家康が桶狭間合戦の後10年間を過ごしました。城郭としての歴史は15世紀中頃の西郷氏まで遡りますが、今見る岡崎城は江戸期に何度も改修が繰り返された姿となっています。今回は東海古城研究会の半日見学会が行われ、普段は立ち入ることが出来ない清海堀の探索と城内の石垣や堀、岡崎城に付随する大林寺の見学でした。当日資料と石垣めぐりのパンフレットなどを参照し、担当者の説明を聞きながら見学しました。
岡崎城 見学ルート 国土地図に見学先とルートを加筆
岡崎城は明治以降、城域の跡地を県役所、図書館、病院、裁判所、動物園、スケートリンクなどに利用し、公園化も進められ、河川の開削改修などもされてきたため現在、城郭遺構として見ることが出来るのは一部にとどまりますが、発掘調査や残された絵図、古文書などで往時の姿を想像することがかなりできます。今回の見学会では発掘調査結果や最新の研究成果を盛り込んだ資料と説明が行われました。
岡崎城 清海堀を探索しよう!
岡崎城に残る貴重な城郭遺構として往時の姿を見ることが出来る清海堀は、通常は上から眺めるだけですが、今回は堀底に降りての見学が出来ました。
岡崎城 清海堀探索用の特設階段
現況の清海堀は深さが地表面から8m程ありますので廊下橋に特設階段が設けられていました。廊下橋も普段は立ち入り禁止です。
岡崎城 清海堀 西から 右に天守北側切岸 左に田中吉政時代の石垣
清海堀の見学は全員ヘルメットをかぶって行われました。現地には簡単な案内板が立っていました。ここでも担当者の説明がありました。堀は少し埋まっているようで、本来の堀底から天端までは9mを超えるようです。
岡崎城 清海堀 東から
最新研究によると、清海堀は小牧長久手の戦いの前後に、秀吉の三河侵攻に備えて矢作川を防衛線にした家康が、岡崎城を改修強化し本丸の北側に大規模な薬研掘りを開削したとされます。後に家康の関東移封で岡崎城に入った田中吉政が写真右側の石垣を積んで補強したとの説明が在りました。
岡崎城 持仏堂曲輪と堀1 北から
持仏堂曲輪は大手馬出とセットでの馬出だったとされます。持仏堂の名は、家康の持仏(黒本尊)が祀られていたことに由来するとされ、黒本尊は現在東京の増上寺に祀られていると説明がありました。曲輪を取り巻く堀1は土の堀で一部に崩落対策と思われる石垣が見られました。
岡崎城 清海堀の外側の堀2 ここも薬研堀だったか
岡崎城の北側には何重にも堀が設けられ厳重な守りになっていました。清海堀の一つ外側の堀2は持仏堂曲輪の堀1と一体の堀で石垣のない土の堀ですが、清海堀に劣らない規模の大きな堀で見どころでした。
岡崎城 巽櫓 二段の高石垣 東から
大手馬出から二の丸に向かう途中で巽櫓の高石垣と隠居曲輪を見学しました。高石垣の算木積の角は積んでから整形した比較的新しい石垣との説明がありました。高石垣上段の石垣はもっと新しい積み直しに見えました。
■実は岡崎城の清海堀は口伝の伝承しかなく、どの堀を指すのか明確ではない中で、今回探索したした堀を一応清海堀と呼んでいます。最新の研究で、大手馬出から二の丸を通り大林寺に向かう途中にあった堀(清海堀)が江戸期に書き残され文字に残る唯一の資料で清海堀と呼ばれる堀だったとされます。(清海堀)は消滅しましたので、ここに在ったと説明がありました。
※初期の岡崎城は二の丸辺りに築かれた館城でその北側に設けられた堀が(清海堀)ということです。
■岡崎城 大手門 ※消滅 ・遠望での説明
大手門は江戸時代の絵図に描かれています。後世の攪乱があって発掘調査では明確な遺構は見あたらなかったと説明が在りました。
■岡崎城 大林寺郭堀 ※消滅
大林寺郭堀は谷地形を利用した大きな堀で、発掘調査で二段積みの高い石垣が確認されたと説明が在りました。今は埋め立てられて、図書館やマンションが建っています。
岡崎城 大林寺 松平清康 広忠 西郷氏 などの墓地がある
大林寺の創建は松平氏以前にこの地を領した西郷氏の創建とされます。後に松平氏が岡崎を領し徳川家康が出たため、松平氏に結び付ける伝承が岡崎城や大林寺に沢山生まれました。大林寺の開創についても複数の説があると説明が在りました。
岡崎城 本丸西側の堀3 北から ・大林寺から二の丸に戻り坂谷門に向かう
本丸西側は腰巻石垣が取巻く高い切岸の部分と高い石垣が積まれた部分とが在りました。石垣は改修が重ねられたようで新旧の石垣が入り混じっていました。持仏堂曲輪の西下には家康の産湯の井戸と坂谷邸(坂谷曲輪)があり家康はここで生まれたと伝えられています。
岡崎城 坂谷門北から 右下の水面が伊賀川 ・遺構は発掘調査後整備された
現在、坂谷門の西側には図1のように伊賀川が流れていますが、もとは丸馬出のある白山曲輪が在りました。伊賀川は大正4年に付替え工事で坂谷門の西側が開削され白山曲輪と丸馬出は消滅しました。
岡崎城 発掘調査時の坂谷門 東から 奥に伊賀川
坂谷門周辺の発掘調査が行われ、門の礎石などが検出され城絵図に描かれた門や枡形とほぼ合致することが確認されたと説明がありました。※坂谷門 発掘調査は→こちら
■坂谷門→本丸埋門→本丸天守台石垣→風呂谷曲輪のルートで担当者の説明を聞きながら見学しました。
岡崎城 風呂谷曲輪の石垣の折れ(横矢) 水堀越しの東から
風呂谷曲輪は行き止まりの曲輪で石垣には横矢の掛かる折れが見られました。風呂の名称から茶道に関連した場所、家康はここに在った屋敷で生まれたなどの諸説があると説明がありました。
岡崎城 菅生川端石垣 最近積みなおされた横矢枡形
岡崎城 積み直される前の菅生川端石垣の横矢枡形 樹木の根で壊されている
菅生川端石垣は近年の発掘調査で高さ5mの石垣が400mにわたって築かれ、途中3ヶ所に横矢枡形が張り出していたことが確認されました。発掘調査後に傷んだ石垣が石都岡崎の石工さんによって穴太衆の協力を得て積み直されたと説明が在りました。
・菅生川端石垣→菅生曲輪→南切通→浄瑠璃姫供養塔→○解散
■菅生曲輪
菅生曲輪はかつて菅生川が流れ込んでいたとされ埋立てて侍屋敷が作られたと説明が在りました。
■南切通
岡崎城は何段階かの拡張工事が行われていますが、南切通が堀切で城域の東端部だった時代があり、その後拡張され菅生曲輪などが出来て切通との道になったと説明が在りました。
■新城(備前曲輪) ・遠望での説明
新城は松平家忠日記に登場し、武田勝頼の三河侵入に備えたとされます。後に伊奈備前守忠次が住したため備前曲輪と言われるようになった、家忠日記によると諏訪原城と同じころ、岡崎城の出城として築かれたと説明がありました。今は高層マンションの建設中でした。
■浄瑠璃姫供養塔
浄瑠璃姫は義経との関連で語られ、菅生川に身を投げたとされ、その供養塔が建っていました。岡崎城の浄瑠璃曲輪も供養する光明寺(浄瑠璃寺)が有るので浄瑠璃曲輪と名付けられたということです。
○見学会はここまででした 解散。
以上、約3時間の見学会でしたが、意外に見どころの多い岡崎城でした。